崇神天皇
崇神天皇(すじんてんのう、旧字体:崇神󠄀天皇、開化天皇9年または10年[注 1] - 崇神天皇68年12月5日[1])は、日本の第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。『日本書紀』での名は、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる
崇神天皇 | |
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『御歴代百廿一天皇御尊影』より「崇神天皇」 | |
時代 | 伝承の時代(古墳時代) |
先代 | 開化天皇 |
次代 | 垂仁天皇 |
誕生 | 開化天皇9年または10年 |
崩御 | 崇神天皇68年 120歳 |
陵所 | 山邊道勾岡上陵 |
漢風諡号 | 崇神天皇 |
和風諡号 | 御間城入彦五十瓊殖天皇 |
諱 | 御間城入彦尊 |
別称 | 御肇國天皇・御眞木入日子印恵命・所知初國御眞木天皇・美萬貴天皇 |
父親 | 開化天皇 |
母親 | 伊香色謎命 |
皇后 | 御間城姫(孝元天皇皇孫) |
子女 | 垂仁天皇・彦五十狭茅命・国方姫命・千千衝倭姫命・倭彦命・五十日鶴彦命・豊城入彦命・豊鍬入姫命・大入杵命・八坂入彦命・渟名城入姫命・十市瓊入姫命 |
皇居 | 磯城瑞籬宮 |
略歴
編集稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる。異母兄に彦湯産隅命(迦具夜比売命の祖)。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の祖)。『古事記』は同母妹として后と同名の御真津比売命を記す。19歳で皇太子となる。
父帝が崩御した翌年の1月13日に即位。2月16日に従妹の御間城姫を皇后とし、活目尊(後の垂仁天皇)や倭彦命らを得た。即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、大物主神などの神々を祀ることで治めた。即位10年、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱を鎮め、四道将軍を各地に派遣した。即位12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている。即位65年、任那から朝貢があった。即位68年、崩御。
名
編集- 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』
- 御間城天皇(みまきのすめらみこと) - 『日本書紀』
- 御間城入彦尊(みまきいりひこのみこと) - 『日本書紀』
- 御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
- 御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
- 所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』
- 美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 『常陸国風土記』
事績
編集疫病と祭祀
編集即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した。
即位4年、詔を発して万世一系を謳った。
即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた[3][注 2]。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬[注 3]に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。
即位7年、「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜にて見極めよう。」と詔して、神浅茅原に幸して八百万の神を集めて占った。すると倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。そこで天皇は沐浴斎戒して宮殿を中を清めて、「願わくば夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈った。するとその夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子を以って我を祭ればたちどころに平安となる。」と告げた。続いて倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市(いちしのながおち)にせよという神託を受けた。そこで天皇はおじの伊香色雄に命じて物部の八十平瓮(やそひらか)を作らせ、大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子を探し出して大物主神を祭る神主とした。三輪山を御神体とする大神神社の始まりである。また市磯長尾市を倭大国魂神を祭る神主とし、八十万(やそよろず)の群神を祭った。すると疫病は終息して五穀豊穣となった。
即位8年、活日(いくひ)という者を大神の掌酒(さかびと)とした。そして活日が神酒を捧げて歌を詠み、続けて諸大夫(役人)と天皇もそれぞれ歌を詠んだ。
此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇)
即位9年、天皇は神が夢に現れたと称し大和国の東の隅に座す墨坂神を赤い盾と矛、西の隅に座す大坂神を黒い(『古事記』では墨色)盾と矛をもって祀った[注 4]。『古事記』ではこれに続いて全ての坂の神や瀬の神に、文字通り隅から隅まで幣帛を奉って疫病が終息したとしている。
四道将軍
編集即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させることとなった。しかし北陸へ出発した大彦命は和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)で現れた不思議な童女から不吉な歌を聴くことになる。
御真木入日子はや 己が命を 殺せむと 竊まく知らに 姫遊すも
大城戸より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも
引き返して報告したところ、倭迹迹日百襲姫命がさらに詳細な予言を行った。その結果、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)が謀反を起こそうとしていることがわかった。叛乱が露見した武埴安彦は山背から、妻の吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の武埴安彦勢には大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせて打ち破った。叛乱終息後に四道将軍は再出発し、翌年に帰還して戎夷を従わせたことを報告した。また北陸道を進んだ大彦命と東海道を進んだ武渟川別の親子が合流した土地を相津(会津)という。
御肇国天皇
編集即位12年、戸口を調査して初めて課役を課した。この偉業をもって御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられている。『古事記』には天下を統一して平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。
即位17年、献上品を運び込むための船を作らせた。
即位48年、豊城命と活目尊を呼んで夢占いを行い弟の活目尊を皇太子とした。兄の豊城命には東国を治めさせた。
即位62年、灌漑事業を行って依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)[4]や軽(奈良県高市郡)の酒折池(さかをりのいけ)、苅坂池(かりさかのいけ)を開き大いに農業の便を図ったと伝えられる。
即位65年、任那が使者として蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきた。素戔嗚尊が新羅に天降ったという異伝を除けば『日本書紀』において初めての朝鮮半島関連の記録である[注 5]。
即位68年、崩御。蘇那曷叱知は活目尊(垂仁天皇)の即位2年に任那へ帰国したが、その際に天皇からの下賜品を新羅に奪われてしまった。『日本書紀』における任那と新羅の抗争はここから始まる。
系譜
編集系図
編集10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
編集年譜
編集『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[5]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
宮
編集宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、『古事記』では師木水垣宮(しきのみずかきのみや)。伝承地は奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社。
陵・霊廟
編集陵(みささぎ)の名は山邊道勾岡上陵(山辺道勾岡上陵:やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県天理市柳本町にある遺跡名「行燈山古墳」に治定されている。墳丘長242メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。
『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。『延喜式』諸陵寮では「山邊道上陵」として兆域は東西2町・南北2町、守戸1烟で遠陵としている。行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。なお行燈山古墳より少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳、全長220m)を真陵とする考え方もある。また江戸時代には渋谷向山古墳(現・景行陵)が陵墓とされていた。
吉村武彦は行燈山古墳について巨大な前方後円墳は王陵(天皇陵)に間違いなく宮内庁比定の崇神天皇陵はほぼ間違いないだろうと述べている[6]。
伝承
編集箸墓伝説
編集大物主を祀ることで疫病が収まった後、倭迹々日百襲姫命(やまとととびももそひめ)は大物主神の妻となった。大物主神は夜しか現れなかったので、姫はもっとよく御姿を見たいと言った。そこで大物主神は朝に姫の櫛籠に入るから姿を見ても驚かないでほしいと言った。果たして姫が箱の中を見てみると綺麗で小さい蛇がいた。姫は驚いて叫んだ。大物主神は大いに恥じてすぐに人の形に戻り姫を呪った。大物主神が去った後に姫が腰を抜かして座ったところ、箸で陰部を突いてしまいそのまま亡くなった。姫は大市に葬られ墓は箸墓と名付けられた。この墓は昼は人が作り、夜は神が作ったと言われる。墓を作るため人々は列を作ってリレー形式で石を運んだと伝えられ、この様子が歌に詠まれた。
- 大坂に 継ぎ登れる 石群を たごしに越せば 越しがてむかも
なお、倭迹々日百襲姫命は薨去時には少なくとも127歳を超える老婆であった。
出雲振根
編集あるとき、御間城天皇は出雲の宮に治められている神宝を見たいと使者を送った。神宝を管理する出雲振根は筑紫国に行って留守だったが、弟の飯入根が代わりに神宝を献上した。筑紫から帰ってきた出雲振根はなぜあっさりと神宝を渡してしまったのかと怒った。年月を経ても出雲振根の怒りは増すばかりだった。出雲振根は果し合いをするべく飯入根を淵に呼び出した。出雲振根は「水がきれいだ。まず体を清めよう」と言い、二人は服と刀を脱いで水に入った。出雲振根は先に上がって密かに作った真剣そっくりの木刀と弟の真剣をすり替えた。そして果し合いが始まったが飯入根が剣を抜こうとしても抜けない。剣の形をしただけの木なのだから当然である。出雲振根は容赦なく弟を斬り殺した。そこで世の人たちは歌を詠んだ。
- 「や雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身無しに あはれ」
なお、この話は『古事記』で倭建命が出雲建を討つ話と酷似している。
都怒我阿羅斯等
編集都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とは『日本書紀』で垂仁天皇2年条の分注に記載される人物である[7]。説話の時期・内容の類似性から上述の蘇那曷叱知と同一視する説がある。船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着した都怒我阿羅斯等の額には角が生えていたと言い「角鹿(つぬが)」という地名の語源と言われる(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に先皇の名である(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔し、これが任那(弥摩那)の語源とされている。
武渟川別命
編集『日本書紀』によると崇神天皇10年9月9日条では武渟川別を東海に派遣するとあり、同書では北陸に派遣された大彦命、西道に派遣された吉備津彦命、丹波に派遣された丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。その後、将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告した。崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により武渟川別は吉備津彦と共に出雲振根を誅殺している。垂仁天皇25年2月8日条では、彦国葺(和珥臣祖)・大鹿島(中臣連祖)・十千根(物部連祖)・武日(大伴連祖)らとともに「大夫(まえつきみ)」の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている。また武蔵御嶽神社は崇神天皇7年に武渟川別が東方十二道平定の折、大己貴命と少彦名命を祀ったことが始まりだと云われている[8]。
天韓襲命
編集『国造本紀』によると当初、土佐国は波多国と都佐国の2国に分かれていて、波多国は第10代崇神天皇の御代に、神のお告げによって天韓襲命を国造に定めたとされている。天韓襲命は、もと幡多の首長であったとも考えられるが「天韓襲命」という名前や、神のお告げによって任命されたといわれることから、特別の事情により選任された人であったと思われる。(一説によると天韓襲命は渡来人であるとも言われている)また宿毛市平田曽我山古墳の主は、天韓襲命か、あるいは、その直後の国造と推察されている[9]。
賊徒襲来
編集福岡県糸島市雷山にある縣社雷神社社伝によると第6代孝安天皇(BC392-291)から第11代垂仁天皇(BC29-99)の御代に至るまで異国の賊徒からの七度にわたる襲来があり、当社の神である層增岐大明神が雷雨を降らせ異賊を降伏させたと伝えられている[10]。
廣瀬・龍田の祭祀
編集廣瀬大社と龍田大社の祭祀のはじまりは崇神天皇の御代とされる。名神大社廣瀬大社社伝によると、崇神天皇9年(BC89年)廣瀬の河合の里長である廣瀬臣藤時に御神託があり、水足池(みずたるのいけ)という広漠たる沼地だった場所が一夜で陸地に変化し、丈余の橘数千株が生じた。このことが崇神天皇に伝わり、陛下はこの地に社殿を建て大神を祀るように命じた、と伝わっている[11][12]。また名神大社龍田大社社伝によると、崇神天皇の御代、国内に凶作や疫病が流行し騒然としているなか、天皇の御夢に大神が現れ「吾が宮を朝日の日向かう処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定め祭れ」という御神託を授けられたので、神託の通りにお社を造営すると、作物は豊作となり疫病は退散した、と伝えられている[13][14]。
白山神の祭祀
編集石川県白山市三宮町にある加賀国一宮白山比咩神社社伝「白山大神宮御鎮座伝記」によると崇神天皇7年(BC91年)に舟岡山に白山神祭祀のための神地を定めたと伝わっている[15]。
熊野の祭祀
編集『扶桑略記』『帝王編年記』『水鏡』が伝えるところによると熊野本宮大社の創始は崇神天皇65年(BC33年)であり、社伝によると、同年熊野連が大斎原において、大きなイチイの木に三体の月が降りてきたのを見て不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねたところ、その真ん中にある月が答えて曰く、「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」との神勅がくだされ、社殿が造営された、とする降臨神話が伝わっている[16]。
また奈良県吉野郡十津川村にある玉置神社社伝によると、崇神天皇61年(紀元前37年)玉置山頂上に王城防火鎮護と悪魔退散のため早玉神を奉祀したと伝えられている[17]。
建水分神社
編集大阪府南河内郡千早赤阪村にある河内国石川郡式内社建水分神社の社伝によると、崇神天皇5年(BC93年)に諸国が飢饉となった際、天皇は各地に溜池や溝を作ることを勧められた。この時に勅命として金剛葛城の山麓に水神が祀られたのが当社の由緒である、と伝わっている[18]。
賀茂御祖神社
編集京都府京都市左京区下鴨泉川町にある延喜式内名神大社賀茂御祖神社社伝によると、当神社の正確な創祀は不明であるが、崇神天皇7年(BC90年)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があるため、それ以前の古い時代から祭祀が行われていたと考えられている。近年の糺の森周辺の発掘調査では古代の土器や弥生時代の住居跡が発掘され、古代からの信仰を裏付けている[19]。
鴨都味波八重事代主命神社
編集奈良県御所市にある延喜式内名神大社鴨都波神社社伝によると、当社は第10代崇神天皇の御代、大国主命第11世大田田根子の孫・大加茂都美命(おおかもずみのみこと)に勅を奉りて葛城邑加茂の地に奉斎されたのが始まりとされている。古い社名は「鴨都味波八重事代主命神社(かもつみわやえことしろぬしのみことじんじゃ)」であり「鴨の水端(みずは)の神」と解され、鎮座地付近が葛城川と柳田川の合流点となり水に恵まれていたことから、元々は水の神を祀っていたとする説もある[20]。
水若酢神社
編集『隠州視聴合記』や『隠州記』によると島根県隠岐郡隠岐の島町にある延喜式内名神大社水若酢神社は、崇神天皇の御代に祭神である水若酢命が海中から伊後の地に上がり、白鳩2羽に乗って遷座したとされている[21]。当神社の境内一帯では隠岐諸島最大級の横穴式石室を有する水若酢神社古墳群がある。また当神社の神主は代々忌部氏の世襲であり、水若酢命と忌部氏との関連性が疑われる[22]。
天日陰比咩神社
編集能登國延喜式内社天日陰比咩神社は崇神天皇の御代の創建で、本殿後方の天日加氣山中腹にある中御前社は崇神天皇の御廟跡及び印色之入日子命の御陵墓であったと伝えられている[23][24]。
鏡作坐天照御魂神社
編集奈良県磯城郡田原本町にある式内大社鏡作坐天照御魂神社社伝によると、「崇神天皇6年9月3日(BC92年)、この地において日御像の鏡を(天照大神の代わりとして宮中で祀る為に)鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(時に試作された)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ」とある。この際に作られた試作の神鏡を御神体として祭祀し、天照大神が天岩戸に隠れた時に八咫鏡を作った遠祖である石凝姥命とその父天糠戸命をも併せて祀ったのが当社の起源とされる[25]。
倉賀野神社
編集群馬県高崎市倉賀野町にある倉賀野神社社伝によると、創建は崇神天皇御代とされ、皇子の豊城入彦命が東国平定を命じられた際、倭大国魂神の分霊である亀形の自然石(亀石)を授けられ、それが御神体として祀られたのが起源とされる[26]。
吉御子神社
編集滋賀県湖南市石部にある式内社吉御子神社の社伝によれば崇神天皇68年(BC30年)に神降があり、垂仁天皇2年(BC28年)に宇加之彦の子が吉比古・吉比女の神を、谷黒の御前に祀ったのが創祀とされている[27]。
考証
編集実在性
編集初代神武天皇とそれに次ぐ欠史八代の天皇達の実在性が一般に希薄であることされることから、この崇神天皇をヤマト王権の初の天皇と考える説が存在し、また記紀に記された事績の類似と諡号の共通性(後述)から、神武天皇と同一人物とする説もある。井上光貞は御名に後世的な作為が窺えず、欠史八代と違って旧辞も備わっていることから、崇神を実在の可能性のある最初の天皇としている[2]。
ただし、井上は崇神に次ぐ系譜と15代応神天皇以降の系譜との繋がりには懐疑的であり、直木孝次郎も同様の理由から応神以前に大和地方に存在した別王朝の首長と考えており[28]、このように後代の天皇達との連続性を疑う「王朝交替説」も存在する。一方で神武と欠史八代の実在を支持する立場からは、『日本書紀』の記述では神武の即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこず崇神の代になって初めて他地方にまで渡る記述が出てくること(四道将軍の派遣など)から、神武から9代開化天皇までは畿内にしか力の及ばなかったヤマト王権が、崇神の代になって初めて全国規模の政権になったと考える説もある[29]。
大津透も崇神天皇のミマキイリヒコイニヱという名が「イリヒコ」を持ち実名に近い形であり、また崇神から「旧辞」が伝えられていること、記紀に「ハツクニシラススメラミコト」という名前が伝えられていることから実在性を認め、ある段階で神武天皇にかわる初代天皇として伝えられていたとする説も有力であると述べている[30]。
『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して258年もしくは318年没と推測する説も見られる。258年没説を採った場合、崇神の治世は中国の文献に記載されている邪馬台国の卑弥呼・台与の治世時期と重なることになる。崇神をヤマト王権の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神のかかわりをどう考えるかが問題となってくる。邪馬台国畿内説からは、邪馬台国とヤマト王権は同一であるという認識の下、水野正好は崇神を「卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」とする説、西川寿勝は「『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などを提唱している。邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国はヤマト王権とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓や武光誠、宝賀寿男などの説や、「崇神天皇の同時代に大和に卑弥呼のような女王はいないことからも邪馬台国畿内説は誤りである」とする古田武彦などの説も存在する。
考古学的見地から見た実在性
編集寺沢薫は日本書紀には崇神天皇の磯城瑞籬宮、垂仁天皇の纒向珠城宮、景行天皇の纒向日代宮とあり、古事記ではミマキイリヒコイニエノミコト(崇神天皇)の師木水垣宮、イクメイリヒコイサチノミコト(垂仁天皇)の師木玉垣宮、オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト(景行天皇)の纒向日代宮があったとあり、纒向は師木(磯城)に包括されるから崇神天皇の磯城瑞籬宮は纒向水垣宮であったとも考えられる。実在すると言われる初期三代の都宮が纒向に造営されたという伝承をもつこと自体に重大な示唆が含まれていると指摘する[31]。
また埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人「大彦命」を祖とする系譜が記されていることは5世紀後半の雄略天皇の時代には崇神天皇を祖とする王統譜(原帝紀)が存在した可能性を示している [32]。
また継体天皇の皇后であった手白香皇女の陵は宮内庁治定西殿塚古墳、考古学ではその北隣の西山塚古墳と考えられているが、いずれも継体陵のある摂津三島から離れた大和の山辺の大和古墳群の地に葬られたのは王統の始祖である崇神天皇の近くということを意識してではないかという説もある[33]。
ただし崇神陵とされる行灯山古墳は最古の大型前方後円墳である箸墓古墳から数えると五番目に築造された大王墳と考えられるため、箸墓の被葬者を卑弥呼ないしはヤマト王権の初代大王と見なすと、崇神天皇は初代でも10代目でもなく5代目の大王だった事になる。
称号
編集崇神天皇は奈良盆地南東の三輪山麓を根拠地として宗教的・軍事的方法によって国内の統一を進めており、後世これを「はつくにしらす」と追称しているのは彼が原初的な小国家を統一してヤマト王権を確立したことを示すものと考えられる[3]。また『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読める。「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は崇神の称号の「国」という具体的な語より形而上的な概念であるため、本来は崇神が初代天皇であったが後代になって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと考える説がある[34](『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある)。安本美典は上述の神武と崇神の称号に関する訓み方は鎌倉・室町時代(あるいは平安末期)の訓み方であり、『書紀』編纂時のものとは異なっていた可能性があると主張している。どちらも同じ意味であるならばわざわざ漢字の綴りを変える理由が解らず、また「高天原」などの用語と照応するならば神武の「天下」は「天界の下の地上世界」といったニュアンスと捉えるべきであり、神武の『始馭天下之天皇』とは「はじめてあまのしたしらすすめらみこと」などと読んで天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことを称讃したものと解釈すれば上手く説明がつくとしている[35]。
崇神の和風諡号の「みまきいりひこ」と次の垂仁天皇の和風諡号の「いくめいりひこ」は、共に「いりひこ」(入彦)が共通している。「いりひこ」・「いりひめ」は当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。「いり」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在した可能性が高く、崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名(諱)をそのまま記紀に記載した、とする説も存在する。
高句麗の建国との関連
編集『日本書紀』は天智天皇7年(668年)の高句麗滅亡の記事で、この滅亡は仲牟王(東明聖王)が高句麗を建国してからちょうど700年目であったと記している[注 6]。建国の年は崇神天皇66年(機械的に換算すると西暦紀元前32年)となり、『三国史記』東明聖王本紀が記す紀元前37年と5年の差があるが、上述の蘇那曷叱知、都怒我阿羅斯等、及び天日槍(アメノヒボコ)の記事との関連が推測される。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『日本書紀』で開化天皇28年に19歳で立太子とあり、これから逆算すると開化天皇10年。また崇神天皇68年に120歳で崩御とあり、これから逆算すると開化天皇9年。
- ^ 天照大神を祀る場所はその後各地を移動したが垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)
- ^ 垂仁紀に「穴磯邑の大市長岡岬に祀った」とある。
- ^ 墨坂は神武東征の古戦場であり、大坂は翌年に起きた武埴安彦の乱で戦場となった。
- ^ 『古事記』においては天孫降臨時のニニギの言葉に「韓国(からくに)」が現れる。
- ^ これはどの文献に拠ったか不明であるが、天平勝宝5年(753年)に孝謙天皇は渤海国王・大欽茂に宛てた国書で『高麗旧記』を引用している。
出典
編集- ^ 『日本書紀』による。
- ^ a b (井上 1973)P275
- ^ a b 肥後(1979)p.53
- ^ “大依羅神社の歴史”. 大依羅神社. 大依羅神社. 2024年11月25日閲覧。
- ^ a b 『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410
- ^ 「ヤマト王権」岩波新書 2010 47頁
- ^ 都怒我阿羅斯等(古代氏族) & 2010年.
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- ^ 「神話から歴史へ」講談社学術文庫 2017 128‐129
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- ^ 「継体王朝」大巧社 2000‐11‐15 18頁
- ^ (井上 1973)P269-270、(直木 1990)P20
- ^ (安本 2006)P258-259
参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
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