山川泰邦
山川泰邦(やまかわ やすくに(たいほう)、1908年(明治41年)8月8日 - 1991年(平成3年)5月4日)は、琉球政府および沖縄県の政治家・教育者・警察官である。1958年(昭和33年)からは立法院議員に5期連続で当選し、1967年(昭和42年)からは立法院議長を務めた。
山川 泰邦 やまかわ やすくに | |
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1960年代、立法院議員時代。 | |
生年月日 | 1908年8月8日 |
出生地 | 沖縄県国頭郡本部町 |
没年月日 | 1991年5月4日(82歳没) |
所属政党 |
(沖縄自由民主党→) 自由民主党 |
称号 | 勲四等旭日小綬章 |
配偶者 | 妻・山川博子 |
親族 |
山川一郎(長男、元那覇市助役)、 山川泰博(孫)、山川仁(孫) |
第8代琉球政府立法院議長 | |
在任期間 | 1967年5月12日 - 1968年11月30日 |
第4代琉球政府立法院副議長 | |
在任期間 | 1960年12月1日 - 1967年5月12日 |
在任期間 | 1953年9月1日 - 1957年 |
在任期間 | 1952年9月22日 - 1953年 |
警察部教養課長 警察学校長(兼任) | |
在任期間 | 1951年1月20日 - 1952年 |
生涯
編集1934年(昭和9年)に警察官を拝命し、太平洋戦争でアメリカ軍の反攻が本格化し始めた1944年(昭和19年)においては、那覇警察署副署長の務めとして、学童、老幼婦女子の疎開に尽力した[1]。
沖縄戦後は、琉球警察学校の校長(1951年)、本部町、石川市(現在はうるま市)、前原市(現在はうるま市)、那覇市の各警察署長を歴任した。
1953年(昭和28年)には琉球政府比嘉秀平初代行政主席の要請を受けて、琉球政府社会局長に就任し、福祉三法、労働三法、援護法などの実施に取り組み、援護業務などに携わった。
1958年(昭和33年)からは立法院議員に転身し、1967年(昭和42年)からは立法院議長を務めた[2]。
その後、1970年国政参加選挙(自由民主党公認)と1972年第33回衆議院議員総選挙(無所属)にも出馬したが、落選した。
著書
編集- 『秘録 沖縄戦記』(新星出版)
- 『我が回顧録とスピーチ』(セントラル印刷)
- 『秘録 沖縄戦記』(読売新聞社)
- 『秘録 沖縄戦史』(沖縄グラフ社)