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2008.07.16

武士というもの

 昨日のエントリ「極東ブログ: 三橋一夫のこと」(参照)の続きのような話。とはいえなんとなくもわわんとして特にまとまりはない。なんというのか、「日本」とか「武術」とか「古武道」とか「武士道」とかまあ、最近言われているその手のものへの違和感にある歴史感覚のズレのようなことをこのところいろいろ思う。「ナンバ歩き」みたいなものも自分ではその部類だろうか。とりあえす、「武士というもの」かな。仮に問いを立ててみる。
 武士道で一番大切なことは何か?
 武士にとって何が一番大切か?と言い換えてもいいような。いやそうでもないような。微妙な感じがするのは、我々が「武士」と思っているもののイメージは、歴史における武士とまるっきり違うのではないか。以前与太で関連エントリを書いたことがあるけど、与太マークをしなかったので誤解されて困惑したが、たとえば宮本武蔵とか、彼は実際には一種の芸人でしょう、と。人斬りとかもどっちかというと大道芸の部類はないか、というのは、組織的な戦闘にはあんなもの役立つわけがないよ、と。日本史における戦闘は基本的に海戦だし、陸上の場合は馬が基本で、刀なんかぶん回すわけがない、というか、日本刀というのはおそらく海戦用だろうし刺身包丁が起源なのではないか、と。与太で言うわけなのだけど、というかその話はもうどうでもいいが。

cover
「健康」の日本史
(平凡社新書)
北沢一利
 昨日のエントリで三橋一夫の父、つまり本当に武術家だった彼は、「剣道」とはいわず「撃剱」と言っていた。「撃剱」とは何かだが、いわゆる竹刀の稽古と言ってもいいかもしれない。が、およそ竹刀なんて軽っちょいもので、鉄の塊である日本刀の代わりになるわけないのでというのは後で触れるのだが、いちおう江戸時代を通じて剣術家はいた。それりゃそうだだが、このあたりのことも今一つよくわからない。わからないというのは、どうもチャンバラものという時代劇映像の武士というのは実際の当時の存在とはまるで違っているのでないかという疑念があるからだ。
 話を端折って「撃剱」だが、これにある種の奇妙な歴史的な語感が付くのは「撃剱興行」があるからだ。「撃剱会始末(石垣安造)」(参照)の書籍解説に「明治六年剣士救済のため榊原鍵吉によって始められた撃剱興行のてん末を直心影流正統の流れを汲む著者ならはで詳細に描き切ったものである」とあるが、明治4年の脱刀令公布で帯刀できなくなった剣術家を大道芸として職をつけるべく直心影流第14代榊原鍵吉が官許の撃剣興行を開始した。これが明治時代の間中紆余曲折がありながらけっこう続いた。撃剱興行はある意味で相撲興行にも似ていて、興業としての家制度もあったようだ。私はこの撃剱興行がチャンバラ劇やチャンバラ映画の起源なのではないかと思っている。つまり、武士のイメージの起源。
 撃剱興行は東京府では明治6年にいったん禁止され11年に再開するのだが、この間、西南戦争が起きている。「「健康」の日本史 (平凡社新書)(北沢一利)」(参照)によると。

(前略)道場の剣術家たちは、興業などでかろうじて食いつないでいたにすぎません。
 皮肉なことに、この剣術の滅亡を救ったのは西南戦争でした。この戦争で官軍の中心勢力は先にも繰り返し述べたように徴兵軍隊です。しかし、政府はこれを補うために、地方で職にあぶれていた士族を警察官である「巡査」として採用し、これを前線の薩摩兵と戦わせたのです。西南戦争後、多くの剣客が警察に残り、なおかつ警視庁も巡査の訓練に剣術を採用することになったので、剣術は柔術のように転向することなく、警察のなかで生き延びる道が確保できたのです。

 「柔術」の転向も面白いのだが、そこは端折って、この警察に生き延びた剣術は、その後、実際上の「警視庁流」を生み出した。同書によると「これがのちの剣道の起源になります」とこのと。いやはや。剣道の起源は韓国にありのほうがまだよかったかもしれない。
 その後日清戦争を契機に、「武士道」の復古となり、桓武千百年祭で「大日本武徳会」ができてくる。というか、どうも現代の武士道とやらの起源はこのあたりにありそうだ。新渡戸稲造の「武士道」もこうした擬古的な歴史幻想の文脈から生まれている。
 話を先の「武士道で一番大切なことは何か?」に戻すと、こうした擬古幻想を外して、実際に武術家だった、この時代の三橋一夫の父はどう考えていたかだが、おそらく次のエピソードが答えになる。三橋一夫はこう言う。

 八月末、私は満十五歳になりました。
 父は月給取りのくせに、まだ武士のつもりでしたから、
 「いよいよ、お前も満十五歳で、元服したのだから、切腹の仕方を教えてやる。それから、毎日、この棒を素振りしろ。一日千回は振れるようになれ」

 ということで、まず切腹の作法を教えた。
 武士道で一番大切なことは、切腹だろう、常考、である。
 なにより先に切腹の気構えと作法ありきが、武士道である。なんでそんな当たり前のことがなんかすこんと見えなくなった感じがするのかというと、そんな自殺はあかんということもなのだろうし、確かに切腹は自殺には違いないが、どうも歴史の感触として奇妙なものがある。いずれにせよ、やはり切腹無くして武士道はないだろう。現代の選挙とかでハラを切れと宣う人もいるが、武士でないものにそんなことを言っても意味ないが。
 話はずれるのだが、三橋が父からもらったこの棒だが。

 といって、元服記念に六角棒をくれました。
 鬼のもっている鉄棒みたいに、先が太くなっている。竹刀くらいの長さの棒です。
 柄だけが丸く、先は六角になっていました。

 というわけでやはり竹刀なんかぶん回しても意味ないからだろうと思うのだが、その先の話が、なんというか私などは呆れる。というか、武士ってこういうものか。

 「赤樫だ。船大工に作らせた。丁度二貫目ある。三八式歩兵銃と大体同じくらいの重さにしてある」

 本当の武士というのは剣にはこだわっていなかったのだろう。江戸時代でもいわゆる剣術は表向き盛んだったが、それに槍術が迫る。むしろ日本の歴史の戦場で役立ったのは槍術だろうし。
 そして幕末では砲術が武士に重視される。あれだよ、武士っていうのは、国を守るためにいるのであって剣術興行が主目的ではない。三橋の父も、武士のままその時代時代にその根幹を見ていたから、「三八式歩兵銃」を想定したのだろう。武士というのはこういうものなんだろうなと私は思う。
 三橋は元服のときに、切腹作法と六角棒に加えて、健康法として革身術をその父から教わる。三橋はさらっと書いているが、革身術は切腹作法と関連をもつ武家の秘伝だったのではないか。
 八十歳になった三橋はこう述懐する。

 六角棒は、七十歳くらいまで、いつもそばにおいて、ほとんど毎日振っていましたが、だんだん素振りの数も少なくなり、二年ほど前、親しい友人にやってしまいました。
 しかし、関東大震災の日、亡父から習った革身術は、今日でも、毎日欠かさず実行しております。

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コメント

昔の自衛隊のことを思い出したのですが、育った土地に自衛隊基地があって、同級生の家が自衛隊員という人が多かった為か、中には休みの日に庭先で居合抜を勿論、真剣でする友人のお父さんの姿をこっそり見たものでした。家の出が武家だったそうで、今思うとそういう話は、三橋さんの生い立ちやその生涯ともかけ離れたこととしては感じません。私が小学生の頃の、今は亡くなった友達のお父さんの生涯をこの歳になってこともあろうか、Netでこのように知ることになろうとは、感慨深いものがあります。一昨年亡くなったばかりですが。自衛隊では隊医でもあったそうです。

昔の武士は、進む道がそれなりに開けたのでしょうか、三橋に関しては、なりたくもないとは言え、小説家ですものね。

革身術というのは、具体的にどのようなことをして見につけたのでしょうかね。胃腸などを丈夫にして、癌にも掛からないなどと耳にしたことがありますけど、finalventさんは具体的にご存知ですか?三橋が、六角棒を70歳くらいまで振り回したという精神性もすごいですけど、革身術を関東大震災で習って、最後までやり通したというのも、芯から武家の革質というものなのでしょうか。

投稿: ゴッドマー | 2008.07.16 15:27

現代のというより、明治以降の武士感とそれ以前の武士感の剥離とでも言いましょうか
その辺の事は以前から言われている事で
武士道の逆襲 (講談社現代新書): 菅野 覚明の序文でかなりわかりやすく触れられています
それなりに良書だと思います

更に江戸以前の武士感と以降の武士感も(釈迦に説法かもしれませんが
本質的にはかなり違うもののようで(戦争の減少と儒教の影響が強まった事が原因とされています)
それが理解をいっそう複雑に難しくしているように思います

それと上記の『武士道の逆襲』では江戸以前の武士道は現在で言う
リアリストの思考に極めて近い部分を持っているように書いてあるように読めました。
戦争を生業にしている者達の掟なのだから当然なのかもしれませんが。

蛇足ですが江戸時代以前と以降の武士感の違いは、昭和初期の時点で既に識者には認識されていたようで、当時の道徳の本でもその差異について語られていました

投稿: | 2008.07.17 02:42

武士というのはつまるところ、戦場のリアリスト達だったんでしょうね。
明治維新であっさり近代化できたのも、本当の意味での武士道が「このままだと負ける」という意識を共有させることができたお陰なのかも?

投稿: ぽぽん | 2008.07.17 07:22

finalventさん、おはようございます、

切腹を息子に教える父の姿が一瞬カラーで浮かびました。

100年前の体温が感じられるというのは、カラーでその時代が見えることかもしれません。

昔の写真の褪せた色にまどわされがちですが、その時代はその時代でいまの私がまわりをみているように見ていた事実をわすれがちです。

投稿: ひでき | 2008.07.17 09:59

兵法、武道の話が連続しておりますが、もしかしたら、finalvent先生は、横山先生と竹村先生と直接面識があるのですか。
また、そうだとすれば、増谷先生とも直接面識があるのですか。
個人的な話をしてすみません。
finalvent先生が横山先生と竹村先生と面識があるとしたら、どういう経緯で私が失業者になってしまったのかもある程度ご存知なのだろうと思います。
暗い話をしたくないので、別な話をします。
昨日、神田の古書店で、徳山暉純先生の「梵字書き方」(木耳社)と平岡昇修先生の「初心者のためのサンスクリット辞典」(世界聖典刊行協会)を入手できました。
この2冊の教科書の書名を挙げれば、finalvent先生なら、その古書店がどのお店なのか言い当てられることと存じ上げます。

投稿: ?! | 2008.07.18 05:39

中公新書の「幕末歩兵隊」を読んだのですが、武士は幕末でも砲術を重視しなかったため幕府が崩壊した一因になったそうで。
土方歳三ですら鳥羽・伏見の戦いで惨敗するまで剣一筋だったようで、それ以降組織力を整備しようったって間に合わなかったわけで。
誉田 哲也「武士道セブンティーン」が面白かったです。
暴力とスポーツと剣道の違いとか。

投稿: てんてけ | 2008.07.18 21:38

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