今、感情をはじめ、もろもろの浄化の時期に来ているとよく耳にします(目にします、かな)。昔、とうの昔に記憶の隅に追いやったはずのものが、ふわ~っと浮いてくる感じです。私は大体育った家のことです。見ないことにして忘れたことにしていたものがまだまだあるんだろうなと思います。
母についてはいったん考えるのはやめます・・。どんなマザコンなんだ。
大学生になった時は拒食症にもなったし、どこかで、足りない感があったのでしょう。
若いころは、自分が存在すること自体にすごく罪悪感があったなあと思います。なんて若者だ・・。
前の記事、気分を悪くされた方がいたらごめんなさい。最終的には消すつもりです。私が繰り返し見てしまう、私に絶対OKを出さない、私、夫、子供にダメ出しする母や、薔薇を植えることにしても、とげが危険だ、そんなのなぜ植えるの~という周囲の人もしくは母(昔多かった)は、結局は自分で自分にOKを出せてないことの投影なんです。外をまず見て、そこから自分の内面を見てみろとたまたま読んだブログに見つけ、おお、そうだと思いました。
そして嫌な思いを繰り返すことに関しては、自分がそれを望んでいる(笑)・・・・究極のマゾなんだと思う。
苦労好き?神様は1円拾っても、宝くじで数千万円当てても、同じくらいの金運の良さとカウントするそうですね。大けがしても、手先をはさみで小さくけがしても、神様はそれも同等のけがとカウントすると。私は森田健さんの著書で読みましたが、最近は癒師よしひろさんの文章にもこのようなエピソードがあり、また、おおっ!と。つまり私のマゾは、このままではエンドレスではないか。
施設に入って長い、90歳の祖母がまた、体調を崩し、さすがに今回はあかんかもと両親が神妙な顔をしています。もう、ハハどころではなくなりました。
なんとか、持ち直したのですが、久しく会っていなかった祖母に触れて感じたのは(同じ敷地に住居があります)祖母も住んでいたこの土地のこと。せっせと畑を耕して、頭の光るおじいちゃんと、いろいろふるまってくれたっけ。ぼけてしまっても作業着だけはきちんと着て、サクサクと畝を立てていた姿をふっと思い出しました。祖母は、私のような想いじゃなくて、ここがとても好きだったように感じ取れました。お姑さんと母屋にいたときは辛かったでなあといつか言ってました。ここは分家なのです。
いろいろあって、折角家を建てたのに、この界隈は住みにくいなあ~、隣ともダメだし・・とブルーになることが多かったのですが、なんか、吹っ切れました。
それだって実は、体験したかったのかもしれないですしね。
いつまでも同じものを見てちゃだめ、私はもうこのパターンから抜け出そうと思います。もういっぱいしんどい思いしました。
人には、もう昔みたいなことは巡って来ないよ、大丈夫だよって言えるのに、自分となるとすっかり無限ループにはまってしまっていたようです。
そこじゃない、好きなもの、素敵なもの、を見なくては。