「ラビットホール・ドロップス」に関するスタンス

色々なTRPGがあっていい

通常、私は、TRPGもプレイする人も人それぞれなので、色々なものがあっていいと考えています。
ある人にとって遊びにくいゲームが、別の人に遊びやすいことはあります。
なので、「このゲームはここが遊びにくい」よりも「このゲームは、こうやると遊びやすいよ」という発言を大切に考えています。
多少、失敗したってそれもそれでいいし*1、どうしても遊びにくいんだったら、そのゲームを批判するよりかは別のゲームを遊べばいいのです。
娯楽については私自身はそういう姿勢でいるつもりです。


今回の、「ラビットホール・ドロップス」に関してのみ、批判を掘り下げるのは、ちょっと事情が違って、それが「児童・障害者支援のためのTRPG」と位置づけられているからです。
これは単なる娯楽の枠を越えており、人を深刻に傷つける可能性を考慮しないといけない。
だから、安全よりの話をします。
「こうすればうまくいくから大丈夫」とか「人それぞれの好き好き」とかではなくて、「こういう失敗が起きるかも」を重視する必要があるのです。

色々な人がいる

人間には色々な人がいます。児童や発達障害者にも本当に色々な人がいます。
その様々な人の組み合わせの中で、相性が良いものもあれば、悪いものもあります。


通常、私達がTRPGをする中でも、相性が悪い組み合わせは当然、生じます。そういう時は、それぞれが自己責任で、つきあいをやめるなり、相性を改善すべく努力するなりするわけです。
ただそれは、お互いが対等の立場にある時の話です。嫌なことは嫌だと言える状況です。
人それぞれ立場はあるので、様々なしがらみで、そう簡単には抜けられないつきあいというのは、ゲームや趣味であっても、どうしてもあります。
そうした状況だと、相性の悪さは深刻な問題に発展しえます。

被害を受けやすい人がいる

世の中には色々な人がいて、相性の悪さも様々です。
AさんとBさんの相性が悪いとして、それだけだと、Aさん、Bさん、どちらが悪いとは決めにくいですが、これに立場の差が絡むと、被害を受けやすい、受けにくいは変わってきます。


つまり立場の強い人間は、嫌なことがあった時に、それは嫌だよ、とか、こうしようぜ? とかを気軽に言って、自分で動いたり周りを動かしたりできます。
立場の弱い人間は、同じ嫌なことがあった時にも、様々な理由で対応しにくくなります。
足を踏んだとき、「痛っ、何すんだ!」と即座に言えれば、「ごめん」で済む話になります。言えないと話がもつれるし、言えない側の責任ばかりでもないのです*2。


TRPGだとGMの立場と意見はルールシステム的に強いですね。
そこでサークルの先輩がGMで嫌なマスタリングを押し付けてくるとなると、さらに断りにくくなります。
男女比が偏っていて、自分の側の意見が共感されにくいとかもあるでしょう。趣味のサークルくらいならやめればいいと思うかもしれませんが、人間関係が複雑だと社会的、心理的な重圧があって大変だったりします。
またサークルとかでなくて、もっと止めにくい場合もあります。極端な例ですいませんが社長と会長を接待するTRPGとかで、自分が平社員だったら(笑)、なかなか「社長のシナリオはつまらないよ!」とか言い出しにくいですよね。もちろん、社長のマスタリングが下手なのじゃなくて、平社員のプレイングに問題があったのかもしれません。相談すれば済む話だったのかもしれません。
が、いずれにせよ、平社員はつまらなく感じていて、それを相手に相談できないわけで、その結果、平社員だけがストレスを抱えることになります。


立場の弱さには、様々なものがあります。サークルの先輩、後輩、企業の社長、社員といった社会的序列が、まずあります。
他にも、感じ方の違いというのがあります。


人それぞれ悩みはある中で、よくある悩み、珍しい悩みというのがあります。どちらが劣るものではありませんが、ただ珍しい悩みには、共感されにくいという問題があります。
例えば食べ物のアレルギーは本人にとっては非常に深刻で生死の問題です。
が、そうしたアレルギーを持っていないため、アレルギーについてよく知らない人は、その悩みについて共感しにくい。
その結果、アレルギーの悩みを訴えても、よく知らない多数派の人から「好き嫌いはいけない」とか「甘え」といった対応で片付けられてしまう場合が起きるのです*3。

児童、障害者の立場

さて、「ラビットホール・ドロップス」が対象とする児童や障害者は、多くの理由で立場が弱い人であると言えるでしょう。
子どもや障害者は困ったことがあっても、主張しにくく聞いてもらいにくいのです。
また障害者の持つ悩みや問題、必要は、その障害を持たない人には、よくわからない、共感しにくいものが多いため、きちんとした知識と訓練がないと無神経な対応をしがちです。
子供の悩みも、大人には通じないことが多々あります。

気楽にいこう

障害者が抱える問題について書きましたが、だからといって「傷つけたら嫌だから近づかないようにしよう」というのが一番の問題であるのは言うまでもありません。
変に構えすぎず、普通にお付き合いすることが一番大切です。気軽に一緒に遊ぶ機会が増えるのは良いことかと思います。その手段は何でも良いですが、TRPGであっても、もちろん良いでしょう。


その上で、「ラビットホール・ドロップス」には(というか、「児童・障害者支援TRPG」というコンセプトには)問題が沢山あります。

知識不足

気楽にいこうと言いましたが、その上で、相性によっては専門家の介在が必要な場合が明白に存在します。
だからこそ専門家がいるのです。
伏見氏は、普通のGMである私がラビットホール・ドロップスで、発達障害の人とプレイする場合に問題が生じるという懸念を述べたところ、以下のように答えました。

じゃあ問題なく誰とでも素敵なセッションできると思う(^o^)/ あまり知らない人とはゲームしないプレイスタイルですか?
pumimin 2012/06/04 11:07:36

「問題なく誰とでも素敵なセッション」をできるわけがありません。
訓練を積んだ専門家ですら、「どのような発達障害の人とも、問題なく素敵なTRPGセッションをできる」などとは言えないでしょう。
まして素人のGMが。


様々な発達障害の様々な個性と、そうした人と触れ合う時の相性の問題をすべてないことにして「TRPGをすれば素敵なセッションができる」と薦めるのは大変に危険です。

「支援」という位置づけ

何度も引用していますが、小児科、特に精神疾患・心身症・発達障害と重症心身障害を専門とするお医者様の早瀬以蔵様のご意見です。

○10)対人援助として趣味を扱い、工夫するそのこと自体が、対人援助性を損なう


 我々対人援助者が娯楽を対人援助として使用するときに特に気を付けなければならないことがあります。それは、「必要以上の気を使って趣味の形をゆがめない」事です。


 障害者スポーツを見たことがおありでしょうか。そこでは様々な工夫がなされていますが、例えば水泳で「泳ぐこと」に必要以上の手助けをしたりしません。腕がないからと言って足ひれの使用を認めようとかいう議論が起こることはありません。そうすることによって水泳は競技者にとってつまらないものになってしまうからです。ああなるかも、こうなるかもと事前に手をまわし過ぎると、これもまた、趣味の魅力を奪います。


 さらに「狙い」を絞りすぎるのも失敗のもとです。前述のように、趣味に意味づけするのは趣味を行う人自身です。ベネフィットは主体的に選び取るものであり、それこそがエンパワーメント(主体的な力の回復を促す)ことになるのです。伏見氏の工夫の殆どは余計なことです。


 その人の動機づけを高め、楽しい趣味の場を提供すれば、その人は自然に自らを助けていきます。腐心するべきは、そのゲーム体験を援助者自身が楽しめて、おそらく参加者が楽むであろうものにすることです。TRPGから学んでほしいことを必要以上に意識する必要はありません。
私がTRPGをセラピーとして使わない理由: Analog Game Studies

「ラビットホール・ドロップス」が「支援」を前提にしている時点で、「対人援助として趣味を扱い、工夫して」しまっています。
また「支援」を意識すると、どうしても「上から目線」になります。「おまえたちを助けてやってるんだ」という意識につながる。

 ショックでしょうね。
 恥と怒りでゲームどころじゃなくなりそうです。
「うるさいよ、じゃあいいよ。もう一緒にゲームなんかやらねえよ!」
 と言って席を立つでしょうか?

 それもいいんじゃないかな、と思って設計されています。
 僕はわりとそういう子だったかな(笑)。
(中略)
 どの結果でも「支援」は成功しているのです。つまり、このゲームを遊ばなかったら得られなかった経験を、「ダイレクトではなく、架空世界の冒険という体験として」そのプレイヤーに経験させることに成功しているのです。
 そして遊びの中でのトラブルは、現実のトラブルよりは解決が容易であります。これがプレイセラピーの大きな機能です。
今日はTRPGゲームファンのxenothさんから、ラビットホールドロップスへの危... - RabbitHole Drops | Facebook

伏見氏は、このように書いています。
私がGMだったら、プレイヤーの一人が、「うるさいよ、じゃあいいよ。もう一緒にゲームなんかやらねえよ!」と席を立ったら、あぁ悪いことしたなと思います。一緒に楽しもうとしたのに、楽しんでもらえなかった。その責任はGM、プレイヤー全員それぞれにあるだろうけれど、少なくとも騎士の子だけが悪くて、自分が悪くないなんてことはありえない。*4
そう反省します。


ですが「ラビットホール・ドロップス」ではこれは「支援成功」であって、「プレイセラピーとして機能している」わけです。遊びの中のトラブルを誘発させて、現実より簡単に克服させてあげることで、良い経験となる、と。


GMは、元々ゲーム中の立場が強いです。その上で、「児童や障害者に対する支援者」として振る舞う時、より立場が強く(あるいはそのようにGMが勘違いしやすく)なります。
これは、気楽に遊ぶことにとって大変に有害です。

○5) 批判4:児童の教育・思春期のトレーニング・うつに悩まされている方の自己実現・SST目的にTRPGが使われることは、特に有利でない。


 児童を実際に診ているとわかりますが、昨今のゆとり教育の中でさえ、児童の生活は失敗と成功の連続であり、その経験量はTRPGで得られるそれをはるかに上回ります。それを、学校や地域社会という揺籃の中で経験することによって(失敗が、取り返しのつかないことを起こさない場で)児童は育っていきます。このことを心配するなら、やるべきは児童の成功/失敗に対する親・先生の態度や児童にかかわるあなた自身の態度の修正です。わざわざTRPG を用いる必要はありませんし、後述する般化の問題によってむしろ不利であると考えられます。
私がTRPGをセラピーとして使わない理由: Analog Game Studies

成功失敗体験については、早瀬氏は、このように書いています。
重要なのは「児童にかかわるあなた自身の態度の修正」です。前述のような、「プレイヤーが怒って席を立っても支援成功」というスタンスで、果たしてそれが得られるでしょうか?


そもそもその児童や障害者の担任や保護者、友人等として、ずっとつきあう中において、TRPG中にちょっと喧嘩した、あとで仲直りした、でも良い場合もあるでしょう。
ただ、そういう人ばかりではないでしょう。
セッション終わったらさようなら、という場合も沢山あります。その時に、喧嘩して放置プレイ、というのは、大変な問題です。


「失敗が、取り返しのつかないことを起こさない場」を作るのは、大勢の人の不断の努力で作られるもので、TRPGの卓内なら仮想体験だからあとで取り返しがつくだろう、などというのは明らかに間違いなのです。

*1:あくまで多少です。TRPGで人を深刻に傷つけてしまう可能性はどうしてもあるので。

*2:そうした事情を考えず「言えないやつが悪い」と決め付けてしまうのが、まさしく立場の強い人の、想像力のない押し付けです。

*3:今の日本ではさすがに、そうした対応は減ったと思いますが、ちょっと前までは(あるいは今でもところによっては)実際に起きていた問題です。

*4:また席を立つ意思表示ができるうちは、まだいいのですが、前述のように、そうした意思表示ができない状況で傷付き続ける場合があるのです。