レビューは、私の信念ではなく、作者の信念を伝えたい

sirouto2の仕事はきたない仕事

私が、たまごまごごはんさんを好きなのは、極めてヘミングウェイ的な感覚を持っていらっしゃるからというのもありますね…。(中略)「ARIA」とかに出てくる登場人物とかもそうですけど、「自分が自分の主人」だからこそ、優しくなれる――フィリップ・マーロウ…。ヘミングウェイ−チャンドラーの系譜…。

うーん…ずるいなあ(笑)。前回から薄々思っていたのですが、あの素晴らしいid:makaronisan氏を引き合いに出されたら、私が悪者になってしまうので強く言い返せない。「id:kagamiさんもid:○○さんのように〜」と言われた場面を、言いませんけど想像してみてください。しかも「ARIA」のような心和むイメージの作品、さらにヘミングウェイ、チャンドラーのような巨匠まで動員されたら、そりゃかなわないですよ。それに、kagamiさんがmakaronisanさんを褒めたたえられるのは微笑ましい光景になりますが、もし私が私を「俺はマーロウ」などと自己言及したら、痛々しい光景になりますから、それもできません。

私には自分を重ね合わせる人物はいない。市場があるだけです。「注目はされなかったけれど、良い記事だ」という風に、他のブロガーに対しては言えても、私自身に対して言ったら、それは言い訳になってしまう(言い訳してる見苦しい場面もありますが)。過程が重要なのは真理ですが、結果が全てなのも真実です。このブログは、かりに百万人が殺到する炎上になっても、閉鎖する気は微塵もありませんが、アクセスが極端に減り、再び増える見込みがなければ、その時は凍結か閉鎖するつもりです。命運は市場の見えざる手が握っているのです。

客観的に私を見れば、必死こいて格好悪いでしょうね。それは外食(最初に言及されたような、人を感動させる素晴らしい作品)なら料理を味わうだけでしなくてもすむ、厨房の汚れ仕事が見えているようなものです。だから、その皿洗いはあくまで自分の下積みの仕事であって、他人に皿を押し付けて洗わせようとする(「外発的な売上主義を普遍化しようとしている」)わけではありません。また、アクセスに大小はあれど高低はないので、数の違いで偉い・偉くないとか考えているわけでもありません。ただ皿を洗って・数えて・積んでいくだけです。sirouto2の仕事はきたない仕事、というただそれだけのことです。

kagamiさんの信念はきれいな信念

私だって、「ARIA」みたいな、きれいな世界に住んでみたいと思いますよ。人々が生き生きと暮らすセカイ。引っ越せるものなら今すぐにだって二次元に引っ越したい。でも現実には、信念があるからみんな仲良し、「人々を想い心通じ合う」というものでもありません。むしろ、信念の強さゆえに、周囲との軋轢を産み心痛を覚える機会も多いでしょう。私もよくありますが、ネット上に限って言えば、対価にならないという理由で、意識して収束させたりスルーしたりします。もし対価を求めていなければ、かえって深追いし泥沼になることはありえます。それはまあ、私の人間の器が小さいわけですから、これも他の人に当てはめるつもりはありませんが。

これは客観主義についても関係します。確かに、信念・情熱・人柄など…は大事だと思います。しかし、私が書くアニメやラノベのレビューは、私の信念ではなく、作者の信念が伝わるようにしたい。しかも、直接「この作者の人柄は良い」と書くのではなくて、透明な記述の積み重ねで表現したい。もちろん、今のところ私にそれだけの力量はないかもしれません。また、私の良いと思う作品を買わせるのではなく、読者が良いと思う作品を買って欲しい。作品紹介は、あくまでも代理の立場で行います。不特定多数の代理だから、最初は市場の代理になります。それを踏まえた上で、自分のブログである程度売れるようになってから、市場が見逃している埋もれた佳作を発掘して紹介したいと思います。売れない内にそれをやろうとしても、「お前が頑張れよ」という話でおこがましいし、気持ちは大事だと思いますが、そもそも売れてないわけだから、実際の力になっていません。

kagamiさんの信念はきれいな信念だと思います。そのビジョンは魅力的だと感じますが、ただ、私はその楽園(例えば無償の世界)に住むことは許されず、唯物論的な世界にいます。まずもって喰うために(喰えてないけど)汚れた皿を洗う、という実も蓋もない事情がありますが、もう少し弁解させてもらえれば、抽象的になりますが次の通りです。自分の小さい器にこだわっても限界を感じるので、自らのエゴ(自我・信念)を否定して、市場の見えざる手が導くスーパーエゴ、すなわち最大公約数的な信念の集合体のようなモノを優先させます。一人一人が自分の信念に基づいて選択した集積、メタ信念です。ただし、市場万能主義ではなく、むしろ市場に限界があるとも考えます。市場がすべてではない。一人一人の自我・信念に限界があるわけだから、当然その集積のメタ信念にも限界はあります。…しかし最後にまたどんでん返しをすれば、信念の否定もまた信念だとも言えます。だから、「ヒューモアとしての唯物論」という形で、最後の最後に個人の信念は残るのかもしれません。