元敬王后
李氏朝鮮第3代国王太宗の王妃
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元敬王后閔氏(げんけいおうこう・びんし/ウォンギョンワンフ・ミンシ、1365年7月29日 - 1420年8月18日)は、李氏朝鮮第3代王・太宗の正妃。本貫は驪興閔氏。
元敬王后 원경왕후 | |
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朝鮮王妃 | |
彼女の陵墓である獻仁陵 | |
在位 |
建文3年1月10日 - 永楽16年8月10日 (1401年1月24日 - 1418年9月9日) |
別称号 | 静妃 |
別称 | 厚徳王大妃、元敬王太后[1] |
出生 |
至正25年7月11日 (1365年7月29日) 高麗、開京、鉄洞 |
死去 |
永楽18年7月10日 (1420年8月18日) 朝鮮、漢城府、寿康宮別殿 |
埋葬 | 献陵 |
配偶者 | 太宗 |
子女 |
譲寧大君 孝寧大君 世宗 誠寧大君 |
氏族 | 驪興閔氏 |
父親 | 驪興府院君閔霽 |
母親 | 三韓国大夫人宋氏 |
生涯
編集閔氏は高麗末期、閔霽(びん・せい)の娘として開京(現・開城)で生まれ、実家は儒教の名門であった。17歳のころ、将軍でのちに朝鮮の初代王となる李成桂の五男・芳遠と結婚、当初は夫婦仲が良好で4男4女を儲けた。彼女は夫とともに朝鮮建国に貢献し、政敵に狙われていた芳遠を暗殺の危機から救い、政権奪還に成功させた。
1400年、芳遠は第3代王・太宗に即位し、閔氏は王后に就いた。しかしそれを引き換えに彼女の不幸な後半生の始まりであった。太宗は後宮を多数抱えたことで夫婦仲が悪化、太宗による外戚勢力一掃で弟たち四兄弟が粛清され、世子(のちの譲寧大君)の不品行に悩まされ、さらに自分の廃位の危機に立たされた。しかし太宗は彼女の功績を顧み、尊厳を守った。だが不幸は続き、溺愛していた四男・誠寧大君が天然痘で14歳で夭折し、その死を悲しんだ。ただ王后にとっての幸福は三男・忠寧大君が第4代・世宗として即位したことである。1418年に太宗の譲位に伴って王大妃となったのち、1420年、薨去。
出典
編集- 『王妃たちの朝鮮王朝』 尹貞蘭 著、金容権 訳 日本評論社 2010年
- 『朝鮮王宮 王妃たちの運命』 康煕奉 著 実業之日本社 2011年
登場作品
編集脚注
編集先代 定安王后 |
朝鮮王妃 在位:1401年 - 1418年 |
次代 昭憲王后 |
先代 定安王后 |
朝鮮大妃 在位:1418年 - 1422年 |
次代 定順王后 |