それこそ記憶が始まったばかりの頃から鉛筆、クレヨンを手にしてひっきりなしに絵を描いてたのを思い出す。
ノートが友達だったくらいに、正直幼稚園やそれ以前の記憶は、ばあちゃんちで絵を描いてたことくらいしか思い出せない。
あと、家にあったレコードでアニメソングを聴きまくっては歌ってた。みんなの歌とか。たまに演歌とか歌謡曲とか。
その後おもちゃのキーボードを手にして、それにはまってた。
うる星やつらの主題歌のメロディーを聴きとって弾けたとき、大興奮したのをいまだに覚えてる。あれは多分幼稚園か小1の時かも?
あたしの興奮ぶり、そして日々の歌いっぷりを見て音楽に興味があると悟ったのかどうなのか、小学2年の時に親がKAWAIのアップライトピアノを買ってくれた。
その時の感動も鮮明に覚えてる。
それからレッスンを始め、狂ったようにピアノを練習してた。と言うかその時の感覚で言うと、ピアノと遊んでた。
親に言われてやってたというより、ほんとに好きだった。出された課題以上のことを毎週練習して、進むのも人一倍早かった。
自分より早く始めた子達が数段上手いのを見て、うらやましかった。早く追いつきたかった。
でも、そのペースがだんだん遅くなってきた。
一言で言うと、やる気がなくなってきた。
ああ~、小学校の頃からこのいい加減気質が次第に出てきたんだな、きっと。。。
小学校高学年に入ってからは映画と映画音楽に目覚めて、当時周りで洋画観る人あんまいなかったから一人でよく映画館に通ってた。同じ映画を何回も観に行くほどマニアックだった。
この頃から中学までの愛読書は「ロードショー」と「スクリーン」で、聴く音楽はアメリカンポップス。ほんと映画と音楽に狂ってたな。。
英語が一番得意だったのも、この趣味が興じたせい。
マイケルJ.フォックスと話せるようになるのが夢だった。思えば彼、カナディアンだね。
中学入学を間近にしたある日、同じ町内の一つ上の子からテニス部へ誘われた。
どちらかというと(と言うか断然)運動オンチで、体育会系というより音楽一色だったあたしは最初気が進まなかった。
小学校では器楽部でドラム叩いてたりもしたし、中学に入っても吹奏楽部や美術部なんかのインドア系に行こうと思ってた。
それに運動部入ったらピアノの練習もきつくなってくるとも思った。
で、さんざん迷った挙句、だんだん飽きてきてたピアノのレッスンを辞めてテニス部に入ることにした。
これは今でも後悔している出来事。辞めるって先生に言ったときのこともよく覚えてる。
運動オンチだったけど、中学高校とテニス部で鍛えられてそれなりに動けるようになって、身体も細くなった。
たまにピアノも練習してたしまた習いたいなって思ってたけど、その頃は部活が楽しくてしょうがなかったな。将来の夢は第二のナブラチロワだったもんね。二回戦くらいで負けたりしてたのに。中学の時の夢ってほんと果てしない。
高校時代にバンドの話が出てそのときはドラムやることになってたけど、一曲練習したのみで流れた
中学高校の6年間、部活を通して得たものはたくさんあるけど、もっとちゃんとピアノ続けてればよかったな。両立だって頑張ればできたはずなのにな。
高校出るとき、美術、音楽、そして英語の3つの道で悩んでた。
いろいろ考えて学校の資料もたくさん取り寄せてたけど、音楽はしばらくピアノから遠ざかってたし、美術はすごく好きだったけど仕事と結びつけて考えられなくて、現実的な夢はツアーコンダクターだった。英語使う仕事で世界に行きたかったから。
それに美術、音楽系の学校は高いし、地元にないし、海外へ出たいって言う気持ちの方が大きかった。
で、旅行業界に強い東京のトラ○ャル旅行専門学校を受けて、入学が決まった。専門学校と言えども結構倍率高かったから嬉しかった。
ところーが、合格後に家族の反対にあって、地元の英語科短大を受験、合格。
予算的にも将来的にも、専門学校より短大出たほうがいいだろってことで、東京を諦め短大へ入学。英語とバイト(警備員)漬けの日々。初めてのアメリカホームステイ。
短大2年のときロータリー財団の奨学金留学制度(行き先はカナダ)に申し込み、補欠合格で結局参加できず。
この面接と同時期に、地元で行われたのど自慢に出演。そうだ、そう言えばあたしのど自慢に出たんだ!
(鐘二個)短大卒業後はカナダのワーホリを夢見て、警備員、塾の講師、スナックのバイト三つかけもちして資金を貯める日々。
1年後ようやく充分な資金を手にしたと思いきや、ワーホリ申請漏れ。
結局そのお金の一部で3週間オーストラリアで語学&スキューバダイビング留学。
帰国後ボーカルレッスンを受け始めるのと一緒に、百貨店の紳士服店で半年バイト。
仙台のホテルのフロント業務で内定をもらいつつ、社風と環境に疑問を感じて、気が変わって東京の就職口を探す。
バスガイドで決まりそうだったけど、給料が安かったんで普通の会社の一般事務に決めて上京。新たな人生スタート。
ほんとこの頃、ホテル・ツーリズム系に興味があったんだなぁ。
それでもやっぱりそこに踏み切れなかった理由は、音楽。
現実的な仕事で見ると英語を使ってホテルや旅行系で働きたかったけど、音楽をもっとやっていきたかった。
上京した一番の理由も、いい先生について、音楽をするたくさんの人に出会いたかったから。歌手になることを真剣に願ってたから。
だから仕事のためにそういう時間が奪われることを避けた。
仕事は東京で生活する上での手段として割り切ってた。
でも田舎もんが都会に慣れるまでずいぶん時間がかかったし、遠回りしたなーって思う。
とにかく要領悪かった。都会の速さが苦しくて、すっごい孤独だった。
給料のさほど良くなかった昼の仕事のほかに、土日はホテルのブライダルフェアやキャンペーンの仕事なんかもいろいろして、お金を稼ぐにもいっぱいいっぱいだったな。
レッスンを受け、いろいろなバンドに参加していくつかのライブやイベントに出たけど、なんだかんだでツメが甘くて、音楽的知識も少なくて、根性もなくて、日々の生活だけで必死で、今思うと笑えるような恋愛沙汰で悩んで、かといって仕事にも甘くて打算的で、数々の職場を転々と渡り歩いて、なんだか色んな人にも迷惑かけて、たくさんの時間を費やした気がする。
その後とある事務所のオーディションを受けて、週末は結婚式で歌う仕事を始めた。
平日の派遣社員としての仕事と平行して週二回の練習、そして土日の本番。結構繁盛してたな。
きついことも多々あったけど、とにかく歌でお金をもらえることにほんと最高の充実感を感じてた。濃い日々だった。ほんと忙しかった。
自分の音楽の知識のなさを思い知って、基礎的な理論の勉強を始めた。
楽しみと単なる大きな夢だった音楽が、どんどん現実味を帯びてきた。そんで、いかに自分の考えが甘いか、夢見がちだったか、音楽の厳しさと楽しさ、そんなんをどんどん感じた。
歌のお仕事は2年半くらいやったのかな?自分の音楽を表現できず、苦しくなってきた。もっと自分の音楽を追求したくなった。
お金も順調に稼いで日々の生活も調子づいてきて、ずっと前からやりたかったワーホリを実現するタイミングが来た。
歌の事務所を離れる決断をして、その後1年はとにかくお金を稼ぐことだけに集中した。
昼間は比較的給料のいい外資系の会社で派遣として働き、夜はグランドピアノのあるクラブで歌いつつ接客した。ほんと忙しくてあくせくしてたけど、楽しかったなー。
そして今カナダへ来て、遠い遠い夢だと思ってた海外での音楽留学を実際してる。
これって、すごい。
何がすごいかって、周りの支えがまず何よりも大きいけど、ずーーーっと昔から願ってたことが現実に起きてるってことがすごい。
どれもこれも中途半端、そして大幅に遅れてたくさんの時間を費やして、しかもいろんなものを抱えて、やっとなんとかスタート地点に立っただけにすぎないんだよな。
回り道をしすぎて、時間をかけすぎて、のんびりしすぎて、一つのことに集中してこなかったせいだ。
音楽と向き合わなかった過去の時間、すんごい悔やまれる。全て取り戻せたらなあ。
でもこれまでの経過も案外捨てたもんじゃないかなって気もする。
結婚、出産、仕事、経済力、家族。。
歳を取るにつれてどんどんプレッシャーが大きくなってくる。
正直これだけのん気すぎて大幅に遅れをとってるこの自分をどこまで信じたらいいのかわからないけど、今言えることは、この先は回り道はとらず、ここで学んだ分、どんな形であれこの先もずっと続けて行きたい。どうにかしてこの分野で自分を進めて行きたい。
大きな夢ばかり追うんじゃなくて、現実でできるところから着実に進んで行きたい。
遅いからと言って躊躇してても、結局は何もしなくてもどの道歳は食ってくし、それだったら何かした方がいいもんね。
10歳で道を見つけた人が40歳でリタイアするかもしれないし、40歳で道を見つけた人が90歳まで現役で活動するかもしれない。
60歳を過ぎて何かを始めた人が、80歳までに偉業を成し得るかもしれない。
そしてそれは現実に起こってる。
人の可能性は計れないし、クレイジーと思うことがすごいことになったりする。
うん、将来を練ろう。
すんごい長ったらしい記事になってしまいました。
ここまで読んでくれた方、付き合ってくれてありがと!!!