朽木稙治
朽木 稙治(くつき たねはる)は、丹波国福知山藩の第4代藩主。福知山藩朽木家5代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛文5年11月7日(1665年12月13日) |
死没 | 寛保元年7月28日(1741年9月7日) |
改名 | 万吉(幼名)、稙治、英山(法号) |
戒名 | 常智院殿孤峰無住大居士 |
墓所 | 東京都港区南麻生の光林寺 |
官位 | 従五位下・土佐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 丹波福知山藩主 |
氏族 | 朽木氏 |
父母 | 父:朽木稙昌、母:岡部宣勝の娘・作姫 |
兄弟 | 稙元、稙治、土屋秀直、稙栄、昌充、迪綱、久、大田原純清正室、近藤政徳正室、池田政森正室、水谷勝時正室、藤堂良端正室 |
妻 |
正室:なし 側室:正行院 |
子 | 養子:昌充、迪綱、綱貞、玄綱 |
生涯
編集寛文5年(1665年)11月7日、初代藩主(当時は常陸国土浦藩主)朽木稙昌の次男として生まれる。延宝7年(1679年)3月13日、将軍・徳川家綱に拝謁する。元禄7年(1694年)3月9日、将軍・徳川綱吉の中奥小姓に任じられる。元禄9年12月22日(1697年)、従五位下・土佐守に叙任する。宝永5年(1708年)6月25日、稙昌の隠居に伴い家督を継いだ兄・稙元から3,000石を与えられ、正式に分家して旗本となる。宝永7年、小姓組番頭に就任する。享保2年(1717年)12月9日、病気のために小姓組番頭を辞任する。
享保11年(1726年)5月11日、稙元の子で第3代藩主の稙綱が早世したため、本家の家督を継いだ。3,000石は幕府に収公された。荻生徂徠と親交があったため、藩政では文治の発展に尽力した。
稙治は子どもに恵まれず、旗本であったころに弟の昌充や迪綱を養子に迎えた。しかし相次いで死去したため、迪綱の子の綱貞を継嗣にした。大名になったころに、綱貞が病弱な上に不和になったため廃嫡し、美濃国岩村藩(大給松平家)から、これも甥にあたる玄綱を養子として迎え、享保13年(1728年)11月23日に家督を譲って隠居した。
その後は大久保下屋敷に住んで剃髪し、英山と号した。寛保元年(1741年)7月28日に死去した。享年77。
系譜
編集稙昌1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稙元2 | 稙治4 | 昌充 | 迪綱 | 久 | 松平乗紀岩村1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稙綱3 | 綱貞6 | 玄綱5 | 松平乗賢岩村2 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昌綱8 | 舖綱7 | 松平乗保岩村4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本多康禎 | 綱方10 | 米倉昌寿 | 倫綱9 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱張12 | 健 | 綱紀綱条養子 | 綱条11 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
為綱13 | 恒子 | 紘綱綱張養子 | 女 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連項目
編集- 馬鋸 - 一説によれば、詰将棋の手順の一種「馬鋸」を文献上で最初に収録している、『象戯大矢数(しょうぎおおやかず)』(1697年刊)の作者(あるいは編者)は朽木稙治とされる(異論もある)。