ベストアンサー
昭和54年の元号法にて 1、元号は、政令で定める 2、元号は、皇位の継承があった場合に限り改める (他附則あり) となっています。 これによって内閣が若干名の考案者からいくつか候補名を選定し、官房長官が整理した上で閣議決定されます。しかし、昭和63年9月に昭和帝が大量吐血された際に、急遽有識者会議が招集され、当時内閣官房副長官(事務方)だったN・I氏が内閣内政審議室長だったJ・M氏と担当になり、非公開の下で元号の絞り込みを開始しました。 因みに下のkan9nak4さんが語っているように、「陽明学者の故安岡正篤が考案したとされる元号」と言われていますが、実は関係者はこれを否定しています。当時安岡氏をはじめ、新元号の発案を委嘱していた諸橋・坂本・貝塚等の国語・歴史・漢語学者たちは既に亡くなっており、元号は縁起ものなので、亡くなった方のものが使えないというのが不文律だったからです。考案者が亡くなればその瞬間に廃案となっていて、すでに安岡氏は亡くなっていたので、安岡氏の考案したものは廃案となっていました。 「平成」の元号は昭和63年9月の時点で「平成」「修文」「正化」の3つに絞りこまれていたと言われており、この3つを起草したのが東大教授宇野精一氏(儒教)、九大名誉教授目加田誠氏(漢文学)、東大名誉教授山本達郎氏(東洋学)であり、ohshiro_tさんが記述されているように、関係者の話からは山本氏が発案者であるという説が有力です。 翌年1月7日、昭和帝が崩御された後、当時宮内庁長官だったS・F氏から小渕恵三内閣官房長官に連絡が入り、ここで臨時閣議が招集され内閣官房のスタッフが全て召集。総理官邸の官房長官室で、小渕、N・I氏、J・M氏、味村治法制局長官が新元号の選定作業に入り、時の竹下首相の判断を仰ぎ、その後衆参両院正副議長各人に意見徴収を実施。それから最終閣議に入り、14時過ぎに決定のための閣議が開催され、14:35に小渕氏から「新元号は『平成』」との発表となりました。 「内平らかに外成る」(史記)、「地平らかに、天成る」(書経)の意味を含むこの言語は読みやすさ・書きやすさ・使用されてない事等諸条件をクリアーして推挙されました。法人名や外国での地名・商標屋号・歴代帝との重複がないかまで事細かく調査され、最終候補になったのです。 前述のJ・M氏は「地名は大字まで調べましたが、その後岐阜県の小字に「へなり」と呼ぶ地区があったのは盲点だった」と述べており、この平成の選定は想像を絶する大作業だったのです。 しかし、ここからが大変でした。なぜならかつて元号は全て歴代帝がお決めになったものであり、今回は明らかに閣議で決められた事に、古くから伝統を重んじる方からは『陛下がTVを見てから新元号を承知されるのはおかしい』との意見があったのです。しかし、陛下自らがお決めになれば明らかに憲法違反になってしまうので、 1、政令により決定 2、決定した後陛下に上奏し、御名御璽を頂き、後公布する という流れをつくり、既に陛下には御裁可を頂いているという形を取って国民に納得してもらう形を取ったのです。 当時首席内閣参事官のT・F氏(個人的に知り合いです)は当時の事を、「元号の御裁可を頂く前にマスゴミにリークされてはいけないから(万一の際は切腹ものだったらしい)、閣議決定によって政令文書を持った使者がパトカーに先導され皇居に入り、御座所で陛下より御名御璽を賜って、(T・F氏が)連絡を受けた後小渕氏に報告した」と述べています。そして14:35の発表となったとの事です。これは可能な限り元号を国民に早く伝える配慮が必要だったからだと述べていました。 余談ですが、「平成」の記者会見で使われた色紙は、今も世田谷区の竹下邸にあり、竹下総理の孫のDAIGO君が時々(許可を得た上で)持ち出してTVとかに出していますが、あれから20年以上経つのは時代の流れを感じさせます。 (文中のイニシャルの方は、今だ公的な職務に就かれている方が多いので、敢えてこう表現させて頂きます事を御了承願います)
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質問者からのお礼コメント
みなさん、詳しく説明ありがとうございました。
お礼日時:2009/3/4 9:20
その他の回答(2件)
安岡正篤が考案したとされる元号であるが、「平成」の名前の由来は、『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『書経』大禹謨(偽書)の「地平天成(地平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味。元号に「成」が付くのは初めてであるが、「大成」「成化」など外国の年号や13代成務天皇の諡号にも使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号とも言える。 但し典拠・故実に由来する反対意見に以下のようなものがある。 典拠として史記を書経よりも重視するのはおかしい。書経のみを以て典拠とするべきである。 書経の当該部分は、清代中国における研究によって偽書(偽古文尚書)である事が確定したものであり、典拠として書経を挙げるべきではない。 平治以来「平」で始まる元号がないのは、平治が戦役によって混乱した時代であったためであり、「平」で始まる元号はこれを避けるのが故実である。また、「平」「成」の文字の中に「干(=楯)」「戈(=鉾)」があり「干戈(戦争を意味する)」に通じる。 なお最終案である「平成」「修文」「正化」の他に、「文思」「天章」「光昭」などの案も存在したとされる。 って、WIKIに書いてました。
ID非表示さん
2009/2/25 11:26