個人的な理由で、沖縄の石垣島で親戚が営んでいるゲストハウス民宿を手伝いながら暮らすことになり、一昨年の暮れに、転居と転職を行いました。
石垣島の自然の中でスローな生活をしばらくは送っていこうと思うので、このブログの更新は行いませんが、読み物記事としてこのまま公開をしておきます。
石垣島でもっとも有名な川平湾です
親戚が営業している石垣島のゲストハウス民宿
【白保フレンドハウス】 です。
今後は石垣島の情報や話を最近流行りの「Twitter」や「Facebook」などをつかいながら行っていこうと考えていますので、そちらのほうにも寄ってみてください。
身内の営む
ゲストハウスのホームページ からリンクしています。
Hiroより
ちょっと更新まで日にちが空いてしまいました。
無駄足を運ばせた方々にはお詫び申し上げます。
WBCの2連覇、本当に凄かったですねぇ~・・・・ 。
アメリカのマスコミではたいして話題になっていないようなんですが、やっぱり
日本人は凄いですよ!!
さて、芸能界では
美人女優の離婚が話題ですが、大正時代にも世間を相当騒がせた美人がいたんですねぇ・・・。
大正三美人 (たいしょうさんびじん)と呼ばれ、大正時代に世間中で美人と言われた三人のことで、
九条武子(1887 - 1928)
柳原白蓮(1885-1967)
江木欣々(1877-1930):
あるいは日向きむ子 とする場合もあるようです)の三人です。
日本で始めての美人コンテストの記事のときにも少し書いたのですが、今と美人の基準が違うのではないかと思っていましたが、写真を見る限り、今の時代でも十分美人と呼ばれるレベルの方々です。
その中で今回、取り上げるのは
三人の中でもっとも波乱に満ちた人生を送り、諦めていた恋の情熱にすべてを捨てて身を委ねた為に世間中から非難を浴びることとなった歌人 の
柳原 白蓮 (やなぎはら びゃくれん)を取り上げます。もちろん、私は今回記事にするまでまったく聞いたこともない方です。
ここからは ドロドロの連続「昼ドラ」愛憎劇並み以上の話がはじまります。
今回は
ドラマ仕立てにしてみました。お楽しみに・・・
柳原白蓮 (明治18年10月15日 - 昭和42年2月22日)は歌人で、
本名は 子(あきこ) といい東京に生まれました。
父は華族の柳原前光(やなぎはら さきみつ)伯爵 で、
母は前光の妾のひとりで没落士族の娘で柳橋の芸妓 となっていた奥津りょう(通名おりょう)です。おそらく母親も芸者さんをするくらいだったのでしょうから美人だったのでしょうね。
しかし、お妾さんの子供だったために子は
生後7日目に柳原家に引き取られ 、前光の正妻・初子の次女として入籍され、当時の華族の慣習として
いったんは里子に出されたのちに柳原家に再び戻り 、養育されたのだそうです。
三歳の時には生母おりょうが病死しましたが子は
最初の結婚まで自分が妾の子とは知らなかった ということです。
ドラマの出だしとしてはまずまずですね・・・また、
家柄も、大正天皇の従妹にあたる血筋の高貴な家柄 だったので、華族の子供として1892年(明治25年)麻布南山小学校に入学、1898年(明治31年)華族女学校(のちの女子学習院)に入学し、当時の慣習にならい、
14歳で家族の決めた北小路子爵家の息子資武(すけたけ)と 結婚 します。
15歳で男児を出産しましたが、
実は、結婚相手が精神薄弱に近い状態 で、余りにひどい結婚生活に見かねた
白蓮の家族は、5年後に離婚させますが、子供は夫の母方に奪われてしまいました 。
最初の盛り上がり場面としてはかなりの出来です・・・実家に戻った後 、1908年(明治41年)東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に入学し、寮生活を送る中、歌人、佐々木信綱に師事し「心の花」に
短歌を作り発表し始めました が、
『出戻り』であるが故に卒業後も幽閉に等しい生活 を余儀なくされていました
そして、
27歳の時に、25も年上の 52歳の九州一の炭坑王として財をなし、政友会の代議士であった 伊藤鉱業社長伊藤伝右衛門と 再婚させられた のでした。
これは兄の柳原義光が貴族院議員に出馬するため資金が必要だったことと、名門との関係を結びたかった伊藤伝右衛門の思惑が一致した
政略結婚 でしたが、
幽閉生活からの脱出を願うあきこ自身の利害も一致した末の結婚でもありました。 なかなかのドラマの展開です・・・当時の新聞 では名門華族と飛ぶ鳥落とす勢いの炭鉱成金同士の結婚ということで“
黄金結婚 ”と大いに祝福され、伊藤伝右衛門は飯塚市幸袋に敷地1500坪、建坪250坪の自宅があったのですが、さらに彼女のために福岡市内の別府に屋根を銅で葺いた「
赤銅(あかがね)御殿」を建て、子を迎え入れた のでした。
こうして子は
「筑紫の女王」 と呼ばれるようになったのでした。
まさに主演女優の華やかな表の顔・・・・しかし
伊藤家には妾の子、父の妾の子、妹の子、母方の従兄妹などが同居 していたほか、
数十人もの女中や下男や使用人たち もいた上に
伝右衛門は何人もの妾がいたり、女中に手をだす など複雑な家族構成に悩まされていたのが現実でした。
後年、
白蓮は、夫を挟んで夫の妾と3人で布団を並べていた こともあると告白しているそうですが、昔の金持ちの豪放磊落というか破天荒な様は想像を超えてますね。
やはり、予想通りの展開ですか・・・そんな
日々の懊悩、苦悩を 子は
歌人として、ひたすら歌に託し 「心の花」に
作品を発表 しつづけたのでした。
1915年(大正4年)、
処女歌集『踏絵』を自費出版し、その号を 信仰していた日蓮にちなむ「白蓮」 とし 、その浪漫的な作風は「生の軌跡を華麗かつ驕慢に」(正津勉)詠って、多くの読者を惹き付けたのでした。
こうして
白蓮は世間に 情熱的歌人として名が知られる ようになり、大正三美人(他は九条武子と江木欣々、あるいは日向きむ子)の一人として知られるようになっていきました。
別府の赤銅御殿は白蓮を中心とする歌人のサロンとなり、そのなかで白蓮は仮想的な恋愛を楽しんだそうですが、その一人が医学博士で歌人の久保猪之吉といわれています。
今回カラー化する写真です。 まさに和風美人・・・
表の華やかな女の顔と、その裏の静かな芸術家の顔・・・・、画面の様子が目に浮かぶようです・・・。1918年(大正7年)
「大阪朝日」は「筑紫の女王・子」を連載 。
1919年(大正8年)
詩集 『几帳のかげ』、
歌集 『幻の華』刊行。
1918年(大正7年)、
戯曲 「指鬘外道」(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表。
これらが評判になり、ある劇団が子の作品の上演を希望したのですが、それが
雑誌「解放」の記者で宮崎龍介 という人 でした。
そして、まさにそれが運命の出会いでした
。
\(^0^)/キター・・・!! ドラマの主演男優登場! カラー化しました あきこは30代半ばで、宮崎は彼女よりも6歳年下 であり、まだ人妻の恋愛が姦通罪として制裁されていた時代。さらには
龍介の父は孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天 、
龍介自身も吉野作造らと社会革命の理想に燃える帝大新人会のメンバー で、これは実るはずのない恋でしたが、
それでも二人の恋は燃え上がり、あきこは宮崎の子を宿す こととなりました。この妊娠が更に二人の気持ちを確認し、命がけの恋を固めるきっかけとなりました。
ここからがドロドロの愛憎シーン・・・そして、1921年(大正10年)白蓮は伊藤伝右衛門と上京したのを機会に
伊藤の前から姿を消した のでした。
同年10月22日の
朝日新聞は 「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」 と報じ 、内容は「
同棲十年の良人(おっと。夫と同義)を捨てて、情人の許へ走る 」というものであった。
これに対し、
同日の「朝日新聞」夕刊 に
白蓮名義で
『
私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り(まもり)且培ふ為め(つちかうため)に貴方の許(あなたのもと)を離れます 』という公開絶縁状を掲載しました。凄いッ!!
これは白蓮が書いた手紙を宮崎の友人が書き直したものであったのですが、
絶縁状の公開は大きな社会的反響を呼び、当時の世論は白蓮を激しく非難 する声で満ちました。
国中を巻き込む展開は昼ドラ以上です・・・この出来事は
国中を騒がせ 、特に
国家主義の団体からは、国体をゆるがす大事件として白蓮や柳原家を攻撃し、この一件により、兄義光は貴族院議員を辞職することになってしまいました。
夫の伊藤伝右衛門 は「
大阪毎日新聞 」に
「
絶縁状を読みて子に与ふ 」と題し『(白蓮との結婚生活を)
俺の一生の中で、最も苦しかった十年 』などと表現した文を掲載したが、白蓮と龍介を姦通罪で起訴することはしませんでした。
伊藤の親族には白蓮を『遠賀川にたたきこめ』と激昂 する者もいたが、伝右衛門は白蓮に手を出すことを禁じ、今後いっさい白蓮を話題にすることも許さなかったそうです。
白蓮 は男児(女の子のような名前:香織)を出産 した後、断髪し
尼寺に幽閉の身 となったその一方で、夫の伊藤
は
白蓮が産んだ男児の父親を確認する訴訟を起こした のですが、1923年(大正12年)関東大震災の後、
白蓮の産んだ子は伝右衛門の子ではない という判決が下り、白蓮の姦通の罪は明らかとなりました(すでに当時の伊藤には子作りの能力がなかったから・・・)。
後半のヤマ場も終え終盤に・・・、と思いきや・・・結局、
白蓮は華族から除籍 され、
財産も没収 されて伊藤伝右衛門との
離婚がようやく成立 し、こうして正式に龍介と結婚、息子の香織を伴い
親子3人の生活が実現 することとなりました。
しかし、
夫は結核を発症 し、一平民となった白蓮の
一家は貧窮の状態 になり、白蓮は筆一本で必死に家計を支えたそうです。
まさにドラマ・・・、最終回を前に迎へ、驚きの事実が・・・・ 白蓮
一家の“窮状”を人づてに伝え聞き同情した因縁の白蓮の前夫 伊藤は 白蓮・宮崎に 経済的援助を申し出た のだそうです。しかし、別離の事情が事情であった経緯を踏まえ、
白蓮自らの断りがあったといいますから伊藤という男もなかなかのものですよね。悪役が最後には改心するというか、
もしかすると心の底では、本当に白蓮を愛していたのかも・・・ 1925年(大正14年)には
長女、宮崎蕗苳(ふきこ)が誕生 。
夫、龍介の結核は回復 して、その後弁護士として活躍し、経済的にも立ち直り、1931年(昭和6年)には龍介と中国を旅行もしています。
しかし、平和な日々は続かない・・・そして、1945年(昭和20年)8月11日、 長男・香織が戦死 したことがきっかけとなり、 戦後は 平和運動に参加、熱心な活動家 として知られるようになりました。 一方、 もと華族の人間として、 皇太子と平民出身の正田美智子との 結婚に際しては、松平信子ら旧華族出身者と共に強硬に 反対した そうですから自分以外のことにはかなり保守的な人のような気もしますね。 最後まで華族としてのプライドは捨てずに・・・・,ついに最終回目前1961年(昭和36年)、 緑内障で両眼失明 した後も、龍介の介護のもとに 歌を詠みつつ暮した半生 は、決して不幸ではなかったと思います。 時代とは言え、幼くして、また若くして2度も策略結婚をさせられ、その後、知らなかった「愛」という感情に燃え、それを貫くためにそれまでの生活や人生を投げ捨てて愛しい人との愛に賭けた彼女の思いは、当時の社会情勢を考えれば並大抵のことではなかったでしょうが、スキャンダルの末没落した実家・柳原家を横目にしながらも、晩年は平穏で幸せな生涯であったと思います 。1967年(昭和42年)逝去、81歳 。1971年(昭和46年)龍介逝去、78歳。 二人が逝去まで暮した家は西武池袋線旧上屋敷(あがりやしき)駅近くにあり、いまも子孫が暮しているそうです 。 子孫の方々も美人なのでしょうか・・・・?他の大正美人の人生も知りたくなりましたので、次回取り上げますね。
昔の映画はよく知らないのですが、
ロバート・レッドフォード の笑顔が大好きです 。特に照れたように笑うときが最高です。
女性でなくても惚れてしまいます
。私は男ですが、その笑顔を観ているだけでいいと思えるほどです。
レッドフォードのような笑顔のできる男になりたいと憧れましたが、アジア人の私にはとても無理な願いでした
。
残念ながら、日本にあんな笑顔のできる俳優を見たことがありません。
甘くソフトなルックスは、
ブラッド・ピットがロバート・レッドフォードに似ていると国内外問わずよく言われ ていて、私もそう思っていました。きっと、若い頃のレッドフォードはブラピのようだったんだろうなとずっと思っていたのです。
そこで、今回彼の記事を書いてみる際に、レッドフォードの若い頃の
写真を探してみたら、何枚かありまして見てみると、
人気が出る前の写真があまりに、想像と違っていた のでちょっとガッカリしたような気持ちになってしまいました
。
ブラピの雰囲気は全然ないし、どちらかというと、ちょと油っぽい(笑)感じがしましたが、皆さんはどんな印象でしょうか・・・
やはり、
芸能人は売れてきてこそ、はじめてその人の雰囲気が出来上がっていくというもの なのでしょうね・・・。
調べてみると、以外にも遅咲きのスタートだったといえるようです。
ロバート・レッドフォード (Robert Redford, 1936年8月18日 - )は
カリフォルニア州サンタモニカ出身で現在72歳です。
高等学校卒業後、
野球の特待生としてコロラド大学に進学し、投手として活躍するも、未成年での飲酒が発覚し特待生の資格を失ったことで中退した後、
画家の道を志しヨーロッパに渡り放浪生活を送るも挫折 しアメリカに戻ってきました。
ヨーロッパ放浪生活後にユタ州に移住して同じアパートに住んでいた
17才のローラ・ヴァン・ワンジメンと 結婚しましたが貧しい生活が続いた ようです。
舞台美術勉強のため、アメリカ演劇アカデミー(AADA)に入学したのですが、途中で役者志願に転向し1959年に
ブロードウェイでデビューしました。しかし、
デビューと言っても通行人役でのブロードウェイ舞台のデビューだった のです。
そして、しばらくは全く売れない時代が続き、生活費はローラ夫人の銀行勤めでまかないながら、テレビドラマや舞台で小さな役を経験し1962年には初の映画出演を果たすも大きな役に恵まれず
長年に及ぶ下積み生活 を余儀なくされたそうです。
今回取り上げる写真は、
この下積み時期にテレビドラマにちょい役で出演したとき のものです。
1959年に放映されるや一大ムーブメントを巻き起こしたSFドラマの金字塔! 米ドラマ『ミステリーゾーン』 (全94話)1959-1961年のうちの第40話「死神の訪れ( Nothing in the Dark)」
出演:R.G.アームストロング、グラディース・クーパー、ロバート・レッドフォード
そして、彼にも多くのアーティストにあるようにチャンスが訪れました。
1969年、アメリカン・ニューシネマの傑作
『明日に向かって撃て!』に出演をするのです。
興業的に大成功を収め、レッドフォード自身も知的で信頼性があり、時に冷淡な雰囲気を醸し出す俳優として
一躍スターダムに上り 詰め、1970年以降にはハリウッド屈指の美男俳優として数多くのヒット映画に出演してきたことはご存知の通りです。
『明日に向って撃て!』・『スティング』・『アウト・オブ・アフリカ』 『大統領の陰謀』・『遠すぎた橋』・『ナチュラル』 『愛と哀しみの果て』・『スパイ・ゲーム』・『二重誘拐』 他多数 カラー加工しました
ハリウッドを代表するスターになったレッドフォードですが、彼は人気スターに溺れることなく着実に歩みを続け、自己プロデュース能力にも長けていて、出演する作品を選択したり監督としての視点で作品を見つめ続け、
1980年には初めて監督した映画『普通の人々』でアカデミー監督賞を受賞します。この受賞により、ハリウッドで初めて「演技と製作の双方で地位を確立した映画人」の地位を確立 し、翌1981年、ユタ州のパークシティに
若手映画人の育成を目的として映画製作会社サンダンス ・インスティテュートを設立しました。そして、優秀なインディペンデント映画とその製作者を世に送り出すためにサンダンス映画祭を開催していることは有名ですよね。72歳になる現在も出演、監督、製作の面から映画に携わりながら映画人育成に積極的に取り組んでいます。
17才で彼と結婚し、極貧の下積み時代を支えたローラ婦人とは1988年に 離婚し ていますが二人のあいだには四児(ショーナ、エイミー、ジェームズ、スコットの二女ニ男)がいます。
ローラ元夫人が可哀想・・・・ でも、たくさんの慰謝料をもらったのかな・・・・ ・
今回は、
世界でもっとも 華やかな? 女性 の写真を取り上げてみました。
この写真をご覧になればもうおわかりですね。イギリスの
エリザベス女王 です。
エリザベス2世は
イギリスだけの女王かと思っていたら、なんとイギリスを含め16の国家の女王・元首 であり、それぞれの国で異なる正式称号を持っているのだそうで、ちょっとビックリです
。
・
イギリス (グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)、
・オーストラリア 、・
ニュージーランド 、・
バルバドス 、・
カナダ 、・
ジャマイカ 、・
パプアニューギニア 、・
ソロモン諸島 、・
ツバル 、・
セントルシア 、・
バハマ 、・
グレナダ 、・
セントクリストファー・ネイビス 、・
アンティグア・バーブーダ 、・
セントビンセントおよびグレナディーン諸島 、・
バミューダ諸島 、・
ベリーズ 過去にはこれ以外にも、パキスタンや南アフリカやナイジェリアなどの国が共和制に移行する前に、これらの国の女王を務めたこともあるそうですから、
まさに大英帝国 という言葉の象徴のような方ですね。
イギリスにおいては女王の
正式な称号 は以下のようなものだそうです。
「
Her Majesty Elizabeth the Second, By the Grace of God of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her Other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith 」
直訳は『
神の恩寵において、グレートブリテンおよび北部アイルランドの連合王国ならびにその他の王国・領土の女王、英連邦の元首、信仰の擁護者にあらせられるエリザベス2世陛下 』です。
このため、法的に厳密に考えると、
時の政情により相互に反対の意見を持っている国の元首として 同時に2つ以上の顔を持つことにもなるそうで、たとえば2003年に勃発したイラク戦争では、同戦争に賛成したイギリスやオーストラリアなどの元首という立場を持つ一方で、同戦争に反対したカナダの元首として行動することもできる状態であったのだそうです。
実際にイギリス以外の国の元首として行動することもあるそうで、特にその国に滞在している場合などがその一つで、たとえばカナダ滞在中はカナダ女王として、オーストラリア滞在中はオーストラリア女王として、パプアニューギニア滞在中はパプアニューギニア女王として行動するそうなのですが、
この問題は非常にややこしいものであると言わざるを得ないと政府も考えている そうですが、本人が一番戸惑うことなんじゃないでしょうか・・・。
今回カラー化するのは1940年後半~50年頃の写真です
1926年に、ロンドンにおいて連合王国国王ジョージ5世の次男ヨーク公アルバート(後のジョージ6世)と妃エリザベス・バウエス=ライオンとの間に第1子として生まれました
。
出生時において、伯父の王太子エドワード(後のエドワード8世)、父アルバート(後のジョージ6世)に次いで第3位王位継承者であったのですが、1936年1月のジョージ5世の死去を受けて
国王に即位した叔父のエドワード8世が、離婚経験のあるアメリカ人女性との結婚を希望したことを受けて、首相らに退位を迫られ、同年12月に退位してしまいます(まさに今のチャールズ王子とカミラ婦人の時と同様に “王冠を賭けた恋”として知られてるそうです。 そしてその退位したエドワード8世の弟でエリザベスの父であるアルバート王子がジョージ6世として国王に即位することになり、この時からエリザベスは一家とともにバッキンガム宮殿に移住し、王位の推定相続人となるのでした。
1939年に勃発した
第二次世界大戦中は、有名なウィンザー城へ疎開したりもしていますが、第二次世界大戦におけるイギリスの勝利後の
1947年11月にウェストミンスター寺院で、ギリシャ及びデンマークの王子フィリップと結婚しました 。エリザベスは1939年に遠縁であるフィリップ王子と会った際、王女は一目で恋に落ちたのだと言われています。
生来病弱であった
君主、父ジョージ6世は、1952年2月、ケニア滞在中に崩御し、これを受けて直ちにエリザベスは女王に 即位して「エリザベス2世」となり 、同名の母エリザベスは「エリザベス王太后」となったのでした。
2007年12月20日にイギリス史上最高齢の君主となり
82歳の現在も健在です。
なにかテレビや映画の世界の童話にでも出てくる王女様のような生活が目に浮かびます。
カラー化しました
エリザベス女王は王室の慣例通り、幼い時から
学校へは通わず
宮廷で教育を受けていますが、
「国民に親しまれる王室」 を目指し 、即位後は積極的にイギリス連邦諸国のみならず日本やアメリカ、フランスなどの諸外国を訪問するほか、私生活をテレビで放送するなど新しい試みを行っています。
執務の一環としては、老若男女あらゆる階級から届けられた国民の願い事の中で厳選された
手紙を読んだり、また最近では
電子メールにも目を通しているというのですからかなり進歩的な方なんでしょうね・・・。
また、若い頃に熱中したことがきっかけでクロスワードパズルを解く事が趣味となり、毎朝目を通す新聞(サン紙などのタブロイドも含む)に掲載されているクロスワードを空き時間などに解いたり、さらには
孫のウィリアム王子が持つ 任天堂の Wii を宮殿での昼食後に遊んでいるのを見て女王は自ら入っていき気に入ってしまい、『 Wii Sports 』のボウリングでは82歳には思えない実力を披露し、王子も「こんなクールなおばあちゃんを持った事に満足だ」と話している そうです。
その一方で
毅然たる一面も持ち、
マーガレット・サッチャーが首相時代に女王と一緒に国民の前に出る際に、「女王と服装を合わせたい」と希望した折、「臣下の服装に興味はありません」と一蹴したといいいますからかなりキツイ一面ももってそうです。言い換えれば「王族以外の人間と私が同じ服を着ることなど有り得ません」ということですもんね・・・。 裸になれば、誰でも同じ人間なのに・・・
ということで、また次回に・・・