ラベル 「生き方」 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 「生き方」 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009-01-01

失敗しても動顚しなくなったとき、初めて人はそれが出来るようになる

あるトラブルと思えそうな事態が起きたとき、人の反応は二つです。つまり、「まいったな」と思うか、別になんとも思わずに対処するかです。

言うまでも無く「弱ったな」と思わず平然と対処できる人の方が問題を解決できます。トラブルで混乱している人は能力があったとしても、混乱してしまったり、逃げ出したりしてしまうのです。

人生論でよく読む話ですが、トラブルが起きたときにも「なんだ。別に困ったことなんてないじゃないか」と思えたときに、人は次のステップに行けるという話があります。そして、平然とその課題をクリアできるという話です。だから、難題が降りかかってきても、それは難題の前で平然とできるように成長するチャンスと思って取り組めばよいということです。

しかし、これはまさに言うは易し行うは難しです。僕はやっぱり大したことないことで右往左往してしまうものです。

さて、この話を考えていると、僕は自転車に乗れるようになったときのことを思い出しました。

2008-08-29

生き方を決めるための質問

人生を生きるための質問をいくつか。たまにこうしたことを考えると良いと思う。

  1. 何をしても絶対に失敗しないとしたら、何をするか。
  2. 好きな人生を選べるとしたら、どんな人生がいいか。
  3. 人の印象を自由にコントロールできるとしたら、人にどう見られていたいか。
  4. 何か一つできるようになれるとしたら、何を出来るようになりたいか。
  5. 何か一つ手に入るとしたら、何が欲しいか。

この記事は以上です。

2008-07-14

情報と向きあうときに気をつけること

情報と付き合うときに、私は二つのことに気をつけている。一つは断片的な情報を避け、体系的な情報に取り組むということ。もう片方は、客観的にではなく、自分の問題意識に従って情報と向きあうということだ。

情報は麻薬になりえる

なぜ、こうしたことを習慣にしているのか。その答のうちの一つは、情報とは麻薬にもなりうるということだ。情報とは無限にあり、そうした無限としての情報は常に不毛をもたらす。あたかも不死がまさしく生の意味の否定につながっているように。

古人はこのことを明晰に語った。いわく、一粒の麦、もし落ちて死なずんば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。 もしくはより簡潔に、有終の美、と。この言葉の意味するところ、それは美や意味 ―― つまり ”実り” ―― とは有限においてはじめてありえるということ。すなわち無限には美も意味もなく、ただひたすらに不毛が広がるということだ。無限のイメージを映し続けるであろうディスプレイは、まさに無限という名の不毛の大地へとつながっているのである。

と、こうした与太話はこの辺にしておこう。つまり、情報摂取は中毒になるということだ。何も生み出さぬ不毛なインプットは簡単に日常化し、常態化し、習慣化し、貴重な時間を奪い続けることだろう。無限への欲望は ―― いや、そもそも欲望とは無限だが ――人を蝕み続ける。己の不毛さを隠蔽したまま。

「いつか役に立つ」? 本当に?

情報はいかにして人を魅了するのか。それは不安を煽ることに始まる。全ての詐術と同じように。健康、富、仕事、人間関係、学習……こうした事柄に完璧な自信のある人は多くはない。こうした問題を少しでもうまくこなしてゆきたい。それも、ごく簡単な労力で。こう考えるのも当然のことである。しかし、まさにそこから詐術は始まる。

「待ってくれ」 ここでこう主張する声もあるかもしれない。「情報は役に立つはずだ。もちろん、いくつは実際の役に立つ状況が訪れないかもしれない。それでも、いくつかは知っておいてよかったと思うことがあるかもしれないじゃないか?」

「いつか役に立つかもしれない」。この言葉ほど成功した欺瞞も少ない。なにしろ、この欺瞞なしには、これほどの高度な消費社会は訪れなかったのだから。

しかし、このトリックを打ち破ることはたやすい。ある目的を達成するのに、いまこの場で何をすることが本当に投資になるのか? この問いを考えてみれば、情報を得ることが有益であるという欺瞞ははっきりとする。確かに情報が役に立つときもある。しかし、本当に大切なのは、成果を出すことなり、よい習慣を身に付けるということであるはずだ。それは「みせかけの投資」、投資に偽装した時間の浪費に他ならない。

いつか役に立つかもしれないという詐術は、人生を非個性的かつ時間的に無限するような誤謬に基づく。交換不可能で、ただ一回限りの、それも有限な時間しか持たぬ人間が、いつか役に立つかもしれないことために無限の情報を前にして時間を浪費することほど愚かなことはない。

更に言えば、情報を受け取ることが習慣化したときに、「いつか」は絶対にやってこない。なぜならば次々と魅力的な情報はやって来て、成果やよい習慣を生み出すだけの時間を与えてはくれないのだから。本当の投資は、例えば健康への投資が人生での活発な時間を増やしてくれたり、勉強が知力を高めるというように、必ず確固としたリターンがあるものである。

主体的・戦略的に情報を摂取する

発想を逆にすることだ。不安を煽られる前に、自分で主体的に率先して問題解決の努力をすることである。まず健康なら健康という目標を明確に立てて、 そのために一定のコスト(時間と費用)を充て、情報を選別し、吸収することである。そして、一度、情報を得た後には、そこから導かれた「仮説」に従って実際の努力を一定期間する他はない。その間には他の情報は「ノイズ」となるだけなので遮断してしまった方がよいくらいだ。そして 成果をみて、その努力や習慣を継続するか、立脚した仮説が誤っていたかどうかを再考することになる。

情報とはつねに過去の事実であるか仮説に過ぎない。それが有益であるのは、実際にそれを実行に移したときだけだ。効率を、生産性を高めることを謳う情報は次々とやって来る。大切なのは、どれか一つを自分のために実行することだ。

僕が最も尊敬する友人の一人に「どうやれば陸上競技で強くなれるか」と訊くいたことがある。彼はこう答えた。「どれが一番優れた練習法かは分からない。たぶん、答はない。ただ、一つを決めて、それにのめり込み、長い時間続けられた人は必ず強くなる。……普通は故障とかしちゃうんだけどね」

問題は目的もなく情報を摂取・蓄積することにある。情報を必要とするときは、自分の問題意識にそって主体的に摂取した方がよい。受動的に情報を受け取る習慣の中で曖昧に決断をしてゆくよりは、先手を打って自分に必要な情報を見定め、主体的に情報と付き合う方がよい。通常は「遮断」の方がよい。

「いま」を生きられない"情報中毒者"

「それでも、私には情報が必要なんだ」ニコチン中毒患者がその人にとっての煙草の必要性を語るように、 "情報中毒者" もまたその必要性を語ることだろう。「少しでも効率を上げようと努力しているんだ。そして、これが一番手軽な息抜きなんだ」

こうした "情報中毒" の語り口は、ニコチン中毒者のそれと相似をなす。「私にはニコチンが必要だ。少しでも仕事に集中するための努力の一つなんだ。そして、これが一番手軽な息抜きなんだ」

そう、彼にとって情報は「必要」だ。あたかも、ニコチン中毒者の煙草のように。それが不必要でもあり、時に害ですらありえることは隠蔽されることだろう。

それでも私たちはこう問わずにはいられない。「なぜ、"それ" が必要なの? 本当に今 "それ"が必要なの?」こう問い続けることが、不必要なアディクションを終息させ "健全" が取り戻されるだろう。 そう、なぜ "それ" が、まさにいま必要なのか? ストレス? まさか。本当に "それ"がストレスを解決する? そもそも解決したことがあった? つまり、"それ" によって気分が晴れたなどということが? それが役に立つ? いつ? どうして、それが役に立つと思う? なぜ、そんなに追い込まれているの? そうした状況に追い込むようなストレスとは一体なんだ? そもそも、それは一体 "生活" なのか?

こう問う中で更に問題が見えてくるかもしれない、つまり、問題を解決する努力を放棄しているということ、受け身に生きているということ等々が。大切なのは、しかしながら、答を出すことではなく ―― 結論なんてものはいつも陳腐なものだ ――、むしろ、こうした問題を問い続け、今という時間を自分の力で生きてゆくということである。

*

大切なことは、主体的に生きるということ、選ばされているのではなく選ぶこと。それが私にとって ―― 他の誰でもなく、ただ今ここにいる私にとって ―― 何の役に立つのか? と問うこと。受動的に情報を受け取っている時間があるのなら、自分の問題意識や強みを掘り下げたり、反省を行った方がいい。

2008-05-21

ジョン・トッド『自分を鍛える』

1800年生まれの著者が語る『自分を鍛える』は、古めかしい精神が好きな人にはたまらない本だと思う。人格とかいう古くさい言葉にピンとくる人にとってはちょうどよいと思う。私の中学生の頃からの愛読書でもある。

世の中には様々な自己啓発書がある。テンションを上げたいとき、誰かに叱って欲しいとき、人生に迷っている時などに、そうした本が手にとられる。

コンピュータの小技はさておき、根本的には人間の暮らしや営みは変わらないので、人間関係や自己管理の問題に全ては集約してゆく。そして最終的には「優れた人格」を形成するということになってゆき、よい人格とは「よい習慣」を身につけるということになる。

トッドの唱える人物像は、以下のような言葉に端的に表われている。

何事にせよ頭角を表す人物というのは、最初に慎重に検討を重ね、それからしっかりと決意を固めるや、断固たる忍耐心を持っておのれの目標に邁進し、脆弱な精神力の持ち主ならくじけてしまうようなちょっとした難問にも、少しも動揺しない人間だけである。

何よりもまずいのは、優柔不断が習慣になってしまうことである。[……] 自分の進む道は慎重に、しかもきっぱりと選ぶことである。そしていったん選んだら、何が何でもそれに食らいついて離れないことだ。(p.58)

目標の持ちずらい時代にピンと来にくい言葉だが、言わんとしていることはもっともだと思う。人間は努力すれば相当のことができるだろうが、あれこれやっていては何も出来ない。だから、一つのことを決める必要がある。しかし、そんな人生の目標なんてものはそうそうやって来ないから難しい。

原題は『Todd's Student's Manual Self-Improvement』というだけあって、学生用の修養書なのだと思う。だから、特に勉強の面での指導が目立つ。勉強によって優れた頭脳を養うことが大切というわけである。トッドのいう優れた頭脳とは以下のようなものである。

徹底的に鍛え抜かれた頭脳というのは、ふとしたはずみで調子よく働いたり、大きな能力を発揮したりする頭脳ではなく、一定の時間があれ ば必ず一定の成果を引き出す態勢が常に整っている頭脳のことである。……刺激がないと働かないような頭脳の持ち主は、その刺激を待っていなければならず、生涯ほとんど何一つ達成することはできない。(p.33)

こうした粘り強さと徹底とがトッドの説く姿勢である。勉強の意味とは何かという質問に、こうした自己管理能力を向上させることにあると答えることもできるだろう。

何事も入念にやることが大切という姿勢は以下のように語られる。

問題を調べる場合、おおざっぱな概念だけをつかんでおこうという態度で調べてはいけない。急いでいるとしても、徹底的に調べられるまで待つべきだ。

重要性の大小にかかわらず、たとえそれが何であろうと、少なくとも調べる価値があるのなら徹底的に調べるべきである──二度と調べる必要のないくらいに。そうすれば、いつまたその問題が持ち上がっても、考えは決まっているのであわてふためかないですむ。(p.71)

こうした人物観の下、よい習慣をつけることの大切さを説く。中でも時間を守ることに重きが置かれる。

同じこと、同じ仕事を、毎日同じ時間に繰り返すようにするのである。(p.48)

これがよい習慣を身につける近道なのだろう。そして、計画を立てて努力する大切さを説く。

計画は前の晩にじっくり練っておき、朝起きてもう一度確認したら、すぐに実行に移さなければならない。前もって計画を立てておくことで 、そうしない場合よりも、一日に驚くほど多くのことが成し遂げられるのである。(p.49)

久々にこの本を手にとって思うのは、ライフハックだなあ、という感覚である。目標を達成するには入念に、徹底的に、計画的にやっていくべきだというのはあまりにもっとも過ぎる。目標を見つけた人は言われなくとも入念に、徹底的に、計画的にやってゆくことだろう。

問題は「目標」を見つけることである。頑張る方法や成し遂げる方法というのは、このトッドの方法でいいのだろう。しかし、「でも、なんでそんなに頑張るの?」という問いが残ってしまう。

最後の章で、トッドは正直にこの「なぜ?」に答えようとする。目標とは何か? 快楽か? 富? 人からの賞賛か? 結局トッドは、こうしたことはことごとく虚しいと答えてしまう。トッドは正直な男なのだと思う。一般的に目標となるものを掲げ、それを否定した上で更に、彼は目標について語る。

「不滅の魂は何か大きなものを求めてふくらんでいかなければならない。うわべだけ光るものか、あるいは内から本当に光を発するものを──人の世の称賛か、あるいは神の称賛を──求めて。」

われわれが魂を「ふくらませて」目ざさねばならないこの「何か大きなもの」とは、本当に「大きなもの」なのかもしれないし、あるいはわれわれが勝手に「大きなもの」と思い込んでいるだけにすぎないのかもしれない。しかし、いずれにしても、何を本当に人生の目標にすべきであるかは、たいへんむずかしい問題であるということである。そして、キリスト教の精神や教えは、人がその能力を発揮する目標を持たずに生きよ、とはけっして言っていないということである。

彼にとっては、めざすもの、求めるものが無くてはならないのだろう。「不滅の魂は何か大きなものを求めてふくらんでいかなければならない」というのは滑稽でもある。しかし、その求めるものは実に疑わしいことも彼は意識的である。そして、最後に彼はこう語り、この本を終わらせる。

私が願うのは、計画を立て目標をめざして進む間は、常に満ち足りて安らかな気持ちを保ち、自分は無為に生きているのではないのだとはっきり自覚するようであってほしいということだ。そうすれば、魂は崇高で本当に質の高いものへと成長し、あなたが神の清らかな光に照らされた運命をたどっていることがわかるのである。

彼の口からは慈悲や愛、平和という言葉が最後まで出てこない。これが不思議といえば不思議なのだが、もしかしたら、そうしたものは求めてはあらわれないことに彼が気づいているからこそ、語られない言葉であったのかもしれない。

この本の冒頭で、成功や頭脳について、彼はこう語り起こしている。

頭に飾りとしてつけた一本の新しい羽根がうれしくて小躍りしている裸のインディアンと、ニュートンやボイルなどの頭脳では、雲泥の差がある。では、その違いは、いったい何から生じるのか。(p.17)

いくらかのニュートンについてに暗い印象のある人間にとっては、この語り起こしそのものが、答となっているとも思える。

2008-05-16

なりたい自分をイメージすること

充実感とは何だろうかと最近かんがえている。それは自分の強みの発揮であり、価値観の反映であると思えてきた。

自分の強みとは何だろうか。そういうことを考えてみることが自分の価値観、ひいては充実感の基礎となる。

強みのない人間などいない。比較の問題ではない。人と比較せずに、自分の強みとはなにかを考えてゆく。自分にある長所、自分がしたいことを考えてゆく。すると自分には確固とした強みのがることが分かるだろう。この強みを明確にしておく。もし自分に強みがないと思うときは疲れているときなので、あれこれ悩む前に風呂に入って眠った方がいい。

その強みを拡張してゆけば、自分の人生の価値観というものも明確になってゆく。積極的に自分だけの価値観を明確に文章化しておくとよいと思う。

価値観は、極端というべきほどに明確にすることが大切だ。ともすると価値観といえども常識に流されていってしまう。曖昧な表現ではだめだ。自分の強みを確固として反映させるような明確な価値観を確率しておく必要がある。どんな苦境であれ、自分の価値観の観点からは問題がないと断言できるような独自の価値観を構築しておくとよいと思う。

そうした価値観からは、自分が充実している行為が導き出されると思う。人を愛したい人、芸術を鑑賞したい人、事業を成し遂げたい人。そうした人はそれぞれにそこに充実感を感じるから、それを価値観の根本に据えるだろう。そこに没頭してゆけばよい。自分の強みが発揮され、価値観に沿った行動を為してゆける。ここに充実感があることだろう。

こうして自分の価値がどのように達成されてゆくのを静かに見守ってゆきたい。自分の価値観に背いてはならない。それは充実感を与えず、生きることを空虚にする。

自分の価値観・強みを日々繰り返し明確にし、それをイメージしながら自分の人生を耕してゆきたいものだと思う。

2008-04-13

祖母の知恵

祖母は別に偉人ではない。それでも戦争を、殊に東京大空襲を生き抜き、激動の戦後を病気の祖父と二人の子供を育て抜いた彼女には、明らかにそれと分かる知恵があり力があり、身内のことで馬鹿みたいだが、幾度か私は大したものだと感じたことがある。いくつか祖母の言葉を書き留めておく。

  1. 「無理は無理だよ」 何かに失敗し、力尽きた人に言う言葉。彼女は決っして人に無理をさせない。「頑張れ」とか「だらしない」という言葉は彼女の口からは絶対に出ない。そう、無理は無理。無理を通そうとするから人間は苦しむ。人の出来ることには限度があり、無理は無理と諦めるしかない。
  2. 「気持ちがいいからやってるだけだよ」 彼女は朝に晩に死んだ夫の仏前で般若心経を唱える。しかし、それに宗教的な意味合いはないという。「するべき」とか「やったらいい」とかではない。ただ気持ちがいいからしているのである。死者のためだとか、功徳のためだとか、万が一にも悟ろうだとかとは無縁の、目的のない読経。恐らく、生きることも恩着せがましくなく、抽象的なものを妄想せず、ただ気持ちよくやっていくべきものなのだろう。
  3. 「自分おだてて笑ってりゃ世話ないね」 お喋りな彼女はよく笑う。自分が美人だったとか頭が良かったとか言って、けたけた笑う。健康の一番の秘訣だろう。ちょっとお馬鹿さんにしていると人生は明るく、周囲もくつろげる。
  4. 「おんなじがいいんだよ」 食事、掃除、買い物、風呂、就寝……。彼女の行動は決まっている。同じように同じ生活を日々繰り返している。大したことをしているわけではない。ただ、決まったことを決まったようにしているだけだ。炊飯ジャーも洗濯機も使わず、米は圧力釜で炊き、洗濯物は手で洗う。電話は昔ながらの黒電話。安らぎとは、変わらないこと、繰り返しの中にあるのかもしれない。
  5. 「あたしゃ大切なのは家族だけだね」 彼女の優先順位は完全に決まっている。複雑な事情の時の判断にも戸惑うことはない。答はすぐに出てくる。何故か。大切なものは家族だけであり、後のことは問題ではないからだ。家族のために精一杯やればいい。後はどうでもいい。―― あたしゃ家族のためには精一杯やったよ。彼女はそう言って、また、けたけた笑う。

私から見て、祖母は外人である。ドイツ人やアメリカ人の若者の方が明らかに文化的に近い。「何でもあべこべだねえ」と祖母は言う。恋愛や性への意識、結婚観、家族観……。数えればきりがない。全てが違う。日本語が問題なく伝わるのが不思議なほどである。本当にあべこべなのである。

平等も自由も博愛もない。からっきしない。性別や民族について極めて強固な偏見と差別を持ち、「女はどうあるべき」といった義務や忠義の意識が強く、やっぱり天皇陛下であり、当然のように中国人や韓国人に根強い侮蔑意識がある上、驚いたことに肉屋や食堂など「肉を捌く職業」にまで偏見があるほどである。結婚は見合い、つまり家と家がするものであり「恋愛結婚」は「恋の熱に浮かされた阿呆のすること」と言う。近所の目を必要以上に気にして暮らし、会えばいい顔をしてお喋りをして裏では陰口を叩いている。民主主義と全体主義の区別なんて夢のまた夢である。

すべきことは決まっているのである。ひたすらに女として家を守り、近所付き合いを大切にし、ひいては天皇陛下の日本である。「なんてったって天皇陛下のお膝元」に暮らす彼女は御満悦である。玄関開けたら皇室カレンダーで皇太子様一家の笑顔が出迎えてくれる。「何であのカレンダーかけてんの?」と私が訊くと、なんとなく気持ちがいいと答えるのである。モンゴル人がチンギスハンの肖像画を飾っているのより意味が分からない。

私は年寄りが大好きである。外国人とブッシュあたりを小馬鹿にしつつ酒を飲んでクラブで踊って、疲れちゃったねとか言ってカラオケで始発を待つならば、年寄と大福でも食べながらお茶を飲んだ方がよっぽど刺激的である。老人の話は、生きる知恵、この国の姿、この国の歴史そのものである。そして、そのどれもが、文書になることを頑なに拒む性質のものである。「それ」に触れねば分からない。書いたそばから嘘になるのである。もしかしたら、この文体でなければ彼らを記録できるのかもしれないが。

2008-04-08

生きる意味について - 人は充実感で生きる

昨晩、生きる意味について理屈では説得できないと書いた。この点についてもう少しだけ。生きる意味について、私にとっての現在の大枠の見取り図を、積極的に書いてみた。

***

「生きる意味」とは「意味の根源」であり理屈では伝達可能である。「神」や「生命の神秘」「人生の使命」のようなものである。それは確かにある人にはあるが、無い人には伝達不可能である。それを外部化して、あたかも言語伝達可能かのようにしてしまうところに宗教の凄さと怖さがあると思う。これはdigi-log: 自殺について言っておきたい6つのことに書いた。

言葉とは意味のネットワークであり、生きることがその意味を究極的に担保している(神様信じる人はそちらも可)。そうした意味の根源を失った人にはいかなる説得も通用しない。実は生命を実感したり人生の使命を感じるとは、神や自然、藝術を実感するのと同じく神秘的であり理屈を越える。恋に落ちるのと同じように、突然に、裏切られるように、人生の意味や、生命を実感するときがある。そんなもの。理屈では無理。それを強要しようとすると、ただのカルト。追いつめられた人間が更にコミュニケーション・チャンネルを失います。

しかし、生きる意味はあると私は言いたい。というのは、そういうものを感知する機能が人間には備わっているからだと考えるからである。神や愛、使命、あるいは生命や自然の神秘なるものが実在するかは知らない。しかし、そうしたものを「感じ取る」機能が人間に備わっているのは疑いようもないように私には思える。

人が生きていると、人生に巻き込まれる。人との関わりの中で情が生まれ、頼られ、死なせてもらえなくなる。殊に大切な人ができた場合、その人は死ねない。人との情に理由はなく、その理屈の外の直観が人を生かす。

生きる意味はこのように「出会われる」。主観的な視点ではなく、人からの視点の中で、人は死ねなくなる。死なせてもらえなくなる。自分が生きる理由が人のためというのはおかしいのだが、人のためというのは十分な生きる目的となる。これはdigi-log: 仏陀の教える生きる目的、生き甲斐 - スマナサーラ本より でも書き抜いたことと同じである。

あなたが生きることが、他の人々の生きる支えになるように、助けになるように生きなさい。そのときはじめてあなたの生きていることがたいへん重要な意味を持つことになるのです。人の役に立つ人生を送ることができるとき、はじめて自分に、生きるという目的が生まれるのです。

そうして生きることは、快楽であるとは限らない。いやむしろ苦痛すらありえる。しかし、それでもそれは生きる目的になりえる。なぜか? それは、そこには充実感があるからである。「死ねない」「やることがある」という情熱が人間を生かす。この充実感こそが人の生きる意味と言えるものだろう。

人間とは快楽ではなく充実感で生きる動物である。自らの価値観や意味付けに基づき主体性を発揮し、外へと向かう活動をすることによって、人は充実し、生きる意味を掴む。これは奉仕の精神とも言える。逆説的だが、無私においてこそ、人は自らの生きる意味を最も強く感じるのである。

逆にいえば、苦痛を最小にし、快楽を最大にする行動をするとき、人間は生きる意味を消失する。独り善がりでは意味や価値は発生しえない。充実感は生じ得ない。それどころか欲望は膨張し続け、虚しさだけが支配する。大げさだが、これが現代人の病理かと思う。

***

充実感拡大と価値観・主体性確立の好循環を起動させるにはどうしたらよいか。「そういう機能があると思う」では説明になっていない。快楽最大化・苦労最小化は悪なのか。充実感と出会い、自らの価値観に目覚め、それを「使命」と感じるとはどうしたことか。神秘と出会うとは何か。快楽最大化・苦労最小化は悪なのか。そもそも価値観やら主体性とは何か。と、いろいろといい加減だが、こんなとこで。

2008-04-07

6つの自殺への誤解

鬱病などと同様、自殺についても思い違いや誤解が多い。本当は言葉は無意味で、一緒にいるしかないのだけど、言葉を批判するのにも言葉は使えるわけで、いくつか書いてみる。

  1. 「死にたい」は病気です。精神科へ行きましょう。 もう精神病や精神科に偏見がある人も少ないと思いますが、とにかく偏見を捨てて病院に行きましょう。自殺したいと苦しんでいて「あ、わたし、鬱病だったんだ」ということがあります。行くか行かないかを迷うより、どの病院がよさそうかを悩みましょう。7つの鬱病への誤解 参照。
  2. 死ぬのが駄目なのに理屈はない。まず、死にたいときには頭を使わずに休みましょう。下手に「生きる意味」を求めだすとはまります。「命が大切」「人には使命」「苦しみは教訓」……。色々な人や本が生きる意味を教えてくれますが、言葉はあなたの胸を打たないでしょう。より深刻に「自分って生きてる意味が無い」と感じるだけです。こうした言葉は意味のある人にだけ意味があり、理屈で伝わる性質のものではないからです。

    生きる意味とは、恋に落ちるのと同じように、突然に、裏切られるように、実感するものです。静かに生きて運命と出会うのを待ちましょう。周りの人も下手な人生論はやめましょう。理屈での説得は無理で、それを強要しようとするとただのカルトです。苦しむ人には苦痛なだけで、追いつめられた人間が更にコミュニケーション・チャンネルを失います。鬱病の人と接する5つの心得 とか [書評] なぜ私だけが苦しむのか / H.S.クシュナー とか参照 。

  3. 「死ねる」のは勇気ではない。これはよく嵌まる罠。勇気と無謀は違います。「死ねもしない」とか言われた気になって怒りパワー爆発させたりするが、これは間違いです。死ぬのが怖いのは極めて健全で素晴らしいことです。まだ生きろと体が言っているのです。怖いうちはまだ生きられる。「畏怖」という言葉があります。臆病なんて下らないこと言わず、生命に畏怖の念を持てた素晴しい経験なんだと俺は叫びたいです。更に要らんこと言うと、人間ってのは畏怖の念を持って生きてゆくもんだよと言いたい。
  4. 人生ってのはもちつもたれつ。多少、人に迷惑かけるくらいが丁度いい。「人様に迷惑かけるくらないなら or 生き恥さらして暮らしてゆくなら、死んだ方がいい」って理屈はやめましょう。大概の人間は、実は迷惑ウェルカムです。「助けて」と言いましょう。厚顔無恥なのは嫌だけど死ぬ程に恥を嫌がる人の「迷惑」なんて大したことはない。はっきり言えば死なれる方がよっぽど「迷惑」。迷惑や恥を嫌い孤立し合うより、助け合う程に人生の味わいを感じるものです。
  5. 大概の人は苦しんで生きている。別にあなたの苦しみを否定する訳じゃないし、「だからその程度の苦しさで根をあげるな。○○さんは立派に生きている」などと言う気ではありません。人と比べるのは最低です。そうじゃなくて、幸せな人と自分を比べてしまう人に言っておきたいだけ。みんな同じだよと言いたい。人類史上、人から悪口を言われない人は存在しなかったし、これからも存在しません。皆おなじようにして生きています。だから、苦しいといえば大概の大人は助けてくれます。
  6. 自殺以外はゆるされる。死んでも解決にはならない。何をしてもいいとは言わない。よくないことはよくない。ただし、してしまったことは仕方がないし、個人的には俺はそれを赦すだろうし、謝罪と償いによって赦されるべきだと思う。死んで詫びることは時代錯誤だと思う。自殺よりも償うことを考えるとこです。大丈夫、魂だか何だか知らないが、そういうのも救済されます。ばっちり確実です。ただし、まだ起きていない罪を許しはしません。殺したいと言うなら許さないし、死にたいというのも許さない。大切なのは、起きたことを諦め、起きていない悪を憎むことです。

初めて自殺しようとする女の子を止めたのは高一の時だったと思う。その子は飛び降りようとして、泣き叫んで、僕は一晩中、なんと言えば適当なのか分からないが一緒に過ごした。彼女は僕の胸で泣き続け、空が白くなる頃に寝入った。部活の合宿でのことで、次の日、事情を知らない人々に白い目で見られ続けた。まあ「すけべ」な行動してたと思われたらしい。

別に恋人でも何でもない。二つ下の後輩の女の子だった。葬式などの折、その代の後輩に会うと消息をそれとなく訊くのだが連絡がつかないらしい。悪い男につかまってなければいいが、と思うが、まあ、いろいろ仕方ない。どこかで幸せに暮らしていることだろう。かわいい子だった。

世の中、「死にたがり」の女の子で満ちていた。単純に戦場だ。残酷で、悲惨で、無力さに直面し続けるだけだった。実際、かなり前には、ちょっと縁遠いところでは死なせてしまった。まいった。親はまったく何をしているんだ。顔を見てみたい。と思って実際に見てみると、出てくるのは溜息ばかり。

あの頃の大概の女の子は心の傷を持っていて、その傷を目に見える形にして、抵抗のよすがにして、逆に苦しみつつも、しっかりと生きたがっていたように思う。難しいのだが、実は、彼女が大切にしているものが、そのままに自分を殺すものだったりするのかとよく思った。それに気づいた体が無意識に手首を切っているのかと。風邪をひいたら熱が出るみたいに。まあ、よく分からないけど。これは昔の女の子の話。今の女の子は全然知らない。

2008-04-06

[書評] 自死という生き方 / 須原一秀

「本が好き」から頂いた本。読んで戸惑う。人間とは「自らの死」にまで、主体性を発揮するものなのだろうかと。

***

縁の遠い人が、本書に書かれていたような理由で死んだ。一昨年の夏の終わりだったか。自殺と聞き、その「死因」となる嫌な話を聞きたくないなと眉を顰めたが、死因はあっけらかんとしたものであった。――人生の楽しみは十分に味わった。後は老けるだけで、自分も嫌だし、人にも迷惑をかける。だから、まだしっかりとしたうちに死にたい。こういう書き置きが、首を吊った自室の机に置かれていたらしい。享年は七十に届くか届かぬかという頃であった。

健康的にも経済的にも人間関係的にも問題はなかったという。話に陰は微塵もない。からりとしている。それ故であろうか、ご家族の立ち直りも早かったらしい。この話を伝えた私の恋人もその死を是とする。このあっけらかんとした感じに、気持ちの悪さを私ははっきりと感じた。が、元より会ったこともない人の話である。保留にして胸の底に沈めた。人の死に対し、是非を論じても詮無きこととして。

そうこうしている内に、新聞の広告で本書を度々目にした。興味を持っていたところに「本が好き」の献本リストにあがっているのを見つけた。これを機会にと思って送ってもらった。しかし、私にとってはいい本ではなかった。

***

まず私個人の視点として「事後的な死の肯定」と「事前の死の推奨」は異なることを述べておきたい。

私は個人的に自殺してしまった人に対しては敬意を表することに決めている。自らの死に向き合い、覚悟を決め、周囲の迷惑の少い方法を選んで逝った人には、事後的な死の肯定をする者である。 ―― ですから、自決した著者には素晴しい死に様であったと敬意を表します。また、父であり夫でもあった著者の突然の死を受け止めているご家族の方にも賛嘆の言葉を送ります。私は著者の個人的・主体的判断に対し、事後的に難癖を付けようとするものではございません。これだけはくれぐれも誤解なきようお願い申し上げます。

さて、この本は一人の個人の「遺書」でもあるが、同時に一つの「自殺肯定論」である。つまり「事前の死の推奨」である。一般論として「老人道」に殉した自死を認め、それどころか推奨する本である。結論から言えば、こうした性格の本書に対しては、私は反対する言葉しか出てこなかった。

たぶん本書が以下のような本だったら私も好意的だったのだと思う。――ありがたいことに私は家族にも健康にも仕事にも恵まれ、存分に人生を謳歌させてもらった。何度も「ああ、もう死んでもいいなあ」という時があった程だ。それでおこがましいんだけど、この歳になると人生に対しても、自分に対しても「高が知れたもの」と思えて来てね。我侭を言って申し訳ないが、後は自分が幸せな内に、つまり自分がしっかりした内に、人様に迷惑を掛ける前に、自分でケリを付けたいんだ。それに病気も老いもやっぱり怖くてね。僕には現代延命医学によって限界まで「生命維持」されるのが「人間らしい」とはとても思えないんだ。そうなる前に死にたいんだよ。僕の最後の我侭を赦してくれ――

恐らく、私の遠い縁の人も、そして本書の著者も、心情としてはこうした所なのではないのだろうか。こうした「遺書」なら私は事後的な死の肯定をした上で、延命医療と安楽死・尊厳死の問題について考え、技術に対し生命倫理思想が追いついておらず、そのままでは「人間らしい死」を遂げられぬ時代の犠牲者として死を悼むことができたと思う。

ただし、事前的な死の肯定を否定する私は、そういう人に対しても、残酷かつ無責任にも「駄目だ」「死ぬな」と言うのであり、そして、その人の苦しむのを見たり、立ち直るのを見たり、結局は自殺したりするのを見るのであろうが。

***

私が理解し難いのは本書の「老人道」という観念である。これについては私は正直よく分からない。筆者によれば、官僚的幕藩体制の中で自尊心と主体性を維持すべく「死にたがり」になっているのが武士道らしく、老人道とはこの武士道に似たものであり、武士道的切腹と同じく、「自分らしさと自尊心と主体性」を維持すべく行われる自決であるということだ。

この「自決」は、その他の「自殺」と老人道的自死は峻別される。だから筆者は自分の死が経済的・健康的・人間関係的な要素がないことを強く重視する。あくまで自らの老人道的な主体性が侵された時に、死をもって応じるという姿勢のようである。

老人道を生きる人間は、「病気・老化・自然死」というどうしようもない体制の中で、「そんなものに翻弄されてたまるか!」という気概をもって「自分らしさと自尊心と主体性」を維持し続け、最後までその気概を維持し続けているという証のために死んで行くのである。

それだけでは観念的な自殺としか思えないのだが、筆者にはもう一つ老人道には必要な要素があるという。それは人生や自分の高を、その極みにおいて体得しているということである。つまり、「人生の高」「自分自身の高」も体で納得する必要があり、青年期にありがちな頭で観念的に理解しているだけでは駄目なのだと説く。そこで始めて命を捨てられるという訳か。老人となるまで生き抜いて初めて、病老死に苦しむ前に「主体性」に殉じる権利もあるというところか。

***

思想が前向きであるのはよいことだと思う。しかし、死を事前に肯定する思想はあっけらかんとしてて、私にとっては気持ちのよいものではなかった。

殊に「厭世的」な考えに対する批判には絶句した。厭世的な物言いは、苦しみつつもなお生きることに向かうのであり、生を肯定する。死を勧めはしない(例外はあるのを知っているが)。

よく分からないが、投げ込まれて、打ちのめされてゆきつつも、主体性を発揮してゆくのが人生ではないのだろうか。最終的に病老死苦すら肯定できるようになるような気がする。誰だって、どうしようもない事態に足をすくわれ、それでも猶、それを主体的に引き受け、生きてゆくのではないのだろうか。美しくはないが、それでもそうして醜く、無益に、苦しみながら生きてゆくのではなかろうか。

本当に生きられない時には体が死んでくれるだろう。自分で体を殺すのは結局は観念による肉体の殺害であると思う。人間は「自らの死」にまで主体性を発揮する必要はあるのだろうか。それは結果として殺してしまった場合には仕方がないにしても、殺すことは殺すことであり、赦すにしても、許すことはない。

以下の点は示唆的だった。

  • 自然死では、眠るようようには死ぬことは例外的である。殆どの場合、非常に長い時間、激しい痛みに苦しむことになる。しばしば、身体を動かすことはできず、排泄物を垂れ流し、意識も朦朧とした状態で数年間も生命維持されることになる。相当の覚悟が必要になる。
  • こだわりを捨てれば青年期・壮年期はいいものだ。「青年と壮年の読者に言いたい。こだわりを捨ててちょっと工夫すれば人生はなかなか良いものである。定年後も老後も、工夫しだいでなかなかのものである。そして、運と健康と工夫によって、その期間は相当に長いものになるかもしれない。しかし、その先は誰にも保証できない。」

自死という生き方
Amazonで購入
書評/宗教・哲学

2008-03-11

4つのすると弱くなること

12の「今日だけでいいから」しておきたいこと に加えて。ただの個人的な Not to do リスト。

***

弱くなることをしないこと。具体的には:

  1. 夜更かし: 夜は昼なら出てこないような悪い発想が出て来やすい。また、一度ネガティヴになると悪循環してしまう。健全な精神状態で早めに蒲団にもぐりこむのがいい。digi-log: 寝付きをよくするためにに書いた内容を守る。
  2. 長電話: 電話は口だけなので変なテンションになりやすい。夜更かしとあわせ技になると泥沼。また、携帯は音質が悪いのでそれだけでイライラする(家電は我慢できるけど、それでもCD音質の電話が欲しい)。対策としては、用件済んだら叩き切る、不用意に携帯の電源を入れておかないなど。
  3. 春樹を読むこと: 別に春樹を目の敵にしたいわけじゃないが、たぶん分かる人は分かると思う。なんだか読むと弱くなる。特に『ノルウェイの森』。
  4. 悪い姿勢: 胃が縮まれば内臓の働きは悪くなるし、顎が出れば肩こり頭痛になる。胃の辺りにスペースを空けるため胸を上げる。ウナジの辺りを伸ばし顎を引く。

以上の行動は確実に自分を弱くする。確実に。

2008-01-31

「今日だけでいいから」しておきたい12のこと

最近の十訓の最新版。直球に健全な生き方を書くと急激に宗教くさくなるな。

大切なからだのために

(1) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけ自分の姿勢と呼吸に注意してみましょう。鳩尾を伸ばし、肩を落とし、うなじを伸ばしてみましょう。緊張している箇所があったらリラックスさせましょう。そして、自分の呼吸に意識を向けてみるのです。「真人は踵で呼吸する」という言葉をよく吟味してみましょう。

(2) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけよく味わって食べてみましょう。食物が至った経緯に思いを馳せながら、ゆっくりと噛む毎に変化する味に注意して食べてみましょう。そのためには、できるだけ素朴な食物を食べてみた方がいいでしょう。

(3) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけ運動してみましょう。歩けるときには軽く走り、座れるときには敢えて立ちましょう。散歩やヨガの時間をとるのもいいでしょう。運動は、あなたの健康でいられる時間を増やす大切な投資なのです。

大切なこころのために

(4) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけお祈りや瞑想をしてみましょう。あなたに祈る神があるならその栄光を讃えるのが結構でしょうし、神がいないのなら世界の平和、人々の幸せを祈るのがいいでしょう。また、瞑想をして静かに自分を観察してみましょう。祈りや瞑想は、神秘的な面の真偽はさておき、心の疲れを癒し、心を鍛えるのに非常に有効な方法なのです。

(5) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけ人類の優れた遺産に触れてみましょう。音楽や美術、文芸などの芸術を鑑賞したり、歴史や地理、哲学や宗教、数学や物理などの書物を紐解くとよいでしょう。偉人を習うべき師と仰ぎ、語るべき友とすれば、自ずとあなたは高いところへ導かれるでしょう。

(6) 今日一日だけでいいから、迷ったらすぐ休むようにしてみましょう。あなたの頭は閃いたり、気づくためにあるのです。悩んだり、探したりするのは苦手なのです。閃かないということは疲れているのです。午前中に悩んだら空いてる内にランチに行けという合図ですし、午後に悩んだらコーヒーブレイクの時間です。夕方に悩んだら仕事から夕食のメニューに頭を切り替える頃合いですし、夜に悩んだらお風呂かベッドに行く時間なのです。

自己実現

(7) 今日一日だけでいいから、自分の信念をしっかりと声に出してみましょう。自分の理念がぐらついていないか確認し、意志と目標を明確にすることです。あなたが、自分のすべきことをして、自分のなるべき人間となることは大切な義務なのです。

(8) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけ自分の未来を祝福してみましょう。自分の目標が達成された状況を想像して、その未来を祝福しましょう。祝福された未来へと続く現在も、祝福できるはずです。

(9) 今日一日だけでいいから、朝に予定を立てて、夕に反省してみましょう。一日の始まりに、その日にすべきことを列挙して、優先順位を着け、旅行かばんに荷物を詰め込むようにスケジュールしましょう。そして、一日の終わりに反省しましょう。

人間関係

(10) 今日一日、一回だけでいいから、ちょっとだけ緊急の仕事や人からの依頼に厳しくしてみましょう。飛び込んでくる用事の大部分は重要でも必要でもありません。自分にとって大切なものを明確にして、きちんと優先順位をつけておけば、しっかりと合理的な判断を言えるようになるでしょう。

(11) 今日一日、一回だけでいいから、愛想よく人の話を聞いてみてみましょう。できるだけ議論を避け、人の評価や助言はさらりと聞き流し、逆に自分は言わないようにしましょう。心無い言葉は聴き捨てて、怒ったりしないようにしましょう。だまってニコニコと人の話を聞けばいいのです。

(12) 今日一日、一回だけでいいから、ちょっとだけ人に感謝してみましょう人の長所や魅力、成果を賞賛したり、努力や苦労を認めて同情したり励ましたりしましょう。お礼や労いのためにプレゼントをするのもいいでしょう。

関連

2007-12-05

信と慈悲と

信と慈悲は対立する。さて、私はどう考えればよいのだろうか。

そういえば何か似たような問題を書いたなと思い、ブログを検索する。 清沢満之「我信念」を読んでというエントリが見つかった。4月29日。随分と昔に感じるが、7ヶ月ほど前なだけなことに驚く。少し読んでみて、色々と思い出す。

かつて、私には信があった。信とは何か? 信とは、論理を超えて、己を圧倒する何者かである。更に言えば、私にとって信とは……まあ、それはどうでもいいが。

そして、私は慈悲に悩んだ。惻隠の情に悩んだ。哀れみの心に、同情に悩んだ。

いま私は思う。本当の慈悲とは、信から導かれるものでなくてはならない。いかなる事情であれ、信とは、全うされねばならない。信と慈悲とが対立した場合、信こそが優先されねばならない。

慈悲とは感情である。感情であるが故、部分最適化した行動を取り易い。全体での最善を逃す可能性が高いのである。優しさか、甘さかを判別することは難しい。慈悲を重視した場合、筋が通らなくなる。人が与えられる優しさには限界があり、優しさが必要な人は無限にいるのだから。

原則を重視する必要性を私は考える。部分最適ではなく、全体の最適化を達成するような思考を重視したい。そうした「線」を引くことをしなければ、予測も見込みもないままに、感情に流されていってしまう。そして、そうした原則のない行動は、結局は人から見てさえ良いものではない。つまり、優しいのではなく甘いということになる。結局は誰の利益にもならない。

時間の消費の目処や見通しを持って生きねばならない。確保しなければならない投資には、何があっても投資しなければならないし、その投資を守りぬくためにもリスクは充分に想定しておき、バッファを確保する必要がある。

原則に忠実であることが真に誠実かと思う。誠実とは何にも勝る。本当に「忍びない」とき、それでも信念を貫くか否か。それが本当に忍びないのか、それが本当に自分の信念に誠実な上での行動なのか。そうしたことを鋭く問いながら、生きねばならない。

[続きを読む]

2007-11-23

学生時代の思い出と精神的な書物たち

昨晩は高校時代の友人と呑んだ。互いに限られた時間の中、共に将来を、夢を、肚の内を、「よみ」を語った。

仕事帰りのせいもあり、正直、私は彼の中に「怖さ」を感じた。「お疲れ」とグラスを合わせても、その空気はすぐには消えない。

それでも、国家について語る歳でもなくなったが国家を語り、哲学について語る歳でもなくなったが哲学について語り、経済を語る歳でもなくなったが経済を語り、精神について語る歳でもなくなったが精神について語る。まあ、それはそれで、可笑しいし楽しい。もちろん、女の苦労話にも華が咲いたが。

話は学生時代のことになる。

学生時代に共に抱えた「絶望」とは何だったろうかと問い掛ける。己の無力感 ── これは己が有能と信じたからこそ起こるものだが ── に襲われ、虚無感の中で苦しんだことは、何だったのだろうか、と。挫けそうになり、視線は真っ直ぐに「死」へと向かはざるを得なかったような「絶望」とは何だったのだろうか、と。

彼はカミュを読み解く中で、既に高校時代には「不条理」についての卓越した「覚悟」を固めていた。私は、彼を尊敬した ── 彼の能力に対してではない、彼の覚悟に対してである。

こんな逸話がある。

彼はアメリカ留学をしたのだが、その際にホームステイをすることになった。両親がいて、子供がいる、団欒の席で彼は食事を取ることとなった。

その雰囲気の中で数日暮らしていた彼は、私にメールをよこした。曰く、彼はそうした団欒の席において「俺は、こういう家庭を持つことはないのだろうな」と憂愁に襲われていたとのことである。彼が21、2の頃の話である。

その前にも、女性に告白された際にも「俺は彼女を作るということはしない。そんな時間は与えられていない」と言ってふっていたのだから、本当に頭が下がる(ちなみに、「時間がない」特に「読書の時間が失なわれる」という理由で女性をふったり別れたりした友人が私の周りには非常に多い)。

***

さて、何の話だったか。そう、学生時代の虚無感であり、絶望である。彼は若い自分に相当の覚悟を決めていた。もの静かに、筋の通った男として、生き抜いている。

そうした彼と話していて、思うことがあった。やはり精神的な書物は必要なのだな、と。そういう「無駄」な書物こそが、肚を作り、筋を通して生きるのには必要なのだろう、と。

最近、いわゆる「名ばかりの管理職」としてデスマのプロマネをした訳だが、その際にも感じたことである。自惚れ甚だしいが、私はそうした「なにかをマネッジする仕事」があっていると感じたのである。己の「よみ」を仲間に語り、集団でそれを共有し、肚をくくって未来の不確定に臨む ── こうしたことが、好きなのである。

考えてみれば、二十そこそこで起業して失敗してゆくまでは、班長、学級委員長、委員会長、生徒会長、部長と「長」が付くものは片っぱしからやっていた。好きでやっていたとは思わないし、言いたくないが、まあ、そういうことをする業かと思う。望まぬが、望んでいたのだろうかと。好かぬが、好いていたのかと。

こうした人間として、早くから己の限界にぶつかり続け、「精神的な書物」を読まずにはいられなくなったのである。中学生の卒業文集には「人はもっと素晴らしいはずだ」という出だしに始まる「人の中の不安」と題した幼稚だが、今もって尚、私には深刻な問題に関する文章を書いている。たまに眺めても「今ではこうした文は書けないな」と思い可笑しい気分になる。中学時代の私は、現在とは比較にならないほど深刻であり、苦しんでいて、絶望していた。「あの頃の自分を尊敬している」と書けば、読者には笑われるだろうか。若い時は何も知らず、それが故に理想は高く美しく、挫折も深いものである。

そう昔から成長しない私は、ときどき一人、中学生の頃と同じ口癖を呟くことがある。「もっと頭がよければ……」「もっと力があれば……」

無い、のである。徹頭徹尾、そんなものは、無い、存在しない、存在しえない、のである。そもそも、そういう問題ですらないのである! ── なのに。

愚かなものだが、悩める魂はひたすらに回り道をしながら人の世を抜けていくしかない。そうした時に、人の言葉は、人の思索は、人の文藝は、人の受け継がれゆく「語り」という営みは、私を魅了した。

***

さて、何だったか。そう、絶望の中で出会う書物のことである。理性に信頼を寄せた私は逆に人間理性の限界を「知る」ことになるだろうし、言語に信頼を寄せた私は逆に言語の限界を「知る」ことになるだろう。そうして、世界の限界を「知る」ことになるだろう。

雷に打たれたように、人間理性というものは、頼るべき存在ではなく、逆に、小さな子供のような、可憐で愛らしいが、大人の男がしっかりと守ってあげねばならない存在であることに気づくだろうし、言葉は挨拶と謝罪と感謝ができればよく、後は沈黙することにもなるだろう。

それでもなお、書物を私が愛するのは、他ならぬ書物を持ってしか、私は私を変えられなかったと思うからである。受け継がれてきた書物がなかったらと思うと、やはり、私は愕然とするしかない。少なくとも、ニーチェがなかったら私は生き抜けなかったろうな、と感じる。いや、その他の藝術や哲学 ── 人の業かと疑うような人の営みがなければ、私は随分と寂しい男だったろう、と。

そして、語弊を覚悟で言えば、やはり人の営みにはそうした書物が欠かせないのだろうと。常に、ある種の人々に「精神的な書物」は必要不可欠なのであろうと。

時代は変われど、実は何も変わってはいない。結局、人と人である。常に、人は人と共に、予測のできない未来に相対しながら、今を生きている。いくら語ろうとも、予測しようとも、結局は裏切られ、思うようには絶対にならず、時に成功しても、それは「たまたま」「誰かのお陰」に過ぎない世界を生きている。

にもかかわらず ── いや、だからこそ ── 人は語るのである。人は、物語り、語り合い、肚を見せあい、未来に己を投げ掛けるのである。そうした、「未来に投げ掛ける営み」として、[人の語りの営み」があり、そこに、「精神的な書物」がありえるのである。

静かに考えてみれば、何も変わってはいない。ただただ、未来の不安、死への不安から、人が動いていることに、何の変わりもない。ある人間は娯楽の中で「誰かの欲望」の中に埋没して現を抜かすだろうし、ある人間は死を睨みつつ、その死をすら抜けこえて「今ここの場」に研ぎ澄まされるかもしれない。これは、どちらも同じ、記憶を持ち、未来を予測できてしまう人間の哀しい性である。どちらであったとしても、愚かであることに一寸の差もありはしない。

いや、娯楽と言ったが、他者の欲望に左右されているのでなく、本当に没頭しているのであれば、つまり、生を楽しんでいるのであれば、そちらの方が貴いと思う。問題は何をしているかではない。ただ、普通は「楽しいだろう」という程度では、結局楽しめず、夢、あるいは「使命」というものを睨みつつ、現在に没頭する方が、充実して生を楽しめることと思う。

ただ、人は一人では弱い。己の夢も使命も背負うには厳しい。だから、己の「よみ」を共に語り合えた時、そして、その「よみ」が共有でき、それぞれの場に互いにしっくりとくることができた時、それは充実した仕事ができる。共に未来に己達を力一杯投げつけることができるのである。

このために、語りはある。ここに語りがある。己を語り開いてゆく中で、己ではなかったものが「開き」「現れる」のである。ここに語り合いの本質がある。この未知から現れる「語り開き」の中でこそ、互いの肚の底が見え、躍動があるのである。

不完全で、常に崩壊してゆき、不確定で、己の思う通りには断じてなりえない、この世界の中で、いかに生きるか、いかに生きるのかを、書物は教えてくれる。そして、その高い精神は、本当に「楽しい」のは何かを教えてくれる。それは、結局は、正直に、感謝して生きるしかないということである。

私は正直に、その通りだと思う。結局、正直に、感謝して、恥を知って、生きてゆくことが、「楽しい」のだと思う。己の充実した生を実感できるのである。世界が確定的で、思い通りになり得るのであれば、打算もありえる。いや、若者は多いに自らの才覚を信じ打算して、大人を出し抜けばよい! 存分にやりつくせばよい! しかし、結局は分を知り、足ることを知るに勝ることはありえないと、私は思わずにいられない。

不確定のものにぶつかりながら生きているのに、優れた精神の優れた語りがなければ、いかに苦しく、つらいだろうか。そして、そうした言葉を知れば、尚、不確定なものに挑みたくなる。

2007-08-21

変化に適応するための3つの能力

もっとも強い者が生き残ったわけではない。
もっとも賢い者が生き残ったわけでもない。
もっとも変化に対応できる者が生き残ったのだ。
チャールズ・ダーウィン

というわけで変化に適応するための能力について考えてみた。

***

変化を乗り越えてきた人類

生物は常に変化し続ける世界を生きてきた。ある者は変化に適応できなずに滅び、ある者は変化を利用して栄えただろう。

それでは、繁栄した人類は適応の苦しみからは脱却したのだろうか? 残念ながら、人類がこれほどに排他的に覇権を握っているにも関わらず、変化の中で適応しなければならないのは、現代の我々でも同じことである。

確かに我々には「寒さ」や「外敵」といった初歩的な適応能力が問われることはほとんどない。それでも、我々は騒音、大気汚染、食物汚染、日光不足、運動不足といった生物的ストレスに適応しつつ、対人関係、金銭管理に関する社会的ストレスにも適応しなければならない。これらは直接にアレルギーや精神病、成人病の原因である。

専門性を高めるだけでは変化に対応できない

更に高度に情報化した時代では、特権的な技能や知識は即座に流出し陳腐化する。故に、職能を差別化し、特権を維持するためには、常に新しい技能や知識を開発し習得し続けなければならない。競争は熾烈である。

もちろん、職能の差別化や特権を求めないという生き方もあるだろう。実は個人的には、国際能力主義は嫌いであり、田舎で無為に「どうにか/なんとか」暮らしたいとも思っている。また、情報化の果てにはそうした職能の差別化を図るのが無意味となる時代が来るのではないかとも思っているし、既に「能力」という考えそのものが無効に近づいているとすら感じている。

しかし、今、既に日本にある何かを維持しようと考え、更に「情報化による特権的職能者の消滅」という妄想を否定したときには、差別化された職能による特権を求める必要がある。これが「専門性」を高めるという教育の根拠になる考えと思う。

さて、ここで考えたいのだが、専門性を高めることは変化の時代での適応力を増すことになるかどうかである。確かに「強く」「賢い」人材にはなるかもしれない。しかし、適応できる人間とは無縁である。もちろん、「いい人材」であること自体が適応であるし、専門性を高める中での経験が変化に強くする側面があるとも思う。

変化に強い3つの条件

ここで根本的に考えてみたい。変化に強い人間とは何か? 今の私には3つのことが思い浮かぶ。

一つの重要な要素に学ぶのが早いことがあげられると思う。新規状況でも必要な技能と知識を習得できる人間は変化に適応できるだろう。

次にアイディアが湧くことだろう。経験したこともない試練の前にしたときには、誰も何も教えてはくれないし、自身の知識や経験も役に立たないだろう。そんなときには、自身の「閃き」以外には何も助けてはくれないのである。

最後には管理力があることだろう。あるいは一般的に言う「実行力」と言ってもよい。つまりは、構想を具体的なものに仕上げてゆく能力である。あるいは「調整力」でもよい。スケジュールを調整したり、人間関係での便宜を図る能力と言ってよいと思う。時間やカネ、人という資源のコントロール能力である。

こう書いて気づいたが、基本的に私の考えの構図は

「技能/知識」 + 「アイディア」 + 「資源 (時間+カネ+人)」
が何かをするには必要なので、それぞれを獲得する能力である
「学習能力」 + 「発想力」 + 「管理力」
を磨けばよい、という風にまとめられると思う。

重要なのは、「技能/知識」や「アイディア」を持っていることそのものが重要ではないということである(もちろん、あるにはあった方がよい)。それだけでは変化に適応できない。問題は、それらを扱うための、更にメタな能力が必要であるということである。

メタの能力をつける教育を

思うに教育とは、こうしたメタな能力を開発するためにするべきではないかと思う。人生で直面する問題は多岐に渡り、その全ての問題に対する解答を勉強する時間はない(そもそも、解答が準備できない問題がほとんどである)。だからこそ、答を記憶させるような教育をするのではなく、問題と答そのものを生み出す能力をつける教育が必要なのである。

「いい答案を書く能力」のために塾に行くのでは、自分で新しく知識を付ける方法というメタな能力を習得できなくなってしまう。これでは受験に「過剰適応」するばかりであり、他の環境での適応が難しくなる。むしろ、劣悪な状況で自分で工夫をして勉強すれば、「どうやれば、習得できるのか」という能力が開発される。そうしたメタな能力が、「次の学習」で役に立つのである。

同様に教育の現場でアイディアを生んだり管理する能力を鍛えるとよいと思う。子供はクリエイティヴである。状況さえあれば、かなりの数のアイディアが次々と浮かぶ。そうしたアイディアを日記のようにメモしておくことで、年齢と共にくる発想力の衰えをやわらげられるのではないかと思う。また、イメージ・ストリーミング(思い浮かんだことを次々話す)や自動筆記(思い浮かんだことを次々書く)で想像力を保てるだろうし、各種瞑想も発想力を鍛えるのに有益と思う。

そして、子供の時から金銭、時間、人間関係の管理能力をつけるのもよいと思う。予定帳と日記で時間を管理し、おこづかい帳でお金を管理する習慣を持てば、かなり有益になると思う。早い時期から「内輪でない」コミュニケーションの仕方、つまり面接や、人前で話したり発表することを練習しておけば、様々な局面で役に立つと思う。

これは何も子供の教育に限らない。むしろ大人こそ、こうした能力が必要なのである。新しいことを学ぶこともできず、アイディアも湧かないのであれば、状況に適応はできない。時間やカネにルーズであれば、成功することは言うまでもなく難しいし(私はヘタである)、「内輪でない」人とのコミュニケーションができなければ、職を得ることすらできない。

変化の時代だからこそ、目先・小手先の努力はさておき、意識的にメタな能力、底力にコストを割く必要があるだろう。能力の性質上、急激な向上は望めないかもしれない。しかし、持続的な努力はいつか実を結ぶだろうし、その実は死ぬまで輝くことと思う。それに比べ、小手先の実の賞味期限は極めて短かい。

キーワードは3つである。学習力、発想力、管理調整力。ただ、これを鍛えるためにも具体的なチャレンジが必要である。様々な分野に果敢に挑戦することが必要となるだろう。安定した環境では、これらの能力は鍛えられない。

***

変化は避けることができない。ならば、自らが変化すればよい。自らが変化する者は変化に苦しまないのである。果敢に変化に挑戦してゆき、変化を受け入れて生きてゆきたいものだ。

2007-08-04

「なぜ?」と人に訊かない

基本的には、細かいことを書きたくないし、書くべきではないとも思う。気づきの能力をつけるためには、自分で気づくしかないのだから。

ようは、練習や生活のなかで「自分の内部から気づきなさい・学びなさい」という「大人への階段」を渡らせているのです。ただ、しつけは厳しいようですが。これも大人への階段です。
パーソナルトレーナー武田さんの感性(ブログ): 「気づき」とは

一方で「しつけ」のように、理屈抜きにしこまねばならない細かいこともある。こうした細かいことを教える時には、わざと理由を教えないことで、気づく場所を残しておいてあげるのも、やさしさか。そうなると、昔の日本の教育はやさしいと思う。

そういえば、子供に積極的に「なぜ?」と問わせるのがよい教育とか言われるが、その質問に大人が答えていたら教育にならないだろう。

「なぜ?」とは大人が子供に問うことかと。その大人の問いに子供が考えればよい。そして、それが子供が気づくのを促すすべとなれば、ありがたい。

私は「なぜ?」と大人に聞いた記憶がない。そんなことをしたら、「自分で考えろ」と言われるのがオチだったからだ。そうした教育が間違っているとは思わない。

2007-08-01

じじいのぼやき(2)

じじいのぼやきと同様、じじいメモから何個か写してみるテスト。

知性とは、いかなる境遇であれ、自己の感性の自由を構築する力である。

***

謎のない人には魅力がない。しかし、その謎を制御できぬ人は更に魅力がない。

***

日本とは、私にとってオウムと震災の空間だった。

***

何かを失った悲しみは、懐しさに裏打ちされる。しかし、懐しさにひたる人は、それを既に失っていることに気づいていない。

***

豊かさとは、多様性である。「ゆらぎ」を育むことである。

***

敵は人ではない。無知や誤解こそ敵である。闇と鬪うなかれ、闇を照らす光となれ。

***

全てのウェブサイトはアプリケーションである。データではない。

***

人が知るのは「あと」ばかりである。(あと=痕跡、結果、現象)。それによって、比較や解釈ができ、変化を知るようになる。人は「あと」を見て、比較・解釈を始め、「それ」に捉われ、恐れ、恐れるが故に、「それ」を思う。ある人は「それ」を「死」と呼ぶ。私は「貨幣」と呼ぶ。

関連ページ

[1] digi-log: じじいのぼやき

2007-07-28

結論めいたことを言うと

まあ、「今、目の前だけ見てろ」と。つまり妄想に耽るなということ。

人類の異常な咽頭の発達が言語を生みだし、その記録から文字が生まれたとする、まあ、よくしらんけど。そして、その言語が文字に記録される中で形式化が進んだ、と。んでもって、その「言語の形式化」の中で思考も形式化を求められていった、と。そして、その形式化していった思考ってのは、ちょっと現実とズレがあったりして、その辺が、少年少女には苦しかったりするんだろうな、と。

ま、言葉は結局、言葉で鳴き声の延長でしかない。むしろ、その鳴き声が、「記録」や「反省」などによって、ここまで「言語思考」「論理思考」などとして形式化していった事の方が驚き。そして、その「思考」の中にのみ善悪や美、真理などの抽象概念がありえる訳だからややこしくなり、そういう観念や論理に悩むことは悩むということかと。

俺的には、こうした惱みは「病気」「欠点」って感じじゃなくて、「成長痛」のようなもんかと思う。人間、言語や論理、抽象的思考なんかを使えた方が便利な訳で、その道具の習得には、まあ、ある程度のケガは仕方ないなと。んで、使えるようになると、やっぱり便利な道具だな、とか思うわけだし。思考とか、抽象ってのは。あ、芸術とかもいれとく。

まあ、でも、それはそれとして、つまり道具として使わんといかんわけで、だんだんいいとしになると、それでケガすることも減るようになるんだと思う。だから子供は多いに抽象概念に迷い、苦しんでみて、大人を憎しみに満ちた目で睨んで「テメーラ、マチガッテル!」と叫べばいいんだと思う。そうして培った能力が未来を作るんじゃねーの? しらないけど。

ま、そんなこんなで抽象的なことに悩んだりして、最終的には「やっぱ、目の前しかありえない」ということになったりするんだと思う。時間は流れないし、過去も未来も実在しないし、自我も実在しないし、いかなる「本質」は実在しないし、いかなる抽象概念も実在しない……などなど。ただ、その場その場でありのままにあることしかなく、そうであるなら、ただただひたすらにやっていくしかない、ということになる。

かくして「世界は無である」ということに。ただ、その場、その場があるだけ。んで、その場ってのは? と思っても「そりゃ、場は無ですよ。何かが「ある」場なんて場じゃないでしょ」ということに。

はい。ここまでが第一段階。

んで、第二段階として、その実在しないものごとを実在しないと理解する訓練の段階があるのかと思う。これが、いわゆる精神的とか宗教的というやつかな。スピリチュアルとも言うのかな。でも、一般的な響きとは逆で、俺は、こうした修行・訓練は、形而上的なものや抽象的なものの「非実在」を体得するために行うんだと思ってる。「あ、やっぱ無だな」と普通に実感できるようにするために、瞑想とか禅とかしている。というか「ために」ってのもおかしくて、言葉、論理や概念で差されたものが無であることを実感するためなんだから、「ために」ってのはおかしい……いや、だから、「ために」ってのはおかしいんだよ……って無限矛盾の連鎖……。

かくして、自我/自己も本質も世界も何もかもが、まあ、なんでもない、ただの言葉として吹きとんでいくことになると思う。方法はよく分からんのだが、知覚のスピードが高速になると、対象知覚から概念形成の間の一瞬を気づけるようになるんじゃないかと思う。足元に黒いものが動いてて、虫かと思って「うわ」っと思ってのけぞったら、ただのゴミが風で飛んでただけだったとか、そういう知覚(この場合、色と運動)と認識(虫)の差をリアルタイムに認識できるようになるんじゃないかと思う。ようわからんけど。

そうなると周囲の変化に動じなくなる。何しろあらゆる無意識の意味づけを排除して反応できるんだから。

ここまでが、俺の求める第二段階。

んじゃ、第三段階ってのは何?思うんだけど、第二段階までで、妄想を離れてその場その場に没頭できるようになると、逆に従来ではなかった知覚も現れ、様々な現象を正確に把握し、それを制御できるようになるんじゃないかと思う。まあ、よくわからん。こうなるとヤバヤバだから、まあ、どうでもいいや。以上。


えーと、第2段階は具体的には瞑想でしょうね、きっと。別に妄想を拵えるために坐るんじゃなく(「無」とかも妄想なんで)、ただ、ひたすら、心の変化を観察するんです。そうすると人間が実際に疑いようもなく感じるものは直感のみであること、心は変化し続けることに自然に気がついてゆくんじゃないでしょうか。「ああ、何も確かなものはなく、あるのは移り変わるいまここだけだ。記憶も不安も妄想であった」とね。

そうした心の意識的な観察で「純粋知覚」→「概念表象」→「嫌悪や欲望」→「行為」などの流れを感じると思うんです。そして、その流れを見て「ああ、自分はこういう知覚の時、こういう概念化をしやすくて、そいつがこういう嫌悪や欲望を生んで、こういう行動になるという傾向があるんだな」とか直感的に思い付けばいいんだと思います。この自分の奥に潜む「傾向」を感じてゆくと、まあ、いわゆる魂ってやつは救われるんじゃないかな、と。

そうした心に対する観察を常に続けながら、つまり、気づきながら生きることが、2段階の完成になります。心を観察し続けるから、最初は離人症みたいな感覚を覚えるかもしれませんが、慣れると「私は心身を離れている」ことが当然になり、欲望や嫌悪が遠くなるので、生きるのが非常に楽になりますよ。まあ、常にってのは、私はまだ出来てませんが。

2007-07-25

FPN-プロのストレス解消法〜3つの秘訣と1つの結論

FPN-プロのストレス解消法〜3つの秘訣と1つの結論

3つの秘訣は以下。


【今までと違うことをする】
【心身を弛緩させる】
【思考習慣を変える】

それで「ここまでの結論・・・睡眠+心理カウンセリングが最強の組み合わせ」とのこと。

1つの結論は【いにしえの智慧と技に学ぶ】であり

そんなお釈迦様の伝えられた菩薩道。
その身は「無為自然無極の体(脱力)」であり、その心は「柔軟心」と呼ばれます。
五体投地で溜まったストレスをふるい落とし、どんなストレスにも固まらない柔らかい心を手に入れる。
とのこと。

ん? よく分からないんだけど、五体投地すればいいのかな? まあ、確かに、あれはよさそうだ。

ちなみに以下のストレス解消法の分類は参考になりそう。

1.体を動かしてリラックス(スポーツ、ストレッチ、など)
2.体を休めてリラックス(お風呂に入る、寝る、など)
3.心を動かして癒される(大声を出す、泣く、など)
4.心を休めて癒される(音楽を聞く、自然を眺める、など)

心身を緊張させ、弛緩させるという4段階のストレス解消法が理想なのでは?

2007-07-24

鬱病の人と接する5つの心得

私は医者でも何でもないが、鬱病患者を「看病」する上で必要と思える考えについてメモをしておく。くれぐれも自己責任で。

1. まず自分を大切にする

「看病」は長期戦である。相手を大切にする気持ちは大切だが、自分が倒れたら共倒れになる。相手に頼れない以上、自分の健康を長期に渡って確保することが最重要である。

また、自己犠牲をすることが愛情表現であると捉える人が多いのを知っているが、ひとまず、私はその有効性を否定したい。

その理由は、

  • 自己犠牲が自己の健康の消耗に繋がるから
  • 自己犠牲の愛情は往々にして過干渉、即ちお節介につながるから
  • 自己犠牲に基づいた献身は相手にも心理的負担を与えるからl
である。

特に一般に子育て能力を有する女性と違い、男性は長期の看病は社会的にも生物的にも負担である。サポート体制を十二分に整えねばならない。

確固とした自己愛に基づいた献身。看病の理想である。

2. ただ耳を傾けること

相手の話には、ただ耳を傾けるしかない。これは鉄則である。

往々にして相手の意見に反論したり評価したくなるものだが、これはいけない。相手の話は病気が言わせている面もあるのであり、そうした話に対して理路整然と反論したり、感情的に非難すると相手は混乱してしまい、何もいいことはない。

ひたすら耳を傾け、相手の運命への呪いや周囲への不満を聴き届け、共に相手の不遇を悲しみ、相手に落ち度がないと繰り返し伝えることである。患者の苦しみを思えば、その怒りや呪いすら正当であると静かに認めてあげよう。

看病に雄弁は禁物である。

3. ひたすら謝罪と感謝する

時に相手は自分を責めてくるものである。これにも基本は相手の落ち度がないことを認める方針を崩さないことが大切である。

その為にも、責められたら即座に詫びることである。それ以外は全て言い訳であり、どんなに自分が努力したにしても、苦しんでいる人がいる以上、詫びても罰は当たらないだろう。

また、同様に相手は自分の努力で責めてくるかもしれない。そうならば素直に感謝すればよい。

とにかく非難したり反論しても得は何もない。相手を認めてあげよう。

4. 相手を励まさない、相手を責めない

言うまでもないが、鬱病患者を激励したり、責めるのは百害あって一利なしである。その程度で行動が変化するなら病気ではないのであり、事態をややこしくするだけである。

勿論「お前はそんな性格だから、そんな病気になるんだ!」と怒鳴りたい瞬間もあるかと思う。しかし、それは医学的には証明されておらず、不毛で無益な主張であり、事態を悪化させるだけである。

基本は、相手に落ち度がないのに、理不尽に不幸に見舞われていることを、共に悲しむことである。そして、自然治癒力によって脳が治ることを共に待つことである。

誠に人にできることは待つことだけであり、苦しむ人の側に居てあげることだけである。

5. 病気を認める

ともすると病気であることを相手も自分も忘れてしまうものである。あるいは、当初はこうした病気は認めずらいものである。

しかし、病気である現状を認めないことには、治療は始まらない。自分も相手も納得した上で薬を飲み、ストレスをなくした環境で静養する必要がある。

得に「あせり」「無能感」「怠惰への恐怖」などに対しては病気の認知をすることで対応するしかない。ストレスなく静かに静養できない場合は、鬱病の勉強が救いになることもある。


苦しむ人と接するには H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』 が参考になる。是非、一読して欲しい。

2007-07-21

7つの鬱病への誤解

鬱病への誤解が多く、鬱病の人は更に苦しむことになる。鬱病は心の病気じゃないし、甘えているわけじゃない。誰でもなる可能性のある病気であり、治る病気だ。典型的な誤解を7つリストアップしてみた。

1. 鬱病って、心の病気なんでしょ?

違う。鬱病とは身体的な病気であって、その症状の一部として精神的、心理的に現われたものと考えて欲しい。

2. 鬱病って、要は甘えてんでしょ?

違う。身体的な原因により、本人の意志ではどうにもならない状況が鬱病である。

鬱病の人が愚痴や文句を言うのは、インフルエンザの人が熱を出したり鼻水を出したりするのと同じだと考えて欲しい。

3. 鬱病って、普通に話したり働いたりできないんでしょ?

違う。持てる能力をフルに発揮できていないにしても、中程度の症状なら、どうにか話したり仕事したりできる。だから、普通に話しせるんだから病気じゃないというのは違う。

4. 鬱病って、前向きに生きようとすれば治るんじゃないの?

違う。そもそも、そうしたポジティブな思考をしたり、過去を忘れたりする機能に問題が生じているのだと考えて欲しい。繰り返すが意志でコントロールできるなら病気ではない。

鬱病の人が頑張って前向きに生きようとしたり、過去を忘れようと努力しても、うまくいく可能性は低い。逆に自分が弱いのだと誤解したり、罪の意識や恥の意識に苦しんでしまい、治りにくくなるかもしれない。

5. 鬱病って、要は落ち込んでるわけで、そんなに真剣に考えなくてもいいんでしょ?

違う。鬱病はその人の感情を蝕むだけでなく、健康も、人間関係も、仕事も、思考力も奪ってゆく深刻な病気である。ときには命さえも奪う恐しい病気だ。自殺率は10%を超えるとも言われる。

また沈み込む症状ではない鬱病もあり、中でも攻撃的になる激越性の場合には自殺は50%を超えるともいわれる。

6. 鬱病って治らないんでしょ?

違う。適切に処置すれば多くの場合は治る。少なくとも改善に向かう。治療方針は基本的には一般の病気と同じで、自分と周囲が病気であることを正確に認知し、薬を飲み、養生して、回復を待つことである。身体の病気であるので身体の治癒力に頼るのである。

7. 鬱病って、特別な、弱い人がなるんでしょ?

違う。鬱病の原因に定説はないが、基本的には社会的・生物的ストレスと遺伝的、生理的なものが原因であると考えられており、個人の性格や能力などに関係があるのは証明されていない。その意味で、誰でもかかる可能性がある病気である。癌になる人が特別な人とは言えないのと同じである。

生涯の間に鬱病になる人は男性で12%、女性で20-25%にのぼる。この数値は上昇すると考えられており、WHOの予測では、2020年には世界全体で仕事ができなくなる原因の第1位となるとされている。

社会的費用を軽減するためにも、幅広い理解が必要な病気であると言えるだろう。