2010年 01月 13日
アバターの「政治」 |
今日のイギリス南部はまたまた曇っておりますが、さすがに雪はそろそろ溶けてきました。あいかわらず寒さは続いておりますが。
日本でも公開されている3D映画の「アバター」ですが、NYタイムズの保守派コラムニスト、デヴィッド・ブルックスが面白い指摘をしておりましたのでその紹介を。
これには「映画」と「人種問題」、それに「アメリカの帝国主義」という興味深いテーマが含まれております。
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The Messiah Complex
By DAVID BROOKS
これから映画「アバター」を見ようとしている方々は、脚本の中で起こる大きな流れは知っておくべきであろう。
どの時代にもある種の伝説がつくりだされるものだが、現代では「白人の救済者」という伝説がつくられているようだ。
これは、若い冒険家が未開の大自然の中にスリルと宝を求めて入って行くという、よくある話である。しかしこの冒険家がその場所に行き着くと、彼は高貴でスピリチャルで純粋な土着の人間に出会うのだ。そしてこの彼は彼らの救済者となり、彼らを率いて自分が来た堕落した文明に対して正義の戦いを挑むという設定だ。
映画好きの人は、このようなパターンを最初に作った「馬と呼ばれた男」(A Man Called Horse)や"At Play in the Fields of the Lord”(本邦未公開)をご存知であろう。もっとポピュラーなものでは「ダンス・ウィズ・ウルブス」や「ラスト・サムライ」などがある。
また、子ども向けのものでも「ポカホンタス」や「ファーン・グリー」(FernGully)などがある。
このようなストーリーというのはかなり使いやすいものだ。映画監督に「白人救済者伝説」というのは誰にでも知られているストーリーなので、あえてくどくどと説明する必要はないくらいなのだ。
また、このようなストーリーは、あまり社会的な面でも工夫しなくても済む。なぜならこのような映画は「環境にやさしい」ものであるために観客に受けるのだ。またこれは多文化に配慮したものであるためにアカデミー賞の審査員たちにも受けがいい。それにこれは土着の人間たちが軍産複合体を倒すストーリーが含まれることになるため、映画評論家たちにも受けるのだ。
しかし今まで作られた「白人の救済者伝説」の中でも、ジェームス・キャメロンの「アバター」ほどこれを強調して使っているものはない。
「アバター」は特に優れた人種ファンタジーである。主人公は自分の属していた文明に嫌気を感じていた白人の元海兵隊員であり、彼はある巨大企業で宇宙の奥にある星の手つかずの環境から資源を略奪し、平和を愛する原住民を追放する仕事を任されるのだ。
平和を愛する原住民たちというのは、北米インディアンやアフリカ、ヴェトナム、イラクなどの文化をあわせもったような、他の映画でも見たことがあるような、典型的な「平和を愛する原住民」である。彼らは背が高く、見事なほど細身であり、ほぼ裸の状態で生活している。そして彼らは驚くほどの運動能力を持っており、歌や踊りも上手い。
この主人公の白人の男は、彼が出会った強欲な企業の手先や血に飢えた米軍タイプの人間たちよりもこの平和を愛する原住民たちのほうが魅力的であることに気が付くことになる。
彼は原住民たちと暮らしはじめ、そして短期間のうちに彼らの中でも最も尊敬される一員となり、原住民の中でも最もセクシーな子とセックスすることになる。
主人公はジャングルの中を飛び回ったり馬に乗ったりすることを習い、最終的には原住民たちよりも根性や運動能力があることを証明することになる。彼は原住民たちが長いことと乗りこなせなかった赤い大きな鳥を乗りこなすようになるのだ。
このようなことを体験するうちに彼は目覚めることになる。平和を愛する原住民たちが自然と共に生きる存在であり、しかも彼らの体には光ケーブルのようなものが出ていて、それを馬や木につなげて会話することができるのだ。彼らは本や携帯電話、そしてレンタル映画などに毒されていないため、深く落ち着いた魂を持っているのだ。
原住民たちは、この白人の主人公の男に対して、彼自身も深く落ち着いた魂を持っているということを気付かせてくれるのだ。
原住民たちは素晴らしい身体と完全に環境にやさしい感覚を持っているのだが、彼らは自然の中に生きており、歴史を作り上げるような生き物ではないのだ。軍産複合体が彼らの住処を採鉱しようとしに来たとき、彼らには自分たちを率いてくれて、守ることを教えてくれるような白人の救済者が必要となるのだ。
そしてここで主人公が登場し、母なる地球に呼び起こされた恐竜たちの助けを借りて立ち向かうのだ。彼とその仲間である「自由を求める戦士たち」が襲いかかる海兵隊や元海兵隊たちを次々と蹴散らし、彼は最終的に究極のものを手に入れることになる——つまり原住民から受け入れられ、残りの人生を素晴らしい文化の中で過ごすのだ。
この映画が世界中でヒットしている理由はキャメロンの「白人の救済者伝説」の扱い方の上手さにあるわけではない。ジョン・ポッドホーレツがウィークリー・スタンダード誌に書いたように、「キャメロンは特殊効果に影響を与えるために、このような使い古された話を使ったにすぎない」のだ。このストーリーは世界中の観客にアメリカの兵士が殺される場面を見せるチャンスを与えることにもなるし、マクドナルドなどの会社が抱き合わせ販売できるようなきっかけも持っている。
そうはいっても、あらゆる白人救済者の寓話、とりわけキャメロンが使ったようなものには不愉快な側面があるということを指摘するのはまったくのお節介でもないだろう。
このような「伝説」には白人が合理主義者で技術専門家であり、植民地側の被害者たちがスピリチャルで運動能力に優れているという偏見がある。また、それは非白人たちは自分たちの正義の戦いを導いてくれるような「白人救済者」が必要であり、文盲は美徳であるという「想定」の上に立っているのだ。
またこれはある種の「諸刃の文化帝国主義」とも言えるものを生み出すことになる。つまり原住民たちは、自分たちの歴史を残酷、もしくは善良な帝国主義者たちによって形成されるのだが、いずれにせよ彼らはわれわれの自己探求のための旅の脇役となるのだ。
これはつまり単なる現実逃避なのだが、慈愛的な空想主義というのは、それをいくら特殊効果の自然の風景に置き換えても、邪悪な空想主義と同じように恩着せがましくなることがあるのだ。
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言われてみれば、たしかに「ラスト・サムライ」も「白人救済者伝説」でしたな(苦笑
日本でも公開されている3D映画の「アバター」ですが、NYタイムズの保守派コラムニスト、デヴィッド・ブルックスが面白い指摘をしておりましたのでその紹介を。
これには「映画」と「人種問題」、それに「アメリカの帝国主義」という興味深いテーマが含まれております。
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The Messiah Complex
By DAVID BROOKS
これから映画「アバター」を見ようとしている方々は、脚本の中で起こる大きな流れは知っておくべきであろう。
どの時代にもある種の伝説がつくりだされるものだが、現代では「白人の救済者」という伝説がつくられているようだ。
これは、若い冒険家が未開の大自然の中にスリルと宝を求めて入って行くという、よくある話である。しかしこの冒険家がその場所に行き着くと、彼は高貴でスピリチャルで純粋な土着の人間に出会うのだ。そしてこの彼は彼らの救済者となり、彼らを率いて自分が来た堕落した文明に対して正義の戦いを挑むという設定だ。
映画好きの人は、このようなパターンを最初に作った「馬と呼ばれた男」(A Man Called Horse)や"At Play in the Fields of the Lord”(本邦未公開)をご存知であろう。もっとポピュラーなものでは「ダンス・ウィズ・ウルブス」や「ラスト・サムライ」などがある。
また、子ども向けのものでも「ポカホンタス」や「ファーン・グリー」(FernGully)などがある。
このようなストーリーというのはかなり使いやすいものだ。映画監督に「白人救済者伝説」というのは誰にでも知られているストーリーなので、あえてくどくどと説明する必要はないくらいなのだ。
また、このようなストーリーは、あまり社会的な面でも工夫しなくても済む。なぜならこのような映画は「環境にやさしい」ものであるために観客に受けるのだ。またこれは多文化に配慮したものであるためにアカデミー賞の審査員たちにも受けがいい。それにこれは土着の人間たちが軍産複合体を倒すストーリーが含まれることになるため、映画評論家たちにも受けるのだ。
しかし今まで作られた「白人の救済者伝説」の中でも、ジェームス・キャメロンの「アバター」ほどこれを強調して使っているものはない。
「アバター」は特に優れた人種ファンタジーである。主人公は自分の属していた文明に嫌気を感じていた白人の元海兵隊員であり、彼はある巨大企業で宇宙の奥にある星の手つかずの環境から資源を略奪し、平和を愛する原住民を追放する仕事を任されるのだ。
平和を愛する原住民たちというのは、北米インディアンやアフリカ、ヴェトナム、イラクなどの文化をあわせもったような、他の映画でも見たことがあるような、典型的な「平和を愛する原住民」である。彼らは背が高く、見事なほど細身であり、ほぼ裸の状態で生活している。そして彼らは驚くほどの運動能力を持っており、歌や踊りも上手い。
この主人公の白人の男は、彼が出会った強欲な企業の手先や血に飢えた米軍タイプの人間たちよりもこの平和を愛する原住民たちのほうが魅力的であることに気が付くことになる。
彼は原住民たちと暮らしはじめ、そして短期間のうちに彼らの中でも最も尊敬される一員となり、原住民の中でも最もセクシーな子とセックスすることになる。
主人公はジャングルの中を飛び回ったり馬に乗ったりすることを習い、最終的には原住民たちよりも根性や運動能力があることを証明することになる。彼は原住民たちが長いことと乗りこなせなかった赤い大きな鳥を乗りこなすようになるのだ。
このようなことを体験するうちに彼は目覚めることになる。平和を愛する原住民たちが自然と共に生きる存在であり、しかも彼らの体には光ケーブルのようなものが出ていて、それを馬や木につなげて会話することができるのだ。彼らは本や携帯電話、そしてレンタル映画などに毒されていないため、深く落ち着いた魂を持っているのだ。
原住民たちは、この白人の主人公の男に対して、彼自身も深く落ち着いた魂を持っているということを気付かせてくれるのだ。
原住民たちは素晴らしい身体と完全に環境にやさしい感覚を持っているのだが、彼らは自然の中に生きており、歴史を作り上げるような生き物ではないのだ。軍産複合体が彼らの住処を採鉱しようとしに来たとき、彼らには自分たちを率いてくれて、守ることを教えてくれるような白人の救済者が必要となるのだ。
そしてここで主人公が登場し、母なる地球に呼び起こされた恐竜たちの助けを借りて立ち向かうのだ。彼とその仲間である「自由を求める戦士たち」が襲いかかる海兵隊や元海兵隊たちを次々と蹴散らし、彼は最終的に究極のものを手に入れることになる——つまり原住民から受け入れられ、残りの人生を素晴らしい文化の中で過ごすのだ。
この映画が世界中でヒットしている理由はキャメロンの「白人の救済者伝説」の扱い方の上手さにあるわけではない。ジョン・ポッドホーレツがウィークリー・スタンダード誌に書いたように、「キャメロンは特殊効果に影響を与えるために、このような使い古された話を使ったにすぎない」のだ。このストーリーは世界中の観客にアメリカの兵士が殺される場面を見せるチャンスを与えることにもなるし、マクドナルドなどの会社が抱き合わせ販売できるようなきっかけも持っている。
そうはいっても、あらゆる白人救済者の寓話、とりわけキャメロンが使ったようなものには不愉快な側面があるということを指摘するのはまったくのお節介でもないだろう。
このような「伝説」には白人が合理主義者で技術専門家であり、植民地側の被害者たちがスピリチャルで運動能力に優れているという偏見がある。また、それは非白人たちは自分たちの正義の戦いを導いてくれるような「白人救済者」が必要であり、文盲は美徳であるという「想定」の上に立っているのだ。
またこれはある種の「諸刃の文化帝国主義」とも言えるものを生み出すことになる。つまり原住民たちは、自分たちの歴史を残酷、もしくは善良な帝国主義者たちによって形成されるのだが、いずれにせよ彼らはわれわれの自己探求のための旅の脇役となるのだ。
これはつまり単なる現実逃避なのだが、慈愛的な空想主義というのは、それをいくら特殊効果の自然の風景に置き換えても、邪悪な空想主義と同じように恩着せがましくなることがあるのだ。
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言われてみれば、たしかに「ラスト・サムライ」も「白人救済者伝説」でしたな(苦笑
by masa_the_man
| 2010-01-13 05:49
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