恋愛の不可解なオキテ

恋愛というロジックにおいては、自らがまず「選別可能な選択肢」になることが大前提となっている。
つまり、「交換可能な存在」にならなければ、「交換の輪」に入ることができないという仕組みだ。
それはまずいいとしよう、だが問題は次である。
「交換可能な存在」であるということは、つまり「代替可能な存在」であるということである。
自分であろうと他人であろうと、また他人であろうと自分であろうと、そこにはなんらの質的な差異、価値的な差異が存在しないということである。
いわゆる「ナンパ師」の精神というのはまさにこれに該当する。
相対的交換の輪に自らを投げ出すことで、流動的な交換サイクルに参加し、恋愛という市場に参加し、またはそこでの支配権を獲得するものである。
だが、恋愛というロジックにおいては、自分と相手を互いに「交換不可能な存在」として規定することが、同じく前提とされている。
この「交換可能である」という大前提と「交換不可能である」という前提とは、いったいどうやって両立するというのだろうか。
「交換を停止する機制」として、結婚という制度が存在しているということはわかる。
その意味で、論理的に結婚は恋愛の帰結である。
しかし、恋愛という状況にとどまる限りにおいて、その関係はやはり本質的に交換可能な、つまり極めて流動的なものでしかないのであり、ならばいったい何をもってその関係は維持されているのだろうか。
いったい維持すべき恋愛関係などあるのだろうか?
そもそもが「誰でもいい」ものなのである。
にもかかわらず、「誰かでなければならない」という。
「交換可能な存在」であることが大前提である以上、いったい何が、何を、どうやって「楽しむ?」というのだろうか。
まったく理解できない。
反射的な回答としてはセックスが予想される。
しかし、セックスが二人をつなぐ絆だなどということはありえない。
それは、流動的な市場で交換される貨幣ではありえても、恋愛という状況にとどまる限り、それ自体が意味をもつものではない。
結婚という帰結をもたらすための鍵とはなるかもしれないが、それは結局、男女のどちら側であろうと相手の気分次第で左右されるものでしかなく、まったく保証はない。
むしろ、そうなったときには、セックスはもはや女性にとってリスクでしかないともいえる。
妊娠するのは女性だけなのだから。
ならばいったい恋愛とは何のために存在するものなのだろうか?



自らが「交換可能であること」そのものを体感することによって、自らの市場における貨幣的価値を確認するというのが「恋愛の楽しさ」なのだろうか。



ならばやはり、それは流動的な、曖昧な、不安定な状況に対する心理的かつ身体的な嗜好がなければ、そもそも成立する、感じ得るものではないだろう。



「誰でもいい相手に対して真剣になる」という不可解な状況を平然と受け入れる。
そんな神経は私の中にはない。
「誰でもいい」のならどこまでいっても誰でもいいのであり、それが真剣な相手になどなり得はしない。
それこそが「誠実さ」というものではないのか。
しかし、「誰でもいい」という大前提を超えなければ存在しないのが恋愛というものらしい。



私には理解できない。