基本読書

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世界の動きを「読める」ようになり、人生を「意味づける」為に──『知的トレーニングの技術』

知的トレーニングの技術〔完全独習版〕 (ちくま学芸文庫)

知的トレーニングの技術〔完全独習版〕 (ちくま学芸文庫)

読書猿という有名な……何ブログなんだ? 知的向上心のある人間の為のブログ──とかいうとまたちょっとアレだが、そこで下記のように本書『知的トレーニングの技術』が紹介されているのだからまあそれは読むだろう。

読書猿ブログはこの一冊から始まった:『知的トレーニングの技術』復活を知らせ再び強く勧める 読書猿Classic: between / beyond readers

確かに本書は読書猿の中で何度も名前の出てくる一冊であり、実際に読んでみると、これまで読書猿で読んだあれもこれも載ってる! とそのルーツをようやく、原点の圧縮版となる文庫(1980年に発刊されたものが文庫として2015年9月に出たのだ)で確認することができた。でもそれ以上に驚いたのは、汲めども汲めども底をつかない井戸のように、一文一文に込められた本書それ自体の圧倒的な情報量だ。

立志術について、ヤル気を出す技術について、読書術について、発想、交流、書斎などの空間のつくりかたについて、アインシュタインやポール・ヴァレリー、漱石などの人物のエピソードをひきながら魅力的にその理屈を語っていく。そして、実践編としてどのようにして得た情報や考えたことを物事に落とし込んでいくのかについて具体的な手順の数々。どこを読んでも役に立つ。永久保存版だ。

名著というものが往々にしてそうであるようにして、本書も「はじめに*1」──からしてとばしにとばしている。

 世界はどんなふうに動いているのか、いまはどんな時代なのか、自分とはいったい何者なのか、自分はどんな可能性をもっているのか、そもそも自分は何をしたいのか。こんな疑問をぼくらのだれもが抱いて日を送っている。そして、平穏無事な学生生活やサラリーマン生活の毎日のくりかえしのなかで、突然、自分はこんなことをしていていいのか、こんなことをするために生まれてきたのか、という不安が襲ってくる体験をした人も多いにちがいない。これは知への渇望がぼくらのなかに眠っていて、それが疑問や不安や痛みのかたちであらわれているのだとぼくは思う。ぼくらは、世界の動きが「読める」ようになりたいし、人生を「意味づける」ことができるようになりたい。

本書は知識人なり文化人なりになる為ではなく、「人間が一生をかけて行う知的トレーニング」、その技術を磨くための一冊であり、その為の原理原則が最初に開陳されているからそれに沿って簡単に紹介してみよう。

たとえば第一の原則は「創造が主、整理は従」といって、情報整理はあくまでも知的創造のために「考える」為に行うことという単純なものである。ただこれを読書に敷衍させて考えると、『速読の目的は、不要な本を早めにとりのけて、ゆっくり読むべき本を発見することにある』『じっくり本が読めるようになれば、何が不要で、何に時間をかけねばならないか、おのずと分別がつくようになる』と読書も「整理」と「創造」の過程にわけられることがわかる。

第二の原則「自分一身から出発しよう、等身大の知的スタイルをつくろう」は当然ながら誰も同じ環境の人はいないのだから自分が与えられた状況から「何が出来るのか」を考え「すこしずつその現実を自分に有利なほうへと変える」ことが求められることを示している。第三の原則「知の全体を獲得すること、そのために自立した知の職人をめざす」はそもそも自立した知の職人ってなんやねんと思うところだがこれは『みずから問いを発することができるようになること』だとされている。

『問いは知的好奇心からうまれる。知的好奇心は自分のなかの知的空白部、つまり欠如の感覚からでてくる。』ようは自立した知の職人とは自ら問いを発し、その為には知的好奇心を持ち、知的好奇心は欠如の感覚からうまれ、欠如の感覚は「知のマップ」を自分の中で持つこと(どこが欠けているのかを確認するために)ということになるだろう、自分の持っている知識をいったんマッピングすれば、どこが欠けているのかがわかるようになる。本書にはその為の技法も敷き詰められている。

第四の原則は「方法に注目する」だ。これも一読して何を言っているのかよくわからないが、ようは何かをしこたま「暗記」するのではなく、むしろ記憶術、あるいは情報をおいかけ、追求し、何事かを創造するための「方法」に注目しようということだ。フロイト、ニーチェ、ハイデガーなどなど数々の先人が出てくるが、彼らの知的エピソードと彼らの方法論がずらずらと結び付けられていくのでこれも楽しい。

最後になるが知的トレーニング第五の原則は「情報から思想へ」、大量の情報におぼれ「考える」ための時間が切り詰められるのは本末転倒であり、情報処理を効率よくおこなう技術はぜいたくにテマとヒマをついやして思想を生み出すことに捧げられる場合にのみ意味を持つとする。ここで語られるのは言語学や記号学、文化人類学といった様々な学問において「現代的な知の在り方とは」と考えていく過程である。

一例をあげると、科学的思考とは基本的に問題解決であるから、科学的思考は我々を考えなくさせることが目的である。一方で、生産性を上げ、新たなシステムを構築すると今度はその故障や修理に科学的思考が費やされ、さらにはその故障修理のために科学的思考が必要になり──と思考は終わらないようにも思える。

では、どうすればいいのか──『まずは、考えることについて考える、つまりメタ思考の立場にたつことだろう。科学的に思考しているとき、同時に、その思考について反省をくわえる、という視点をもつことだ。』といって脱科学的思考──まるごと全体をとらえることを思考してみせる。ハイデガーをひいて、ではあるが『考えなくするために考えている、科学とは本質的にそういう思考なのだ。』という発想とそこからいかにして脱科学的思考に至るかの道筋のつけ方に痺れた。

とまあ、要約でもなんでもないがざっと本書で語られている原理原則を軸にして紹介してみた。個別の話として、凄いなと思ったところはいくつもある。一つにはやっぱり読書術がある。「外在的読書(本を目的を達成するための手段として使うこと。調べ物とかかな)」と「内在的読書(その本を読むこと自体が目的で、読み終わったあと何が起こるのかを予測しない/できない読書のこと)」の二分類から速読と遅読で読む方法をわけるなどなど「そうそう、そうなんだよな」とぼんやりと把握しているだけだったものを明確に言語化してもらったりできたのがよかった。

なんにせよ、誰にとっても得るものの多い一冊となるだろう。

*1:本書ではイントロダクション 知的スタート術──知的トレーニングのための五つの原則 となっているが