『なぜケータイ小説は売れるのか』
本田透の『なぜケータイ小説は売れるのか』(ソフトバンク新書)読む。たいへんおもしろかった。この本の主張を一言でまとめてしまえば、ケータイ小説は現代の女子中・高生のあいだで民間説話のように消費されている、ということになるだろう。これはたいへん卓見で、とりわけ
レイプや妊娠や不治の病といった不幸イベントを堪え忍んだ結果、「真実の愛」を見つければ全ての不幸なイベントがキャンセルされ、「幸福」になれるという信仰。それが、リアル系ケータイ小説を読む少女たちの心の中に存在する。だからこそ、「神様」とか「天使」とかいう宗教的概念が連発されるのだ。
という分析には蒙が啓かれた。本田透は「恋愛資本主義」の支配を訴えていたわけだが、どうとうそれは宗教にまでいたってしまったというわけだ。「自分探し」がひとつの宗教と化している……というと、なんだか香山リカみたいだな。
この恋愛信仰は、東京においては肥大化した資本消費主義社会のシステムと融合している。(中略)
一方、地方都市では、恋愛信仰はもっと素朴な、ある種の民間説話的な姿を取って「空気」のように彼女たちの周囲を覆っているのだ。
たぶんこれを地理的に分割されたものとして考えるのはかならずしも正解ではないのだろうけれど、こういう分析から学ぶところは多いね。少なくとも、これまでケータイ小説と文学をめぐって語られてきたさまざまな言葉の中では、もっとも納得できる説である。
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コメント
女子高生らが駅でケータイ小説読んでキャアキャア笑ってる姿を見て、
「ああこうやって楽しむのか」と想いましたが、
民間説話と聞いて納得いきました。
「放課後のヒマつぶし」と思って一冊読んでみたら結構面白かったです。
投稿: ヒノキオ | 2008-02-27 19:30
ケータイ小説の読者層が『マルコヴィッチの穴』とか見たらどういう反応するんでしょうか?
レスターさんに共感したりして。
……ナイか?
イヤ、一昨日ひさしぶりに見たもので(汗)。
投稿: 冬の蠅 | 2008-02-27 22:14
初めまして。
本を読んでいないので、柳下さんの文章だけでしか判断できないのですが、これは「ナルホド!」と気づかされました。
そもそも、「説話」というのは、そんな肌触りだった気がします。リアル系と表現されたものの核心が、案外『耳袋』とかに書かれた内容と地続きなんだろうなあ、と個人的に思ってしまいました。
人面犬みたいな都市伝説みたいに、未知で外からの脅威とか恐怖じゃなくて、レイプや病気という既知ですぐ周りで身に降りかかりそうな要素で構成されているところに、「リアル系」という言葉が発生する意味があるのかなと考えてみたり。「リアル≠現実」で、テロとか地震じゃ駄目なんだなあ……。
信仰という単語で見ると、現実の恋愛とは≠である「若い子が思い描く恋愛」って、神社で神頼みする時の願望や祈りの尺度と似たものかな、とか(大人の場合は? とはまた難しいが、似たりよったりだろうけど)。
米光一成さんが、以前ケータイ小説云々について触れていましたけど、まあ、そら昔のコバルト文化から変わってないといやぁ、変わってないのかも。
http://blog.lv99.com/?eid=729793
ただ、柳下さんが指摘されている、
「たぶんこれを地理的に分割されたものとして考えるのはかならずしも正解ではないのだろうけれど」
という部分で、じゃあ地方はどんな感じかなーと考えてみたり。だれか『全国アホバカ分布考』みたいに調べてくれないのか……今でも地方の平家落人伝説が残る集落には、『Oil』のダニエル・デイ=ルイスみたいな親父を中心に近親相姦が行われ、いあいあと儀式の最中に青年が――すいません、夢見すぎました(あとコメント欄荒らしすぎ、すいませんです)。
投稿: 小栗四海 | 2008-02-27 22:42