無門関第七則、趙州洗鉢から現代的自己搾取について
蒸し暑くくけだるく怠惰な昼寝の季節なので、コンビニのとろろ蕎麦を食った後、ぼんやりうとうとしていると、趙州とおぼしき老師が夢にやって来た。こりゃまずい。禅をなさず居眠りという時にやって来るとは。しかし、これも大悟の好機かもしれぬ。ここは教えを請うフリでもしていようと、小風、乍入電妄、乞う老師、指示せよ。老師いわく、喫薯蕷蕎麦、了や未だしや。小風いわく、了。州、老師いわく、簡便鉢盂を洗い不燃物とせよ。
![]() 無門関 |
それから趙州洗鉢について少し考え込んだ。現代風に言えば、修行僧が趙州に教えを請うたところ、師は飯を食ったら茶碗を洗っておけ、ということ。無門関(参照)としてはここに禅の悟りがあるということなのだが、一般的には、禅の悟りや修行というのは日常の所作の中にあるものだ、と解されている。
悟りにほど遠い私は勝手に思うのだが、趙州洗鉢の要点というのは、自分の飯の後始末は自分でしなさいということではないか。別の言い方をすれば、誰かのサービスを買うのはやめなさいと。あるいは、誰かに依存するのはやめなさい、と。
しかし、と愚かな私は考え込む。人にサービスを頼むという相互の依存性から経済が起きるのではないか。日本の現状で重要なのは、そのような依存のサービスをより高度にしていくことなのではないか。そうすれば雇用が発生して云々と。
そんな連想が働いたのも、FujiSankei Business i「物価はどうして上がらないの? 雇用との連動性低下」(参照)のことをなんとなく思っていたからだろう。私の世代、つまり昭和32年生まれだと、高田渡の「値上げ」(参照)でも口ずさんでしまいそうだが、今の日本で求められるのは、値上げである。というか、デフレの脱却だ。たぶん、秋頃には再度の原油高騰を受けて少しは上がるのだろうと思うが、そういう下駄なしだと、日本は依然デフレを脱却していない。失業率が3%台になったがその影響もない。
大田経財相は29日の閣議後の会見で、「需給と価格の関連性が弱くなっている。需給は改善しても価格はなかなか上がらない。労働需給も一部に逼迫が見られながら賃金が上がらない」と述べるなど、やっかいな物価の動きにいらだちを隠さない。
とのこと。また。
内閣府の試算によると、今年1~3月期の需給ギャップは、プラス0・9%と、15年ぶりの高水準を記録した。最近の物価のマイナス基調は、需給ギャップのプラスの数値が上昇し、需要超過の度合いが高まれば、物価も上昇していくという経済学の常識にも反している。
現状についてはそれでも各種の経済学的な説明が付くのだろうが、がというのは、個人的に思うのは、あまりサービスを必要としない世の中になってしまったな、という感じがすることだ。自分のことは自分できるしそれでとりあえずいいんじゃないかというか。
へんてこりんな逆説を言うと、たとえばコンビニでとろろ蕎麦が買える。それほどおいしくはないけど、便利。便利という点にサービスはある。でも、このサービスは他のサービス(例えば蕎麦屋のとろろ蕎麦)を削っているし、そうした例ばかりでなくても、便利な新サービスでより自分で対応できる範囲が増えて、以前のサービスは減る。
新サービスの側に労働者が流れ込めばいいのだろうとも言えるが、どうも現代的な便利さというのは、一見すると他者からのサービスのように見えるが、ある種の自己搾取による値引き感というのもあるな。
繰り返すと、生活が便利になるというのは、受ける側のサービスが充実するというより、自分でハンドル(切り回し)できる範囲が広がったということで、そのあたりで実際には自分の隠れた労働(シャドー・ワーク)みたいのが織り込まれるような気がする。
趙州洗鉢というのを、古いモデルのまま考えずに、そういうある種の自己搾取として、肯定的に見直してもいいのではないか。自己搾取というといかにも搾取されているみたいだが、ようするに貧乏人が各種の場において自分の労働による対価を自由に発現できるようになったということかもね、と。
あるいは、可処分所得というのの類推からだが、可処分時間(カネはないが暇だけはあるとか)というポイント制みたいのが実際的にできそうな気もする。逆にカネで可処分時間も購入できるとか。
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コメント
生活水準の向上はいつまで続けなければいけないのか。まぁそれはわからないけど自分は向上させたいですね。経済的には価値はないかもしれないけど。
投稿: itf | 2007.06.30 20:58
作法を知らないのか?
美味しい料理をできる限り美しく写真をとることは作法だな。
単に、現代が無作法になっているから消費に反映されていないのだよ。
コンビニの弁当を器に美しく盛りなおすのも作法だな。
それに適した器を買うのも作法だな。器は高いぞ。
ほら、消費はインフレに向かっていく。
考えたり思っているだけではできないだろ?
まぁな、自分だけしかいないなら無作法でいい。
作法とは自分から他者にする技術だな。
他者から自分にしてもらうのは、現代のサービスかもな。
投稿: 石堂 | 2007.07.01 22:33
禅寺でも、信者や観光客が献灯できるお寺は多いと思います。
信者が献灯すれば、信者がお寺に功徳を積むだけでなく、お寺もまた、仏具屋さんやろうそくの製造業者さんに功徳をつめるわけです。禅宗が、他人に頼ったり、他人を煩わせるのを全面否定しているわけでもないと思います。
飯を食ったら茶碗を洗え、という教えは、ブッダがシュリ・パンタカ(シュリハンドク)に、「ちりをはらい、けがれをおとさん」と唱えながら、洗濯行をさせた話のようなもので、飯を食う器である自分自身を浄化せよという比喩ではないかと思います。
それでなければ、自分の行為については、すべて自分が責任を取れ、とでも説いているか。
どっちかだろうと思います。
投稿: enneagram | 2009.04.10 09:53