救急医療崩壊 マスコミの「大阪焦土作戦」大成功(その3)市立松原病院小児科救急戦線かく闘えり
涙なくしては語れない
松原市立松原病院の小児科救急戦線
の記録。
松原市は、大阪府南部の
南河内地域
に属する自治体である。わかりやすい地図がぶらっと周遊みなみかわちにあったので引用する。(画像はクリックすると拡大します)
この地図の一番北、紫色の自治体が
松原市
である。
そして、
松原市立松原病院小児科
は
南河内地域唯一の二次救急医療機関
であった。
平成15年、いまから5年前の
広報松原PDF版2003年9月号
には、小児科の窮状を訴える特集が組まれている。
小児救急医療SOS-市立松原病院
南河内地区唯一の「24時間救急診療」
小児救急のコンビニ化、小児科医不足
かかりつけ医を持ちましょう
Voice 病院待合室、消防署での声
小児救急医療危機の打開を目指して
ここには、いま小児科医療を覆っている
すべての問題点が挙げられている
といっていい。
たとえば、この文章。
松原市外から、57%の受診者が来院小児救急患者は、市内の患者よりも他市町村から来院される患者の人が上回っています。
南河内地域や大阪市南部に小児科で24時間診療する病院がないため、市立松原病院に集中する傾向にあります。平成14年度、他市町村から約13,500人が受診に来られています。大阪市平野区・東住吉区が圧倒的に多く38%、羽曳野市が21%、藤井寺市が10%、美原町が8%となっています。
救急車で搬送されてくる件数も小児科は年間740件、1日当たり約2台、市外救急車がその内約58%を占めています。市立病院といえども、今では、和歌山県や奈良県からも来られ、南河内地域を中心にかなり広範囲の診療地域を担っているのが現状です。
周辺の自治体から、救急を受けられる小児科が消え、本来は南河内地域の二次救急を受け持つ松原病院に遠く奈良や和歌山からも、救急搬送されるようになった。
そして、マナーの悪い受診者。
松原病院の小児救急搬送件数と軽症例。茶色が全搬送数で黄色が軽症。ほとんどが軽症だと分かる。(画像はクリックすると拡大します)
これが平成11年から平成15年7月までの状況だ。
これを夜間や休日は、1人体制で支えていたという。
年末年始やゴールデンウイークなどは特に患者が集中し、待ち時間が4時間から5時間にもおよぶ場合もあります。また、夜間や休日は小児科医が1人体制となるため、入院患者で重篤な患者が出たり、救命センターへの搬送が必要な患者が出たりすると、その子に手を取られ待ち時間が長くなったり、診察がストップする場合もあります。
搬送する側も、松原病院への小児救急搬送に苦言を呈している。
救急車を正しく利用してください
救急救命士 柳 秀忠さん現在、消防署では、医師の指示により応急手当の特定行為ができる12人の救急救命士と通常3台の高規格救急車により救急活動をしています。市内に小児科救急がないころは、堺市や東大阪市、または大阪市西区まで搬送していましたが、今は市立松原病院がありますので、急患を搬送する時間が少なくて済むようになりました。
小児救急の出動は、年々増加しているのが現状です。しかし、その中には軽い症状で自宅から病院に搬送できるのにもかかわらず、「すぐに診てほしいから」とか「待つのが嫌だから」という理由で救急車を呼ばれる人がいます。特に小さな子どもの場合は症状の聞き取りなどもできないため、親が冷静に子どもの症状を判断できていない場合が多く見られます。
救急車は急いで病院へ搬送しなければならない病気やけがのときに利用するものです。救急出場の増加により救急車が不足してしまうことがありますので、救急車を正しく利用してください。また、救急車を呼ぶほどではないが、どこの救急病院に行けばいいのか分からないときは消防署(電話332―3102)や大阪救急医療情報センター(電話06―6761―1199)までお問い合わせください。
これは、松原病院の小児科に
今よりも余裕があった5年前
の話である。そして2003年はまだ
24時間救急受け入れ
をしていたのだ。
松原病院が
24時間救急受け入れ
を始めたのは、2001年10月だった。
ところが、状況はどんどん厳しくなっていった。
2006年の年末年始、とうとう、松原病院は
医師の手当てが出来ず、年末年始の期間は24時間小児救急受け入れの看板を下ろす
ことになる。
年末年始等の救急診療について年末年始の期間、小児科の24時間の診療を実施しておりましたが、医師の確保が困難のため診療時間を変更させていただきます。
ご迷惑をおかけいたしますがよろしくお願い申し上げます。
年末年始等の内科及び小児科の診療時間は下記の通りとなります。
期 間
平成18年12月30日(土)~平成19年1月4日(木)
平成19年1月6日(土)~平成19年1月8日(月)
小児科
診療時間 午前9時~午後10時まで
(受付は午後9時30分まで)
※午後10時以降の診療はできません
内科
診療時間 午前9時~午後9時まで
(受付は午後8時まで)
※小児科と内科で診療時間及び受付時間が異なりますのでご注意下さい。
「小児救急SOS」の広報から3年後のことである。
状況は、昨年春からより悪化した。小児科の医師が退職し、
平時の24時間小児救急も不可能となり夜間診療も縮小
になったのだ。
救急医療小児救急診療体制の変更について
平成19年4月1日より、小児科医の減員のため4月から診療時間が次の通り変更となります
平日 午後9時30分(最終受付)まで
土・日・祝日 午前9時~午後9時30分(最終受付)まで
当院では引き続き、救急診療体制の充実に努力してまいります。皆様のご理解とご協力をお願いいたします。内科・小児科時間外救急診療のご案内
平成19年4月1日より
診療科
診療日
受付時間
内科
月曜~金曜 休診
土曜・日曜・祝日 9時~20時
小児科
月曜~金曜 17時~21時30分
土曜・日曜・祝日 9時~21時30分
※内科と小児科で診療日、受付時間が異なりますのでご注意ください。
※場合により、診療ができないこともありますので、ご了承ください。
そしてとうとう
小児科救急戦線から離脱
することになったのが、2008年1月末のことだった。この時の陣容は
常勤医4人 内研修医1人
という極めて少ない人数で
毎日100人を超す患者の診察を行っていた
のである。2003年の「小児科救急医療SOS」から5年。2003年の時点では
市立松原病院の、平成1 4 年度の利用者数は、23,879人で平日1日当たり約37人、休日1日当たり約124人と年々増加傾向にあります。
今年のように、インフルエンザが流行した年末・年始は救急患者が集中し、1日平均230人を超す日が連続し、市外患者の増加も目立ってきています。
だった。2003年より
医師の数は半減
し、かつ
患者の数は増加
していたのだから、
松原病院小児科は救急医療戦線で華々しく玉砕した
というのが正しい表現だろう。
大阪府南部だけでなく、大阪府北部や和歌山・奈良といった
小児科医療崩壊地域
から押し寄せた患者が、
貴重な医療資源であった松原病院小児救急を戦闘不能に陥らせた
のである。
ともかくも、現在働いておられる先生方は、救急なしでも
過重勤務
だ。どうか、労働条件がすこしでも是正されますように。
医師が過労で死ぬ病院
では
よい医療は行えない
のである。
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コメント
大阪の民度...なんですかねぇ。
投稿: physician | 2008-02-07 22:13
管理人さんお久しぶりです。
私、この辺りの出身(実際は松原じゃなくて堺ですけれど)なので補足をさせてもらいます。
ご呈示の地図の左端、松原市から河内長野市の一部までは堺市と接しています。
(http://expo.minnade.jp/oosaka.htm の地図を参照して頂ければわかりやすいです)
その堺ですが、人口80万人の大都市ですけれども(現在は政令指定都市)、2000年頃から小児救急の崩壊が始まり、2006年6月の段階でいったん小児救急空白地帯化しています。2006年11月から、状況に危機感を覚えた医師会小児科医会が各方面に働きかけて勤務医・開業医混成部隊という形で午前4時半までの夜診を行っているそうです。
(参考文献:週刊東洋経済・2007年4月24日号『ある日、町から小児救急が消えた
大同団結で危機打破 「堺市モデル」の可能性』
「産科医療のこれから」に全文コピペがあります→http://obgy.typepad.jp/blog/2007/06/post_4a5f.html )
私も出身地のことなので以前に感想のようなものを書きましたが(資料館じゃなくて本ブログの方です→http://diary.b-r.under.jp/?eid=359588 )、そこのコメントで指摘されたとおり、堺市北東部地域の小児救急が松原市民に流れ込んでいた可能性もあると思います。堺市の東部にある大阪労災の小児科が救急を断念したのがいつなのか私も知らないのですが、地理的に考えると、大阪労災が崩れたら北東部は松原市民に流れ込みそうです(現在は崩壊してます)。
2003年段階でどうだったかどうかはわかりませんけれど、少なくとも現在では
>大阪市平野区・東住吉区が圧倒的に多く38%、羽曳野市が21%、藤井寺市が10%、美原町が8%
に堺市北東部(=東区と美原区)がのしかかっていると考えられます(北東部から泉北急病診療センターは少し遠いです)。
いずれにせよ、松原病院小児科が地獄のような状況であったことは間違いないと思います。
投稿: 三上藤花 | 2008-02-08 00:56
私、10年前は新金岡に住んでました。まさに堺市北東部にいたのですが、このころから小児救急は結構いっぱいいっぱいで、近所の子が急に高熱を出したとき(今思えば敗血症の症状でした)、松原に搬送されていました。大阪労災は新金岡なら歩いていける距離ですが、このころから時々受け入れ不能になっていたみたいみたいです。
投稿: ただの(ry | 2008-02-08 01:21
大阪南部は少し前からかなりひどい状況だったんです。
南大阪病院は二人の偉い先生が赴任したとき24時間小児科受付を開始し、後に続く先生方ががんばってたのですが、私が研修医を終わる頃から、救急診療中に小児科医が土下座させられた、殴られた、胸ぐら捕まれた、チンピラに暴れられただの聞くようになって、赴任したくない病院のトップを飾るようになってきました。だから、2004年に新臨床研修制度が始まると同時に、真っ先に派遣中止、撤退になってしまって、南大阪病院側のリークによって新聞沙汰になりましたが、以後派遣再開はなく、今でも小児科は復活してません。
コンビニ医療だけでなく、モンスターペアレンツの最先端でしたから、こうなるのは至極当然だと思います。
投稿: ドロッポ小児科 | 2008-02-08 08:18
三上藤花様:
私はかつてバブルの頃、資本をバックにつけていたので、堺市のある病院(Y病院とします)を買収しようとしたことがあります。その病院の実権はP理事に握られていましたが、調べるとP理事はQリースの利益代理人でした。Y病院の機器はQリースからのリースがほとんど、(思い出せませんが土地や建物もだったか?)病院の利益を吸い上げるシステムができあがっていました。こう言うシステムができると言うのは、病院の経営が左前だったのでしょう。Qリースに資金を出していたのはK銀行でした。私は“こんなことをしているK銀行の経営は危ない”とバックに話し、買収を断念させた記憶があるのですが、K銀行と合併した旧財閥系銀行の経営が危うくなり、再度合併に進みました。Y病院は小児救急をしていた病院リストに名前があがっていたので、懐かしく思い出しました。救急から撤退するのに、医師や看護師と言う人的な余裕も大事ですが、経営的な溶融も大事で、Y病院にはその余裕がありませんでした。
投稿: Nebula202 | 2008-02-08 11:56
訂正です:
救急から撤退するのに、医師や看護師と言う人的な余裕も大事ですが、経営的な溶融も大事で、Y病院にはその余裕がありませんでした。--訂正→救急を続けるのに、医師や看護師と言う人的な余裕も大事ですが、経営的な余裕も大事で、Y病院にはその余裕がありませんでした。
投稿: Nebula202 | 2008-02-08 17:17