[書評] 公明党 創価学会との50年の軌跡(薬師寺克行)
二大政党という幻想が戦後日本史から崩れ去って久しいとまでは言えないが、国民間の相反する利益代表が二つの政党によって国民の信を問うという、希望、というのだろうか、かつての期待といったものは、すでに失われてしまった、と見てよいだろう。こう言うと批判も多いと思うが、現実的に見て、民主党政権はそうした戦後史の期待をかなりみごとにゴミ箱に投げ込んでしまった。
そうであるなら、どうするべきか。普通に考えれば、一定規模の第三極の登場とともに、政治の世界の再編成が進むべきだろう。しかしここでも率直に言えば、みんなの党の末路を見るまでもなく、そうした期待も虚しくなった。それどころか、そもそも二大政党という期待自体、他の先進国でも崩れつつある。そしてそこで台頭してきているのは、具体的な政治プランを持たない反発的な衆愚主義のようなもの、である。日本もそこに向かうのだろうか。
そうしたなか、現実の権力政党である自民党をどのようにチェックしたらよいのだろうか。どの政治権力が自民党の政策を具体的にバランスして批判できるだろうか。そういう構図で見るなら、単純にもう公明党しか残っていない。その具体例を挙げるまでもないだろう。具体的な政治の文脈でリベラルであることを現実的に求めるのであれば、自民党のリベラル性というものよりも、チェック機構としての連立与党にその批判性を期待するしかない。そしてその期待の意味もわずかではあるが、公明党も受け取りつつはある。
公明党の重要性は、そうした文脈では増しているのだが、これも言うまでもないだろう、そうした文脈自体が、おそらく苦笑の対象にしかならない。それは、民主党支持や既存左派の、予測されるありきたりの形骸化した苦笑ではなく、残念ながら国民全体に薄く広がっている苦笑なのである。
どういうことか。多数の日本国民は、本書の「まえがき」で明確に意識されているように、公明党の支持母体と、ほぼ前提的に分断されていることである。これは、労組支持を取り付ける民進党と多数国民との乖離といった構図よりも、はるかに強固であり、おためごかしのように知識人に食い入る共産党的な主張よりも、圧倒的な忌避感である。なぜか。
公明党が嫌われる最大の理由は、言うまでもなく、その強力すぎる支持母体・宗教団体である創価学会への忌避感の連鎖である。ではそれがなぜ生じるのかということは、大衆生活の次元で言えば、「彼ら」の活動がとても活発で、しかもそれが直接的に投票活動にまで手が伸びてくることだ。この様相はもっと具体的に語ってもいいが、そうした要素は本書にはほとんどない。そのため、本書には庶民生活に接する公明党の存在感は薄い。
そして、この忌避感の根幹にあるのは、これも言うまでもないが、創価学会の長である池田大作の存在である。これが杳として知れない。不謹慎ではあることはわかるが、端的に言って、88歳の彼のXデーは82歳の今上陛下よりも近いと想定して非理性的ではない。ではそのとき、連立与党である公明党にどのような波及が起きるのか。この問いは、日本の現実的な危機の一つに計上していいはずだ。が、本書にはその問いすらない。こうした問いにまつわるある種のタブーのせいとも思えない。だが、その問いにどのような答えが当てられうるかという点について言うのであれば、巷に語れるこの手の問題の安易な予測よりも本書の内容は示唆に優れている。そのためにも、日本政治に関心を持つ人は本書を読む価値はある。
本書は、副題のように「創価学会との50年の軌跡」を中心に、公明党史が平明に語られている。戦後史を学ぶための資料にも使える。こういうとなんだが、そのために本書がもっとも読まれるのは、創価学会の会員だろう。創価学会の現実的な会員は、案外、自分たちの宗教団体がなんであり、どのような権力構造しているのか、公明党はなんであるかということが、存外に理解されていない。竹入義勝や矢野絢也についてすら教条的な知識しか許されていない。それでも自由主義国にあって歴史というのは隠蔽できるもでもない。本書もその一例である。奇妙な言い方だが、本書は、創価学会や公明党員に、自己の集団の意義を、外部的で客観的な視点を介して問い返す大きな契機となるだろう。
とすれば、先の忌避感と会わせて、多数の日本国民には、実際にはそれほど意味がないのではないかとも思えるかもしれない。しかしより本書において価値があるのは、「創価学会との50年の軌跡」ではなく、「自民党との50年の軌跡」である。実際、本書は、少し視点を変えた自民党史と言ってもよい仕上がりになっている。そしてそのプロセスを見れば、特に小沢一郎を介して、明示的ではないが民主党が生まれてくる背景にもついても饒舌に語っている。
それでも史的な理解よりも、現在の日本の政治情勢についての公明党の意味合いを直接問うなら、「第9章 タカ派の台頭、後退する主張―自公連立の変容」「第10章 特殊な「選挙協力」連立政権―二〇〇九年」「終章 内部構造と未来―変質する基盤、創価学会との距離」の三章は読まれるべきだろう。現在の公明党の姿が上手に描かれている。
つまるところなんなのか? ある一定の政治勢力というものが、小選挙区制のなかで生き残るには、公明党のような内部結束の強い集票集団に依存するしかなく、しかもそうであれば、政治理念など抜きにしても、そうした政党維持のための特性から所定の政党性が生まれてしまうことだ。公明党が生き残るには、現存の公明党のようなありかた以外はないという存在機構的な理由となる前提が、公明党の政策や理念に勝っている。
現在でもなお公明党は、本書が指摘するように政教分離をかなり明確にしつつも、創価学会員の援助は強く、人的資源において分離されているとは言いがたい。しかも、これがボトムアップの権力プロセスを持って小選挙区に望むなら、なるほど私たちの身近の公明党候補の顔が浮かんでくる。そしてその代表者は、実際のところすでに創価学会の表向きの教条に馴致してるわけでもない。それが現実の、今の公明党の姿であり、市民社会はこの政党に、その前提を了解して接していくほうがよい。
露骨に言うのだが、Xデーを乗り越えたとき、公明党は本当に日本社会の第三極の政党たりえるか試されるだろうし、期待を持ってもよいと思う。
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