米倉昌寿
米倉 昌寿(よねくら まさなが)は、江戸時代後期の大名。武蔵国金沢藩7代藩主。六浦藩米倉家10代。官位は従五位下・丹後守。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政5年1月11日(1793年2月21日) |
死没 | 文久3年3月20日(1863年5月7日) |
戒名 | 金陵竜渓昌寿院 |
墓所 | 東京都渋谷区の長谷寺 |
官位 | 従五位下丹後守 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番 |
主君 | 徳川家斉、家慶、家定、家茂 |
藩 | 武蔵金沢藩主 |
氏族 | 朽木氏、米倉氏 |
父母 |
朽木昌綱 米倉昌俊 |
兄弟 | 唯之助、朽木綱方、昌寿、福寿太郎 |
妻 |
間部詮熙娘・慶 板倉勝長娘・演暢院 |
子 |
朽木紘綱、昌言、池田頼誠、昌慧、 安部信発、正直、昌邦、本多助実継室、 恒子ら |
略歴
編集寛政5年(1793年)1月11日、丹波国福知山藩8代藩主・朽木昌綱の三男として誕生。文化9年(1812年)6月10日、6代藩主・米倉昌俊が死去したため、その養子として家督を継いだ。同年6月13日、11代将軍・徳川家斉に御目見する。
一橋門番や馬場先門番、和田倉門番、田安門番、竹橋門番などを歴任し、天保7年(1836年)11月に大坂京橋口定番となるが、天保9年(1838年)に不手際を起こして処罰されている。安政4年(1857年)閏5月1日、奏者番に就任する。万延元年(1860年)6月24日に六男・昌言に家督を譲って隠居した。
系譜
編集父母
正室、継室
子女
- 朽木紘綱[1](五男)
- 米倉昌言(六男)生母は演暢院(継室)
- 池田頼誠[2](七男)
- 米倉昌慧
- 安部信発[3](九男)
- 米倉正直
- 米倉昌邦
- 本多助実継室、生母は円成院(正室)
- 米倉恒子 ー 朽木為綱正室