アニメ批評が低調な理由について

アニメ批評が育たないのはなぜか、ライターが既得権益を守っているからだ、編集者が怠慢だからだ、というのはやさしいけれど、本当の原因はぼくはそこにはないと思う。アニメ批評の読者が育っていないことこそが、問題なのです。批評というだけでヒステリーを起こし、くだらない揚げ足取りをするひとばかりが目立つのでは、だれもアニメについて批評なんかしなくなるに決まっている。

東浩紀の渦状言論: 山本寛氏と対談

東浩紀氏による「アニメ批評」批判、というか、批評の根付かないアニメ文化批判。異論が出るのも当然でしょうが、概ね正しいと僕は思います。しかし、批評家に問題がないのかと言えばそうでもないし、一般的にイメージされる「批評家」像はすでに耐用年数が切れているのでそれも更新しなければいけないでしょう。そもそも日本においては、どのようなジャンルであれ欧米と比べて批評家に権威がありません。例えば演劇だと「上演中に朝日新聞が褒めると切符が100枚余計に売れるが、他の新聞だと10枚くらい」と言われる程度にしか影響力がない。アニメでも似たようなもので、ヤマカンが『true tears』をベタ褒めしたところで大して売れはしなかった。そのくせ、批判的な言及に関しては「図版を提供しない」というワイルドカードで製作会社が脅しをかけてくる。やってられないですよねー。結果として、アニメであれば何でも楽しんで見られるくらいのアニメ好きでなければアニメ批評で食べていくことが出来ないようになっています。もちろんアニメというジャンルそのものへの関心はアニメ批評において絶対に必要なものですが、それはむしろ、アニメから適度に距離を置くことで生まれてくるものでしょう。


この後はあまり根拠のない話。
アニメオタクには「何らかの情報を得た上でアニメを見る」という視聴方法に関して、あからさまな嫌悪感とまではいかなくても、あまり良いことではないと考えている人が多いように思われます。何も知らない状態で見るのが最も純粋な視聴方法である、という風に。
無知=ニュートラルな状態であるという考えは、無宗教である自分を好ましく感じる心性に近いものがありますが、多くの日本人が無意識に共有している考えであると言えるでしょう。アニメ文化の場合は制作工程の複雑さから、一部の「目利き(作画オタク)」に情報を依存せざるを得ない構造になっていて、そのことが更に「作品だけを見て作品を語る」ことへの憧れを高めていきました。
これはアニメに限った話ではなく、作品を見ただけで作者を見抜くことが出来るという「ブラインド・テスト」が批評家の権威の源泉になっている、というのはあらゆるジャンルにおいて一般的な状態です。だからこそ、大御所の作品であれば必ず褒めるような批評家は嫌われるし、贋作に引っかかるとその権威が失われてしまうわけです。メーヘレンがフェルメールの贋作を作ったのも、上のような「悪い批評家」への反発からであったと言われています。
しかし、現代の批評とはそもそも「ブラインド・テスト」に特化した批評家を駆逐することから始まったのではないでしょうか?僕たちは多用な価値観が並列的に存在する社会に生きていて、その中で行われる価値判断とは、対象がどのような価値体系に依拠しているのかを知らなければ成立しません。古典美学でポップ・アートを裁くことに意味はあるのか、と。制作者(たち)は何者で、どういった思想を共有し、それがいかに作品へと反映されているのか。それらを明らかにするのが批評の役割で、読者はそういった「不純な」情報を基にして作品を評価する。大雑把に言えば、これが批評と読者の好ましい関係であると言えるでしょう。
アニメにおいてはまだその域に達していない。多くの視聴者は「純粋な」状態でアニメを見ることを望み、論説的な記事は見向きもされません。ブログを見ても「感想」の文字が並び、ある特定の立場から見るという行為が忌避される。その一方で自身の「感想」は無自覚なまま特権化され、対話の可能性は失われる。そこから一歩をふみ出し、「不純さ」を引き受けることが出来たときに初めて批評は可能となるのだろう、と僕は思います。
えっと、一応書いておきますが、「不純さ」を引き受けるというのは作り手のインタビューを読んで「なるほど、そういう意図で作られたのか!」と納得することではないですよ。この話は後日。