月収最高1億8000万円を稼ぎ、ストリップの帝王と言われた元銀行マンを取材し、『ストリップの帝王』にまとめた八木澤高明氏が描く、もう一つの物語――。
ベテランの踊り子、大いに語る
「あの時代は、お客さんが黙っていても入った時代だった。劇場の外までお客さんが押しかけてきたから、入り口のドアが閉められなかったこともよくあったのよ。一回ごとに入れ替えがあったけれど、たいてい劇場の出入り口は一ヶ所しかないから、出入り口の外までお客さんで溢れていると、中のお客さんを出すことができなかった。
そこで、お客さんに靴を脱いでもらって、ステージから楽屋を抜けさせて、踊り子用の出入り口から出したことがあったぐらいなのよ」
昭和50年代からバブルが弾ける頃までのストリップ劇場の様子を語ってくれたのは、芸歴が40年近くなる現役の踊り子である。閑古鳥はおろか、潰れていくストリップ劇場があとを絶たない昨今のストリップ業界を思うと、遠い昔話を聞いているような感覚になってくる。
私は今も営業を続けている埼玉県内の劇場の楽屋で、踊り子に話を聞いていた。訪ねた日は五人の踊り子たちがステージを務めていて、そのうち三人の踊り子は二十代で、目のやり場に困る色気を解き放っていた。
「賑やかだった時代、劇場の雰囲気は如何だったんですか?」
「お客さんも元気だったわね。まだ音楽が流れたばかりでこちらは脱いでもいないのに、衣装のボタンに手をかけただけで、あちこちでオナニーがはじまる時代だったのよ」
「そんなことが許されたんですか」
私は思わず声を上げていた。昨今のストリップ劇場では、踊り子の演技に目をやり、時には拍手を送り、行儀よく観覧するというのが、通常の雰囲気だ。かつてのストリップ劇場は、女に飢えたオスが行き場の無い性欲を発散する場でもあったが、当然ながら今の劇場には、そんな客も空気も存在しない。
「今じゃオナニーなんてしたらすぐにつまみ出されるけど、あの時代はそれが普通だった。本番まな板ショーだって、みんなの前でやるわけだから、今からじゃ考えられないわよね。あれ以上過激なものはないから、お客さんが過激なものに慣れてしまって、ストリップが飽きられてしまったことは確かだと思うわよ」
本番まな板ショーとは、ステージ上で客と踊り子がセックスをするサービスである。
「いつぐらいまで、本番まな板ショーはやっていたんですかね?」
「今から十年ぐらい前の西川口じゃないかしらね。あそこにはピンク部屋もその時ぐらいまではあったから」
ちなみに、ピンク部屋とは本番サービスを提供する個室のことで、主に本番まな板ショーを担当する踊り子がつとめていた。西川口にあった劇場はすでに潰れているが、ピンク部屋で体を売っていた日本人の踊り子が、話を聞いていた踊り子の隣に座っていた。
彼女の芸歴も三十年以上あり、ベテランの踊り子である。彼女にピンク部屋について話を聞いてみた。
「西川口には三部屋ピンク部屋があったんですよ。外人はみんなやっていたけど、日本人もいました。まな板ショーが無くなってからは、個室が大きな収入源になっていたと思います。一日に二十人くらい相手しましたよ。こっちは気持ちいいも何も、何も感じないですよ。とにかく人数をさばかないといけないですからね。当時は個室の人気が凄かったから、どんだけサービスが悪くても入ってくるんです」
「ピンクにしろ、本番まな板ショーにしろ、日本人の踊り子さんはどんな思いでやっていたんですかね」
「今の若い子たちは、踊りが好きとかいう理由でストリップに入って来る子が多いけど、昔はみんな生活のためにやっていたのよ。誰も好き好んで、本番まな板もピンクもやっていないわよ。東南アジアの子ばかりじゃなくて、日本人だって必死にお金を稼いでいたの」
本番まな板ショーという常軌を逸した宴は、今から三十年ほどの前の日本では普通におこなわれていた。日本から年々ストリップ劇場が消えた今となっては、本番まな板ショーはどこの劇場に足を運んでも見ることはできない。高度経済成長時代からバブル景気の頃におこなわれていたこのショーは、日本が生んだストリップの極みともいえる。
そうしたショーは客の要望であったと同時に、貧困から抜け出そうとする東南アジアや一部の日本人の踊り子にとっては、世の中を生き抜くひとつの手段となっていた。