2016.01.10
# 週刊現代

日本軍の「虐殺者」はこうして生まれた
〜悪魔のエリート参謀・辻政信と皇族の関係

南京大虐殺紀念館〔PHOTO〕gettyimages

辻流の「鍛錬」理論

比類のない残忍さと道義性をあわせもつ辻政信のような「怪物参謀」が、なぜ、昭和の陸軍に生まれたのだろうか。その辻をもう少し追ってみたい。

私の胸には「辻は美しい理念の虜になったからこそ、あれほど残忍になったのでは」という思いがあるのだが、いきなり言うと混乱を招くから、たわ言だと思って聞き流してほしい。

さて、今回は、戦時中の辻と交流のあった皇族に登場してもらおう。

今月、100歳の誕生日を迎えた三笠宮崇仁親王だ。三笠宮は昭和天皇の末弟ながら「戦時中から反ナショナリズムの信念を持ちつづけていた稀有の人」(友人の色川大吉・東経大名誉教授の言葉)である。

満州事変の翌年の1932年、学習院中等科を出て陸軍士官学校予科に入った。当時、三笠宮は日本軍の戦争を「聖戦」だと信じて疑わなかった。だが、'43年1月、支那派遣軍参謀として南京に行き、そこで日本軍の残虐行為を目の当たりにした。

戦後の回想録で三笠宮は〈ここではごくわずかしか例をあげられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考え下さい〉として、こう語る。

〈ある青年将校―私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました〉

「悪魔の部隊」と恐れられた731部隊の生体実験である。

三笠宮はつづける。〈その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました〉。

そんな日本軍と対照的だったのが敵の八路軍(共産党軍)だ。彼らは山奥に追い詰められて食糧がなく、その陣地線はえんえんと連なる岩山だった。しかし彼らはそこに土を運んでは種をまき、自給自足の長期持久戦に耐えていた。三笠宮は言う。

〈彼らの対民衆、ことに婦人にたいする軍紀はおどろくほど厳粛でありました。当時、日本軍人で婦女子に暴行する者がいることに頭を悩ましていた某参謀は、「八路軍の兵士は、男性としての機能が日本人とすこしちがうのではなかろうか」と、まじめに話していました〉

日中終戦史話』(小川哲雄著・原書房刊)によると、三笠宮は'43年春、大会堂に軍幹部以下数百人を集め、「略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か」と厳しく叱責した。が、三笠宮が退席すると、軍幹部は「今のお言葉は畏れ多い次第であるが、その何というか、あまり、いやまあ、なるべくだな、外部に口外せんようにな」と部下たちに言ったという。

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