十勝郡
北海道(十勝国)の郡
十勝郡(とかちぐん)は、北海道(十勝国)十勝総合振興局の郡。
人口4,108人、面積729.85km²、人口密度5.63人/km²。(2024年11月30日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。
- 浦幌町(うらほろちょう)
郡域
編集1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町に中川郡豊頃町の一部(旅来・大津・打内および大津各町)を加えた区域にあたる。
歴史
編集郡発足までの沿革
編集江戸時代の十勝郡域は、松前藩によって開かれたトカチ場所に含まれた。藩政時代から明治時代初頭にかけての交通は、沿岸部に渡島国の箱館から千島国方面に至る道(国道336号の前身、釧路国との国境付近からは国道38号の前身)が通じていた。寛政10年ころにはすでに大津に番屋が存在し、翌11年には駅逓も置かれた。
江戸時代後期、十勝郡域は東蝦夷地に属していた。国防のため寛政11年十勝郡域は天領とされたものの、文政4年には一旦松前藩領に復ている。稲荷神社(現豊頃町大津地区に所在)は文政11年十勝場所請負人福島屋杉浦嘉七により建立された。安政2年再び天領となり仙台藩が警固をおこない、同6年の6藩分領により仙台藩が領有している。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して十勝郡が置かれた。郡名の決める際に松浦武四郎は当郡を「大津(ほふつ)郡」と命名し、開拓使公文録でも「大津郡」であったが、その後現在の十勝郡に変更されている。変更の経緯は明らかになっていない。十勝国では他にも現在の上川郡、中川郡で郡名が変更されている。
郡発足以降の沿革
編集- 明治2年
- 明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び開拓使の管轄となる。
- 明治5年
- 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
- 第23大区
- 6小区 : 大津村、長臼村、鼈奴村、生剛村、愛牛村、十勝村
- 第23大区
- 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての十勝郡が発足。
- 明治13年(1880年)3月 - 浦河郡外十郡役所(浦河三石様似幌泉広尾当縁十勝中川河西河東上川郡役所)の管轄となる。
- 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により札幌県の管轄となる。
- 明治19年(1886年)1月26日 - 廃県置庁により北海道庁札幌本庁の管轄となる。
- 明治20年(1888年)6月 - 釧路郡外十一郡役所(釧路阿寒白糠足寄川上広尾当縁十勝中川河西河東上川郡役所)の管轄となる。
- 明治22年(1890年)1月 - 釧路郡外十郡役所(釧路阿寒白糠足寄広尾当縁十勝中川河西河東上川郡役所)の管轄となる。
- 明治24年(1892年)3月 - 釧路郡外十二郡役所(釧路阿寒白糠足寄広尾当縁十勝中川河西河東上川厚岸川上郡役所)の管轄となる。
- 明治30年(1897年)
- 明治39年(1906年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、以下の町村が発足。(2村)
- 明治45年(1912年)4月10日 - 生剛村が改称して浦幌村(二級村)となる。
- 昭和7年(1932年)8月15日 - 河西支庁が改称して十勝支庁となる。
- 昭和18年(1943年)6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
- 昭和21年(1946年)10月5日 - 指定町村を廃止。
- 昭和22年(1947年)5月3日 - 地方自治法の施行により北海道十勝支庁の管轄となる。
- 昭和29年(1954年)4月1日 - 浦幌村が町制施行して浦幌町となる。(1町1村)
- 昭和30年(1955年)4月1日 - 大津村の一部(大字当縁村の一部[2])が広尾郡大樹町、一部(大字旅来村および長臼村・大津村・当縁村の各一部[3])が中川郡豊頃村、残部(大字十勝村・鼈奴村および長臼村・大津村の各一部)が浦幌町に編入。(1町)
- 平成22年(2010年)4月1日 - 十勝支庁が廃止され、十勝総合振興局の管轄となる。
行政
編集- 浦河郡外十郡長
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- 釧路郡外十一郡長
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- 釧路郡外十郡長
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- 釧路郡外十二郡長
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- 河西郡外五郡長
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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1 | 吉田直太郎[4] | 明治30年(1897年)7月 | 明治30年(1897年)11月5日 | 河西郡外五郡役所を廃し河西支庁を置く |