計算の速い子供が数学者に向いているのではないという話

プロのピアニストは、たいてい幼少のころからピアノを始める。


しかし、習い始めて最初の1,2年にやるバイエル〜ブルクミュラーあたりは、音楽的な感性を養うというよりは、譜面通りに指を動かして音が鳴らせるかの勝負である。いわば、譜面に書かれた音符をモグラに見立てて、そのモグラを叩く、モグラ叩きゲームである。


それは本人の音楽的才能や音楽的な素質とは何ら関係がない。モグラ叩きゲームがうまいか下手かというだけのことである。言うまでもなく頭の回転の速い子供や、ゲーム慣れしている子供はこういうゲームじみたことはすこぶる得意である。


そんな彼ら(彼女ら)は、たちまち、バイエル〜ブルクミュラーを終わらせるが、だからと言って、彼ら(彼女ら)が音楽家としての資質に恵まれているとは限らない。


逆に、バイエル〜ブルクミュラーを終わらせるのに時間がかかったからと言って、彼(彼女)に音楽家としての資質や才能が無いのかと言えば、そんなことは全くない。


しかし、レッスンがあまりにも進まないと初期の段階で自分には音楽の才能が無いのではないかと間違って信じ込んでしまう。そして、レッスンが嫌になって、ブルクミュラーに到達する前にピアノを習うのをやめてしまう。


これでは、眠った才能は開花する前に摘み取られてしまう。


私は、数学教育にも同じことが言えるのではないかと思う。


数学ガール 上 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

数学ガール 下 (MFコミックス フラッパーシリーズ)


小学校の算数の中心的な課題は計算問題である。中学校になると、「算数」は「数学」という科目に取って変わる。

「算数」の成績が悪かった者は、たいてい「数学」の成績も悪い。「数学」の問題でせっかく問題の解き方がわかっても計算する力がないと解答に到達できないため、点数がもらえないからである。


しかし、「算数」の成績が良かった者が、「数学」の成績も良いかというと話は全然違ってくる。算数の成績は良かったのに中学に入ってから授業についていけなかったという人は多くいるだろう。私が思うに、「算数」が出来ることと数学者としての適性とは全く別物ではないかと思う。


ということは、数学者としての適性はあり、偉大な才能を秘めているのに、算数が苦手だったために数学者への道をあきらめた人もたくさんいるということである。


これは、どうもおかしな話だと思う。

もうひとつ別の例を出そう。


私が中学生だったときに、休み時間に「大富豪」というトランプゲームが大流行した。大富豪をスーパーレモンというキャンデーを賭してやるのだ。スーパーレモンが私達にとってゲームコインであり通貨だった。


トランプやお菓子の学校への持ち込みは禁止だったので、教師に見つかるとすべて没収されてしまうのだが、教師の目を盗んでやるという背徳感が手伝って、「大富豪」はスリリングな快感を我々にもたらしたのである。


「大富豪」が最も強かったのは山田君だった。山田君はいつも皆から巻き上げたスーパーレモンを鞄がはちきれんばかりに持っていた。私に至っては、「大富豪」のルールは理解できるものの、そんなに強くもなく、どちらかと言えば、皆からはいい鴨にされていた。


そんなある日、私が「大富豪」をしていると山田君が後ろで助言をしてくれた。「ああ、そこはこのカードを残したほうがいいよ」と。私は何故そのカードを残すのかさっぱりわからなかったが、しかし彼の言う通りするとその試合は私の大勝利に終わった。そんな大差で勝ったのは初めての経験だった。


その結果に私は心から感嘆して、私はもう山田君には絶対に勝てないと思い込んでしまった。私には「大富豪」の才能がないのだと思い込んでしまった。それ以来、私が学校で大富豪をやることは無かった。


しかし私は先日、ハンゲームで久しぶりに「大富豪」をやってみた。すると、私が中学生だった当時には気づかなかったゲームの攻略法のようなものが見えてきた。そして結構奥深いゲームだということも理解できた。何故、私は中学生のころにそれに気づかなかったのかわからないが、たぶん、中学生のときと大人になったいまとでは、ゲームを捉える視点が違うのだと思う。そして、私が大人になるまで獲得できなかったこのような視点を山田君は中学生のときにすでに獲得していたことに感心するばかりである。


だからと言って、当時を振り返ってみるに山田君の学校の成績が良かったのかと言えば、そうでもなく、山田君は大阪の公立高校の下から数えて3番目の偏差値の高校に進学した。当時の私にとっては、それがまた意外だった。私にしてみれば神様のような存在である山田君が、何故こんなに成績が悪いのか本当に不思議で仕方がなかった。


でもいまなら何となくわかる気がする。


当時、私は山田君が「大富豪」の天才だと思った。そして、私は「大富豪」の才能は全くないのだと思った。それがそもそもの間違いだった。そういう問題じゃなかったんだ。


「数学」や「音楽」に適性があるのはもちろんだが、学習にはその人に相応しい段階というものがある。その人が学習できる段階に達していないのに、いくら教えてもそれは無駄なのである。


しかし、よほど教え方がうまい人ならば、その人が学習できる段階に達していなくとも何とか噛みくだいて教えることが出来るかも知れない。(そして、それこそが学校教育というものの正体なのだと思う。)


ではここで、小学校で算数が苦手で、そのまま中学になって数学が嫌いになった読者の方々にお聞きしたいのだが、いま、当時に理解できなかった数学の教科書を読んで、本当にいまでも理解できないだろうか?案外、自分の眠っていた才能に気づくんじゃないかと思う。「当時、何故こんなことが理解できなかったのか?」なんてことを考えてみると、そこには新たな発見と喜びがあるんじゃないかなと思う。



数学ガールの漫画を読みながらそんなことを考えたのであった。