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陸前高田被災地訪問の記 3 (4月13日のこと)

間が空いてしまったが、陸前高田訪問の記のつづき。まとまりのない話ですが。


神社の避難所の朝は早く、暗いうちからビニールシートでつくった簡易テントの中で火をたく音がする。中では3人の初老の男性がやかんにお湯を沸かしている。おはようございますといって、火にあたらせてもらう。だれもなにもいわない。

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「けさも地震ありましたね」というと、ひとりが「ああ、しゅっちゅうだよ、地震のないとこから来たの?」といわれる。地震のないとこ・・・東京なので、余震はわりとありますが、ここほどではないと思います。こっちじゃしょっちゅうだよ。そういえば、と一人がほかの二人を見ていう。夜中にも揺れたな、あのとき女の人が叫んでいたよ。ああ、おれも聞いたよ、思い出すんだろうな・・・。


避難所にいる人たちのほとんどは家は流されてしまっている。その点では同じだけれど、家族が行方不明か無事かで感覚はかなりちがう。Kさんとその友人のNさんは家は失ったが、親族のほとんどはぶじだった。だから、われわれの相手もしてくれるし、津波が去った後は、生活をどう立て直していくかという方向でものを考えられる。


けれども、家族が行方不明だと、そこで時間が止まっている。Nさんの話では、ひたすら安置所めぐりの日々がつづくという。安置所ですぐに見つかればいいが、陸前高田の場合、家もなにもかもが流されてしまったから遺体もなかなか見つからない。そうなると来る日も来る日も、複数の安置所をめぐり歩いて、およそふつうの生活をしている人なら見るはずもない何百という遺体を毎日、見ることになる。


遺体といっても状態はさまざま。服を着ていないもの、首のないもの、脚のないもの等々も多い。歯形から身元を特定したくても、市内の歯医者が流れてしまったために歯形もない。DNA検査は、自治体にもよるらしいが、ここではある程度めぼしがつかないとやってもらえないという。指の欠損とか、手術痕などがあれば、そこから身元がわかることもあるが、はっきりした特徴のない場合は、それも困難。行方不明後は6ヵ月たたないと死亡と認められないので、保険金を受け取るために身元のわからない遺体を「家族です」といって持っていく人もいたという。


Nさんの友人は、行方不明になったお母さんを探して安置所めぐりをしていたとき、同級生だった友だちの遺体を見つけた。彼女は学校ではマドンナ的な憧れの存在だったが、その彼女が衣服もつけず、上と下に布をあてられただけの姿で安置されていた。避難所にも、そうした安置所めぐりをつづけている人たちは少なからずいた。けれども、みなそんなことはしゃべらないし、つとめて明るくふるまっていた。


避難所へやってきた当初、食事はどうしていたのかとKさんに聞くと、最初は「カニづくし」だったという。カニづくし? 聞けば、裏山にある「かわむら」という水産加工の工場が津波でやられてしまったため、そこにあるカニ缶などが毎日、供されていたのだそうだ。旅館のカニづくしなんかより、よほど豪勢だったという。カニづくしのほかに、半壊した家々から水に浸かったコメを集めて洗い、それを搗いて精米して炊いた(こちらではコメは玄米で買って各自、精米するのがふつう)。市の方からパンなどが支給されるようになったのは四日目くらいからだった。


Kさんと車で町を見て回る。漁師小屋のそばにアップライトピアノが横たわっている。弦の張られていたはずの筐体に魚の死骸が一匹。鍵盤に触れてみたが、泥が詰まっているためかまったく動かない。どこから流されてきたのだろう。蓋が外れているとはいえ、本体は壊れていない。日本のピアノ、頑丈だ。あとでAERAの東日本大震災特集というのを見たら、おそらくこれと同じものらしきピアノが水に浸かった状態の写真(3月21日撮影)が掲載されていた。

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Kさんの家は河口、つまり海から1.5キロくらい遡った神社のある山の麓にあった。そこは木造だったので、すっかり流されてしまったが、そこから少し川に近い場所にあったおばさんの家は、鉄筋コンクリート造りだったため、外形はほぼ残った。中は泥で埋まり、屋上の手すりなどは津波のためにぐにゃぐにゃに曲がっていて、そこに流されてきたカキの養殖の網がひっかかっていた。数年前に亡くなった父君が暮らしていた木造二階建ての家は、神社のある山の南側にあったが、元あった場所から一キロほど海寄りのところに移動していた。一階部分はつぶれていたが、屋根と二階部分は思いのほか、そのまま残っていたという。
 

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「家具調度品、テーブル、茶箪笥とか食器棚とかも外側はつぶれていたのですが、驚いたことに中の食器が一枚も割れていなかったんです。おそらく水に浸かって、引き波に乗ってゆらゆらと流されていったんでしょうね」とKさん。そこで彼は、取り壊される前に使えるものはとっておこうと思い、父君の家に残っていた食器や家具などを、津波の数日後から一輪車で運び出す作業をはじめた。それも作業は真夜中にやっているという。


「避難所だと消灯が早いから、早く目が覚めるんです。夜中の二時とかに。だから、ひまつぶしに行ってみて始めたんです」


「夜中の二時って真っ暗じゃないんですか? それに津波から数日後だったら、現場はぐちゃぐちゃだったんじゃないですか。懐中電灯とかで道わかるんですか」


「いや、意外とかんたんなもんですよ。人工的な光がまったくないから、星明かりで山の稜線が見えるし、ガレキや障害物もわかります。月が少しでも出ていれば、十分明るいんです。懐中電灯はまわりを見えなくしてしまうので、かえってじゃまなんです。それに真っ暗闇でシナイ山を登るのにも慣れていますからね」


エジプトで長年ガイドをしていたKさんらしい。とはいえ、巨大津波で廃墟になり、無数の遺体だってそのままになっていたはずの場所を、夜中にたったひとりで歩くことに抵抗とかなかったのですかと聞くと、


「ときどき車が通るんですよ、ヘッドライトつけて。そこにいきなり私が現れたらびっくりさせてしまうと思ったので、車の光が見えるとガレキの陰に隠れていましたよ(笑)」


いや、そういうことではなくて、ご自分は怖くなかったのですかと聞きたかったのだが、Kさんは昔からこんな調子だ。エジプトのルクソールで1997年に多くの日本人観光客が惨殺されたテロや、先日のエジプト革命の現場にもKさんはいたが、やはりこんなかんじだった。ともあれ、そうやって夜中の廃墟で、彼は壊れた父君の家からいろんなものを運び出し、一キロほど離れたおばの家へと運ぶ作業を続けていた。アルバムや食器などはわかる。でも、一輪車で、どうやってひとりでタンスやソファ(それも水に浸かっていたのだ)まで運べたのかは謎である。


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photo: Kawae Yukinori

水門から少し内陸に入った林のそばで無数のカモメがあたりを舞い、激しく鳴き交わしていた。そばの道路のたもとで、ひとりのおばさんが廃墟と化した、かつての自宅らしき敷地の中に立っている。あいさつをすると、おばさんは独り言のように話しはじめた。


「建てて4年しかたってなかったのよ。150坪あったんだけどね」見ると、家の基礎だけはしっかり残っていて、床にはところどころ穴が開いている。その床の下をのぞきながら、おばさんがいう。「なにか残ってないかと思ってね。でも、奥の方まで見えなくて。今日はなにも見つかってないわ、あっちに鮭がいたけどね。床下、壊してもらえばなにかあるかなと思って市に聞いたんだけど、いつになるか見通しがつかないっていわれて・・・」


指さされた方を見ると、穴の開いた床下に6 、70センチもありそうな鮭が横たわっていた。生きていたものではなくて新巻鮭がどっかから流れてきたのかもしれない。そのそばにはサンマもいた。


「この部屋が24畳、そこがキッチン、あっちが子供の遊び場、そっちがドア式の玄関で、その奥がお仏壇。でも全部流されてしまったわよ。でもお母さんは亡くなっていたからね。亡くなる前はずっと歩けなくなっていたの。もし生きていたとしても歩けなかったから、助けようとして私たちもだめだったかも。車いすに乗せて、それから車にのせていたら間に合わなかったわね。車もトラックと乗用車がそこに3台あったんたけどね・・・」


「地震のときはどこにいたんですか?」


「水門の向こうの小屋で仕事をしていたわ」といって、おばさんは200メートルほど離れた大きな水門をさした。「地震がいつまでも止まらないし、そのうち地割れが起きた。それがちょうど海との境目のあたり。水門が閉まると逃げられないから、いそいでうちに戻った。でも、揺れが止まらない。これはと思って、お母さんの仏壇の写真だけ持って車に乗って逃げたの。保育所に子供迎えに行って、それから避難所になっていた小学校のほうへ上がっていったんだけど道が崩れてもうそのときは通れなくて、引き返して、また別の道を行ったら、そっちももう通れなくなっていて、間にはさまれて動けなくなった・・・」

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「津波の高さはどのくらいだったんです?」


「あの漁協のビル」といっておばさんは水門の向こうの5階建てくらいの白いビルを差した。「あれのてっぺんを越えてきたという話ですよ。いや私は見てないわ。逃げるのが先決だったから。防災無線も地震といっしょに停電してしまったから。『逃げろー』という声のあと、パッと放送が止まった・・・きれいさっぱり流れてしまってね、知らない人はこんなもんかと思うかもしれないけど、ここから海なんて見えなかったんですよ。・・・あっちのコンクリートの割れているところに、きれいなマツの木があった。うちのものだったの。それが目印だったのよ。枝振りがよくて、子供ならぶらんこにもできそうで。いま売ったら何十万にもなるから兄が売ろうといったんだけど、甥が反対してね。売らなかったの。こんなんなら売っておけばよかった(笑)。・・・このモクレンは本当はあそこにあったの。ひとりじゃ全然動かせなくて・・・」


(つづく、たぶん明日)

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