「子猫殺し」への批判とその批判可能性

たまたま倫理や道徳のことを勉強をしていることもあってなんだが、話題になってることに口を挟みたい。特に自分が規範的意識が強いとかではないのだが、友人ともいえる人が自分の考えからあまりにも遠いところにいるのは道徳を訴える動機として駆り立てられるし、何よりもこんな中学生の作文みたいので何か言った気になってのが本当にアホだと思うので突っ込みたくなる。


問題となってるのは8月18日付の「日経新聞」に掲載された「子猫殺し」と題された坂東眞砂子という作家の文章である。一時的なソースがないため、直接引用はしないが特に問題はないだろう。


この話は以下の2点で批判することが可能である。1は彼女自身に対する批判、2は1の批判が妥当なことである理由と、彼女への道徳的批判を妥当ではないと主張する人への批判だ。

  1. 現代の功利主義的道徳から言えば、猫の嬰児殺しは猫の避妊手術よりも悪である。
  2. 自らの非道徳性を認めることの道徳性という自己欺瞞的態度に対して道徳的批判は可能である。


1の方がより明確で指摘している人が少ないので有益な論点となるだろうが、俺はPeter Singerに代表されるような現在の功利主義的立場に詳しいわけではないので、どなたか専門の方がいれば教えていただきたい。まあ自分が理解している現代の功利主義から言って、猫の嬰児殺しは猫の避妊手術よりも悪であるのは明らかではないだろうか。
そのロジックはこうだ。現代の功利主義的立場に立てば、ある一定の脳組織を持ち快苦を体験するような動物においては、その死がたとえ人間に利するようなものでも、その死における苦の総量は最小化されるべきである。
このような動物にまで拡張された功利主義は日本人には馴染みのないものであるが、中絶の問題とともに高い動物愛護の意識を持った西欧では一般的な考え方であろう。だからイタリアだったか忘れたけど、甲殻類の茹で方とかにも法的な規定があるのだ。
たしかにこの立場を押し進めるならば、Singerのように菜食主義に行き着くし、日本人からすると理解しがたい上記のような法律や捕鯨に対して倫理的悪を主張することになる。
俺はそこまでに極端に功利主義を主張する立場に組みしないが、猫の嬰児殺しか、猫の避妊手術かを選べと言われたなら以上の理由から避妊手術を選ぶし、そちらのほうが倫理的に正しいことだと思う。
この作家はなんとも豊かな想像力を持って「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。」なんて言うが、それなら子猫と話してみる気はなかったのか?
確かにペットというものが人間の傲慢に基づいているかもしれないが、殺される子猫たちの苦と避妊される親猫の苦を功利計算するならば後者の方がマシであることは明白である。道徳的判断といってもオール・オア・ナッシングでどちらも悪いと言うのは甚だ浅薄な考えとしか言いようがない。
さらに言えばペットを飼うということが本当に倫理的に悪なのかと問うことができる。自然主義的な功利計算をするならば、ペットで飼われている猫はそこらの野良猫より明らかに幸福であるから、よって倫理的にもよいと主張ができる。しかも犬や猫の人間との関係を歴史的に考えるならば、ペットという関係は不可避であり、野生動物を無理矢理捕まえてきて飼うわけではなく、ある種の犬や猫はペットとして生まれてくるのである。チワワなどを可哀想といって自然に解放するなどという行為がその動物自身にとって幸福なわけもないし、倫理的に正しいはずもない。
はっきりいってこの作家はその辺のことを考えたという割には知識として知らなすぎるし、悪とわかった上のペットだから人様に迷惑かからなければ何をしてもいいというような乱暴な主張は受け入れがたい。この論理ではペットの虐待までも正当化できてしまうが、彼女はそのようなことを望んでいないと思われる点で論理的にもおかしいといえる。


次に2についてだが、これは言説のレベルでのメタ的に批判なので、あまり深入りすると泥沼化するので突っ込みたくないのだがごく簡単に言っておく。
上記の1の批判に対して、このように反論できるであろう。この文章はある作家個人の感情を書いただけであって、道徳的判断について言及したわけではない。よって1の批判は的外れに過ぎず、ペットという人間と動物の関係において道徳は無力であり、その不可能性を書いたものだと。
たしかにそれは一つにはあり得る話で、そういった立場もあっても良いかもしれない。彼女自身「鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが」と自分の行為がある意味において非難されることを認めているし、「私は、これに異を唱えるものではない」と自らの行為を一般化するべく主張しているわけではない。
ところが「殺しという厭なことに手を染めずにすむ」といった言葉には明らかに一般化可能な道徳的判断が内包されており、自らが「厭なことに手を染め」ることが道徳的に正しいことを言外に主張していると言うことが可能である。百歩譲ってそれでも彼女は自らの道徳的判断ではなく、エッセイのような形式で自らの感情の問題を文学的に表現したとする。それでも小説のようなフィクションのレベルで表現しているのではなく、自ら為した事実を表現している以上、その言説に道徳的な批判を加えることは可能である。道徳が人間の行動の原則と広義に捉えられる以上、自らが為した事実に対する説明がたとえ感情的なものであっても、我々はその行動原則を吟味して批判を加えることは可能である。
だいたいそもそも何故このような文章を新聞に載せる意味があるのだろうか?彼女の私的な感情を彼女自身の著作に発表するのは自由であるが、不特定多数に見られるようなメディアでこのような文章を発表する以上、彼女自身認めてるように道徳的に批判されるのは当たり前だ。
一部ではこの文章に感情的批判、非難なりを加えるのは妥当ではないという主張も見られるが、そう主張する人は厳格なカント主義者なのかもしれないが、そのような感情が人間の行動原則の経済において有意義に働いてることも考慮して欲しい。感情的なことが即、不当な批判となるわけではない。


以上の論点から、もし俺が彼女と話できるような状況なら子猫を殺すことをやめるように説得するだろうし、そのような行動原則を認める人にもそれが道徳的に正しくないことを主張するであろう。

追記:同じく功利主義的な立場からこの話題に言及した日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060822#p1
ピーター・シンガーの引用もある。