ナッジの視点から見た改正臓器移植法
改正臓器移植法が13日に成立し、これで日本人にとって死は脳死ということになったと言ってよいだろう。もちろん、死のとらえ方は個人の領域の問題でもあり、改正法によってもその人の生前意思として脳死は死ではないのだと言うに等しい余地は残されている。それでも私は違和感が残った。「脳死は人の死か」というこの難問の根幹についてではない。その問題についてなら、いささか奇妙な視点ともいえるが、「[書評]昏睡状態の人と対話する(アーノルド・ミンデル)」(参照)、「極東ブログ: [書評]記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他)」(参照)、「極東ブログ: [書評]内臓が生みだす心(西原克成)」(参照)などともあわせて、自分なりの考察してきたし、今後も機会があれば進めたいと思っている。
違和感は、衆院選挙に向けて拙速に決めてしまった政治屋や、本来こうした問題こそ政党に問われるべきことが党議拘束を外して政治の外に放り出した無責任な政治屋についてでもない。政治屋とはそんなものだ。そうではなく、社会的ナッジの視点から見た場合、改正臓器移植法はどうなのだろうかということだ。
ナッジについては「[書評]実践 行動経済学 --- 健康、富、幸福への聡明な選択(リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン)」(参照)で触れた。同書では、臓器移植について社会はどのようにナッジを設計すべきかということについて丸一章分を当てている。「第11章 臓器提供者を増やす方法」という章題からも、臓器提供者を増やすための社会的ナッジの設計を論じているのがわかる。それを読みながら、むしろ日本の改正臓器移植法に私は違和感を覚えた。
同書に触れられている米国での事実(ファクツ)からまず紹介したい。というのも、こうした点についての日本のファクツについて私は知らないでいるからだ。
米国で臓器移植が成功したのは1954年、死者からの移植が実施されたのはその8年後。1988年以降、36万件以上の臓器が移植され、死者からの提供はその80%に及ぶ。臓器に対する需要は供給を大きく上回っており、2006年の待機者リストは米国で9万人。年率12%の増加を示している。臓器提供を受けないがゆえに死ぬ人も多い。
同書ではこうした状況から臓器提供をさらに増やすための社会的ナッジを考察していくのだが、では日本に比べれば遙かに臓器移植の先進国に見える米国は、どのような問題を抱えているのだろうか。ファクツに戻る。
米国では潜在的なドナー(提供者)の脳死患者は年1万2000人から1万5000人。ドナーはその半分(なお、ドナー1人から3つの臓器が摘出できる)。残り半分の臓器提供を米国において阻んでいるのは、「遺族からの同意を得る必要があること」とされている。米国では遺族の同意が得られにくいようだ。
同書を読みながら私が疑問に思ったのは、では遺族の同意をはばんでいるのは何かということだ。宗教観だろうか。同書を読み進めると、ナッジ設計において議論されているのは、いかに多くの人に臓器提供の意思を明示化させるかということだった。どうやら米国では、脳死になった本人が臓器提供の意思を持っていたか不明の場合、デフォルトでは、本人意思がわからないゆえに他者はその意思を代行できないということのようだ。
今回の日本の改正臓器移植法でも、米国と同様に脳死者の家族の承諾で臓器移植が提供できることになるので、米国と同じようになったとも見える。脳死となった本人が生前、臓器提供の意思を持たなければそれが尊重されれるという点でも米国と同じだ。なのに、米国で「本人意思がわからないゆえに他者はその意思を代行できない」ということが通例となっているのはなぜだろうか。
同書のナッジ設計の議論を読むと、まず米国では脳死について連邦ではなく州法で扱うのだが、大半の州が「明示的同意ルール」を持つという。これは、「臓器提供者になるには、規定の手順に従って臓器を提供する意思を表明しなければならない」ということだ。日本の、以前のドナーカードの機能にも似ている。米国の場合、本人の「明示的同意ルール」がまず尊重され、それが不明の場合は、家族もその意思に介入しないことが多いということのようだ。くどいが、でなければ、「明示的同意ルール」が、悪しきナッジとして本書で議論されるわけはない。
「明示的同意ルール」の次に、同書では「ルーチン的摘出ルール」を説明する。これは脳死の臓器移植について州が権利を持つというもので、実際にこれを採用している州はなく、端的に言えば論外としていいだろう。ただし、死者の網膜摘出についてはこの規定を持つ州があるそうだ。
私が一番疑問に思ったのは、その次の「推定同意ルール」である。「推定同意方式ではすべての市民は臓器提供に同意しているものと見なされるが、臓器提供に対する不同意の意思表示をする機会が与えられ、その意思表示を簡単に行うことができる」というものだ。ナッジ的な言い方をすれば、臓器提供がデフォルトに設定されている。
この「推定同意ルール」なのだが、それって日本で今回成立した改正臓器移植法とほぼ同じなのではないだろうか。同書によれば、米国ではほとんどの州が「明示的同意ルール」を持ち、「推定同意ルール」ではない。だから同書のナッジ設計が議論にもなるのだろう。
「推定同意ルール」は珍しいのだろうか。そうではないようだ、欧州の場合は「推定同意ルール」が多いらしい。日本は欧州型のようだ。
アメリカでは、本人の明示的な同意を表明したドナーカードがない場合には、約半数の家族が臓器提供の要請を断っている。推定同意ルールを採用している国はドナーの希望を示した記録文書がないのがふつうだが、拒否率はずっと低い。
日本の改正臓器移植法には、欧米諸国のようにデフォルトでドナーの希望文書なしで拒否率を減らすということがもくろまれているのだろう。というか、それが日本における脳死による臓器移植の社会的ナッジとして組み込まれたことになる。
なぜ米国では「推定同意ルール」ではく「明示的同意ルール」なのか。あるいは、同書は欧州や日本のような「推定同意ルール」を社会的ナッジとして推奨しているのだろうか。それが違うのである。
米国におけるこの問題の立法についてだが、「推定同意方式は移植に利用できる臓器の供給を増やすにはきわめて効果的な方法だが、政治的的には受け入れやすいとはいいがたい」として、社会的に忌避されているようだ。さらにこう指摘している。
推定同意方式の場合は、ドナーの「暗黙」の同意を家族が覆してしまうおそれがあるが、問題はそれだけではない。前述したように、この考え方は政治的に受け入れられにくい。このような微妙な問題となると、何かを「推定」するという考え方に大勢の人が異議を唱えるようになる。
ここで私はさらに困惑する。私たち日本の市民は、そのような問題を提出されたことがあっただろうか? A案、B案、C案、D案として提出されたバリエーションはそのような問題を十分内包していただろうか(参照)。
同書ではこうして欧州や日本型の「推定同意ルール」も臓器移植の社会的ナッジとしては採用せず、もう一つの方法として「命令的選択ルール」を推奨している。具体的には、自動車免許取得の際に、臓器提供の意思を強制的に明示化させるというものだ。「命令的選択ルール」は興味深い社会制度設計の議論だが、今となっては日本とは関係ないことになってしまった。
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コメント
職に就いたり妻子を養ったり家庭を守ったり…という段階で「責任を果たしている」と認識する傾向が強い人たちは、どういう形式だろうが「法で決まる(お上が決める)」事に対しては、感情的な反発を繰り返すんじゃないですかね?
満場一致じゃないと何も決められない進められない体制じゃないんだから、さっさと決めればいいと思いますよ。
なんで決まらないんですかね?
投稿: 野ぐそ | 2009.07.16 22:00
>臓器に対する需要は供給を大きく下回っており
上回っており?
投稿: 通りすがり | 2009.07.17 02:26
臓器移植という技術そのものについてだけれど、現在の免疫抑制剤は、技術として成熟しているのか疑問です。抗生物質を、免疫抑制効果があるから免疫抑制剤に転用してしまうような乱暴な臨床的段階に疑問を持ち、免疫抑制の基礎医学的研究にもっと力を入れるべきだと思います。
再生医療研究がいま、躓きかけているそうですが、これこそ産業化を民間任せだけにしてはおけないバイオテクノロジーの研究領域であろうと思います。
トランスジェニックアニマルによる臓器提供技術、これもバイオだけれど、こういう研究をもっと進めるべきです。ヒトがドナーの臓器移植を安易に規制緩和すべきなのかどうか。現段階では仕方ないにしても。
とはいえ、ヒトの死を脳死とすることは、倫理的にひどく問題のあることとは思えません。臓器移植のドナーが増えることそのものは歓迎すべきことだと思います。
臓器移植関連のナッジについては、その国の公教育のありかたに規定されてしまう部分が大きいと思います。とはいえ、文部科学省が、脳死の定義や臓器移植の倫理に関連する公民教育にあまり力を入れることは歓迎しません。
投稿: enneagram | 2009.07.17 08:30