『ふしぎの城のヘレン』の座談会を開催します。

これまた告知だけのポストです。詳細はまたモズさんとこで
http://nydgamer.blogspot.jp/2013/04/hotline-tokyo-2nd.html

インディーゲームについて話し合う座談会。

日時:2013年4月27日(土)15時〜(3時間程度を予定)
場所:都内某所(電話・メールで個別に指示!)
Ustream URL:http://www.ustream.tv/channel/shinimai

『To the Moon』、『Hotline Miami』と海外インディーゲームを渡り歩いた我々は、日本のゲームの奥底を探索する。今回、扱うのはRPGツクールで多数のゲームを発表してきたさつ氏の『ふしぎの城のヘレン』。2011年の大晦日に開催された「VIPRPG紅白2011」の「マイベスト部門」1位を獲得するなど、フリーゲーム界隈ではすでに傑作と名高い。今年3月にはPLAYISMから配信されることになり、英語版のローカライズも決定している。

RPGツクールというツールを使いながらも、シンプルかつ高度に洗練されたシステム。キュートなドット絵とサイドビューによるアニメーション。そして謎めいた物語。ちょっと触れただけでもその魅力は十分に伝わるが、せっかくなのでじっくり語ろう。

主催・司会 死に舞
配信協力 松永( 9Bit http://9bit.99ing.net/ )

実はクリアしていないというのはここだけのお話。忙しいんだよ。。。

Hotline Miamiの座談会を開催します。

前回やった『To The Moon』の座談会が思った以上に面白かったので、ぜひ次もやりたいってことで、『Hotline Miami』でやろうってなって詳細はNYD Gamerさんの以下を参照。
http://nydgamer.blogspot.jp/2013/03/hotline-miamihotline-tokyo.html

というかこういったネタをどこでやっていくかが、今後の課題でちょっといろいろバタバタしている。そんでも前の大塚ギチさんの本の紹介があんなにブクマ集めるとは思わなかった。自分でも自分のはてダの規模がよくわからんのですが、ともかく、こういうイベントとかして、インディーゲームを盛り立てたいのは今年も一緒です。

インディーゲーム『HOTLINE MIAMI』について話し合う座談会。

• 日時:2013å¹´3月16日(土)15時〜(3時間程度を予定)
• 場所:都内某所(電話・メールで個別に指示!)
Ustream URL:http://www.ustream.tv/channel/shinimai

前回、単発企画として『To The Moon』についての座談会を行ったが、予想以上に楽しかったので、続編として企画する。

今回、扱うのはDevolver Digitalから昨年10月にリリースされたDennaton Gamesの『Hotline Miami』。北欧の著名クリエイターCactusことJonatan Soderstromの商業デビュー作であり、リリース後、すぐに各メディアから大絶賛された。シンプルかつハードなゲームとしての魅力はもちろん、バイオレンスに満ちた蠱惑的な世界観と謎めいたストーリーの本作は、1人でプレイするだけではなく、多くのプレイヤーと語るのに格好の素材だろう。

現在、座談会参加者を個別に連絡中。参加希望者は以下の死に舞のメールアドレスに連絡せよ! Ustreamでの配信を予定している、当日参加できない方もTwitterなどでコメントも可能となるだろう。

また、事前にメールなどで感想、コメント、考察などを送ってもらえると、当日、紹介する予定でもある。

座談会終了後、打ち上げを行う。全体としてインディーゲーム・ファンのための軽いオフ会のようなものなので、気軽に参加してもらってよい。また前回扱った『To The Moon』についても時間があれば、話す予定。

打ち上げのみの参加もOK! 『Hotline Miami』の魅力と謎を語り明かすと共に、インディーゲームのファンが交流することが目的だ。

• 主催・司会 死に舞(Twitter:@shinimai mail aka.shinimaiアットgmail.com)
• 配信協力 松永(9Bit http://9bit.99ing.net/ )
• 告知協力 ハヤニエモズ(NYD Gamer http://nydgamer.blogspot.jp/)

かつてドラッグを通してバロウズが新たな文学を始めたように、ビデオゲームにアディクトすることでも文学は始まる。

Twitterでつぶやいてたっぽいことをタイトルに掲げたが、まあ実際にそうだと思う。きっかけは大塚ギチ氏の以下の小説に深く感銘を受けたこと。
THE END OF ARCADIA
大塚ギチ UNDERSELL ltd.
4990690508

TOKYOHEAD RE:MASTERED
大塚ギチ UNDERSELL ltd.
4990690516

もともと海猫沢めろんさんとゲームの話をしていて、「死に舞くん、これ読むべきだよ」って貸していただいた。不勉強ながら大塚ギチ氏のことは何にも知らず、ただシューター(2Dシューティングゲーマー)の小説と対戦格闘ゲーマーのルポルタージュという基本情報だけで読んでみたが、これが素晴らしい傑作だった。ほとんど自費出版のような形の本ですが、少なくともシューターや格闘ゲーマーはすぐ買って読むべき!俺も改めて買い直します。

まず『THE END OF ARCADIA』から読んだのですが、冒頭の文章からひきこまれました。長いですが、素晴らしく感じられたので引用する。

文字どおり全身全霊を懸けた、たった一時間程度の攻防。息継ぎせず泳ぎ続けるかのように絶え間なく迫る攻撃をかわしながら壊せるものすべてを破壊し、得点を跳ね上げていくただそれだけの行為。すでに糖分を消費しきった脳は疲労した肉体から残った力を搾り取る。代替えのエネルギーを脳にぶちこみ、極限まで高めた集中力をさらに持続させようと試みる。時折湧き上がる高揚感を修行僧のように自分が内側に抑えこむ。精密機械のような冷静さでひたすらプログラムに挑み続ける。指先が知覚で認識するよりも速く動いているかのように感じられる。操っているはずの自分が操られているように錯覚する。まだやれるのかと老いぼれた身体で古びた筐体と対峙しながら互いへの問いを繰り返す。
(11-12)

何がすごいってこれがゲームの話なんですよ。それも横スクロールの伝説的なシューティング『ダライアス』。まあ普通の人にはどんなゲームか、何がすごいのかわからないかもしれないが、シューターと呼ばれるシューティングゲーム好きにとってはこの文章は非常にしっくりくる。シューティングゲームの本質をまさに的確に描写していると感じられるのだ。
最後に出てくる「操っているはずの自分が操られているように錯覚する」という件は、個人的にもシューティングゲームの魅力として、いつも強調してきたこと。パターン性が強いシューティング、もしくは攻略の過程上、パターン性を強くしたゲームをプレイしていると、プレイヤーは自らがプログラムと対峙する1つの機械になったように感じる。その境地においてシューティングゲームはその音楽を背景としながらプレイヤーと一体となり、それはある種のダンスの楽しさに至るのだ。
という風に、この冒頭部分(実はこの文章は後半でももう一度登場する)だけでもすごくひきこまれたのですが、友人の死をきっかけとして、40代になった仲間たちともう一度、ゲームを攻略してハイスコアを勝ち取るというストーリー自体も素晴らしい出来だと思う。このストーリーやプロットの部分は、「何かに打ち込んで達成する」という人間の普遍的な欲求に応えているため、ゲームをやらない人でも素直に面白い小説として読める。むしろ、打ち込む対象が「ゲーム」だからこそ、この欲求が非常にピュアで純粋無垢なものとして現れている。実際のところ私は3回くらいこの小説を読みながら涙を流したよ!WEB配信を含めて去年リリースされたそうだが、普通に現代の日本社会においてリアリティのある小説に仕上がっている。

一方、『TOKYOHEAD RE:MASTERED』は3D格闘ゲームの『バーチャファイター』が熱狂的に盛り上がっていた93年から95年のルポルタージュ。当時既に出版されていたものを改稿したリマスターバージョンになっている。

これも冒頭からヤラれました(笑)。寺山修司の有名なエッセイの引用から始まり、文体のテンションが終始異様に高い!加野瀬氏がギチ氏に対して「彼の強みは、80年代を恥ずかしいなんて思わないところだ」と評する理由が、このルポルタージュから伝わるのだが、単に80年代だというわけではなく、60年代末から続くカウンターカルチャーの一部としてゲーム文化を捉えているのだなぁと実感できた。その認識の是非はどうあれ、この文体の異様な暑さは当時の雰囲気を伝えることが大切なルポルタージュとして評価できると思った。
正直なところ、自分は格闘ゲームに関しては2Dのものをそこそこやっている程度の人間だ。しかし、このルポルタージュに出てくる人たちの感覚の一部を共有しつつ、一部は時代の違いを感じることができ、ゲーマーとしての相対化ができるのが面白いところ。言い方が悪いが、やはり90年代前半はまだまだ80年代的な雰囲気が強く、アーケードに集うゲーマーたちはどちらかというとヤンキー気質だったのだなーと感じる。
でも今でもアーケードは中学生から水商売のお兄さんがフラっとやってきて対戦を始めるような可能性を秘した場所だ。そして、そこでのゲーム文化はソフトを所有したり、消費したりするということとは異なる価値観で作られていることを改めて確認した。最近、引越ししてあまりゲームができない自分も久しぶりにアーケードに足を運ぶと、ゲームに対する独特な感覚が蘇ってきた。(それについてはこちらでコラムなどを書いた。)

ともあれ、冒頭に戻ると「ゲームについて語る」ということは本当に真面目に検討してもいい事柄だと思った。ゲームについて語るのは、現実のゲームを通して社会を語ると共に、ゲームという虚構について語ることもできる。『THE END OF ARCADIA』はフィクションだが、現実に存在する『ダライアス』に関する攻略方法についての記述があることで小説としてのリアリティが非常に高く感じる。他方、『TOKYOHEAD RE:MASTERED』はノンフィクションのルポルタージュなのだが、ゲームに関して異常に熱くなっている人々を描くのはやはり浮世離れした魅力を感じる。異なる視点からゲームを語る二作品はゲーマーならまずもって必読だ。(個人的には最近、
「ソーシャルゲームよりゲーセンのほうが「高コスト」問題」というエントリを書いたはてなダイアラーのベテランシューターのシロクマ先生などにぜひとも読んでほしい。)

読んだ。

ほぼ本についてメモっているブログなのに、このカテゴリーは無意味になってきた。やっぱはやくはてなから引越しする!(でも書評だけははてなダイアリーつかうかもしれん。)
脳は美をどう感じるか: アートの脳科学 (ちくま新書)
川畑 秀明
4480066861

神経美学については以前、このシンポジウム(http://www.gcoe-cnr.osaka-u.ac.jp/?p=2954)に行っていたし、大体どういう研究しているのかは知っていた。だが、ちゃんと本とか論文読むのは始めてで、こういう新書は格好の一冊だ。
しかし残念ながら、全体としてはそれほど面白くもなく、内容も雑駁としていた。これは仕方ないことかもしれない。というのも「本書のねらいは、あくまでも、アートの魅力を改めて感じてもらうのと同時に、脳科学に面白さを感じてもらうことだ」と書いているように、どちらかといえば、脳科学の入門的な部分が多い。そして実際に心理学の授業の教科書として作ったものらしい。美や芸術とは関係ないような話も多い。
さらにもともと進化心理学については以前から興味もあり、本も読んでいたので知っていた話は多い。特に音楽については。このへんでエントリも書いている。
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070805/p3
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070505/p1
神経美学といえば、fMRIとかで脳の興奮やなんか計測したりする認知脳科学的側面が強いと思うが、川畑さんは自身はどちらかと言えば心理学畑の人と言うとおり、たしかに進化心理学的な話が多かったように思える。そして進化心理学に関してはピンカーなんかの面白い本がいろいろあるので、読み物としてはそっちを薦めるかな。
とはいえ、芸術を扱った認知科学というアプローチを今後も必要で、それが日本語で読めるのは喜ばしい。ただこの本を読んで神経美学をやりたくなるのかというと、ちょっとどうも分からないっていうコメントをしたくなる。芸術は確かに多くの人を引きつけるテーマであるが、本書が扱っているのはかなり王道の美術ばかりなので、なんというかちょっと教科書的すぎるのだ。
ただその点は川畑さんの師匠であり、神経美学の提唱者のゼキ由来のものだろう。ゼキはモンドリアンなどの「優れた芸術家は優れた神経科学者でもある」だと言う。「優れた神経科学者でもある」という言葉の含意は「昔の芸術家であっても、現在明らかにされつつある最新の脳科学の知識を当時すでに知っていたかのように、脳の振る舞いを活かした表現をしているから」というが、それはそういう絵画が歴史的に残ってきただけであって、どちらかと言えば有名な芸術家を絶賛するための新しいレトリックのように感じる。
特にあのモンドリアンのあの抽象画の偉大さ(!)についての説明において、脳科学者のラマチャンドラン(邦訳もある有名な学者だ)の「ピークシフト仮説」を持ち出すあたり、非常にレトリック臭く感じてしまう。ピークシフト仮説とは、動物の行動などで反応すべき特徴が誇張され、強大化されたものへと好みを形成していく現象を指し、ラマチャンドランは人間の芸術の中にもそのようなピークシフトされた表現があるという。具体的にはヒンドゥーの女神のパールヴァティー像のセクシーなプロポーションなどに現れると。そこでモンドリアンや他の画家についても以下のように言う。

このように、今から百年前に完成したモンドリアンの画面の構成は、視覚脳の基本的な働きを最大化するような表現がなされている。というよりも、線分と色に対する脳の反応を最大化するように、ピークシフトの技法をとったといっても良いだろう。
(222−223)
このような特定の視覚的特徴の情報を処理する脳の場所を最大化するように作品を作り上げていったという意味で、ピークシフトの技法は多くの優れた美術家の表現において実践されてきたことだ。
(223)

モンドリアンなどの抽象画にピークシフトという概念を使うメリットはあまりわからない。また絵画表現において「誇張」があるのは珍しくないわけで、何がピークシフトで何がそうではないかがよく分からないのだ。また表現のレベルとして漸進的に進んだならばともかく、モダニズムの画家であるモンドリアンはそのような進化ではなく、かなり急激な変化である。人間が生得的に反応すべき特徴が誇張され、強大化されていく過程を示すならば、モンドリアンのような画家の芸術作品ではなく、日本のオタク文化における萌え絵の目の変遷とかのほうが納得がいくのではないかと思った。
そして実際問題、そういった特定の反応すべき特徴の誇張は、広告の画像や写真の修正、ポルノなどのむしろあまり偉大ではない人たちの画像表現の常套手段ではないのかと思う。

だが、本書の美術の教科書臭さが気になるのは置いとくとして(多分に私のアートうぜぇ心が揺さぶられるわけだが笑)、本書で登場する面白かった実験について触れておこう。

ひとつは美醜の判断に関わる脳部位の話。

美しいと感じるときと、醜いと感じているときとで脳の働きを比べてみて、同じ脳の場所(一つかもしれないし、複数かものしれない)が、一方には興奮的に、もう一方には抑制的に働くのであればそれは一つの尺度の両極であると捉えることができるだろう。しかし、美しいと醜いとでは、それぞれ別の脳の仕組みが反応を示す可能性がある。
 私たちが行った研究では、肖像画、風景画、静物画、抽象画それぞれ九六枚、計三八四の絵画の画像を観察者に見てもらい、「美しい」「どちらでもない」「醜い」という評定判断を行なっているときの脳の活動をfMRIで捉えようとした。そうすると、美しいという評定判断に応じて、眼窩前頭皮質内側部の活動が、一方、醜いという評定判断に応じて左脳運動野の活動が変化することが明らかになったのだ。眼窩前頭皮質内側部は、美しいと感じるときには活動が高まるが、醜いと感じるときには活動が低くなる。一方、左脳運動野は、醜いと感じる時には活動が高まり、美しいと感じる時には活動が低くなる。つまり、美しいに対応する脳の場所と、醜いに対応する脳の場所はそれぞれ別でありながらも、それらがトレードオフの関係にあることが分かる。トレードオフというのは「一方を立てるとと他方が立たない」というように両立し得ない状態のことだ。つまり、美と醜とは、お互いに関係し合いながらも、独立した概念だと考えられる。
(86−87)

脳神経科学者のマイケル・ガザニガは、私たちの研究で示された、醜さに対する運動野の働きについて「私たちが生まれつき危険を避けるのが最も得意ですばやいことを思い起こせば合点がいく。私ちはの情動は、危険を不愉快あるいはネガティブと分類する」と述べている。
(87−88)

これは分析美学でも時たま話題になる「美醜の概念が双極的か、単極的か」という議論にかなり強いデータを与えてくれる。脳の部位を見る限り、美醜は双極的とは言い切れず、異なるカテゴリーとしてみるの方が正しいようだ。この実験はかなり興味深いので今後も続けて欲しい。さらに美醜の判断に対して、エキスパートと素人でどう脳の状態が異なるのかを測れば、より面白そうだ。

もうひとつは「言語隠蔽効果」と呼ばれる現象が美的な判断にも関わるという話。

ワインをふだん飲まない人、ワイン好きの素人、ワインの製造や販売を生業とするプロとで、顔の実験と同じようにワインの味を口に含んでその味を覚えてもらい、その後、味の特徴を言語化した後にワインのリストから先に飲んだものを当ててもらうという課題だった。そうすると、ふだんワインを飲まない素人とプロとでは言語隠匿効果はないが、ワイン好きの素人においてのみ、言葉にすることの弊害が現れて、正しく思い出せなくなってしまうことが示されている。素人の場合には、ワインに関する感覚的経験も言語経験も乏しく、プロの場合には両方の経験が豊富だ。一方、ワイン好きの素人は、感覚的なものには熟練があるものの、言語的経験には乏しい。このような普段慣れている感覚を言葉にすることがないと、なおさら言葉にしたときに記憶が歪んでしまうのだろう。
(203−204)

これもなかなか興味深い実験である。普通、美的なものの鑑賞を言語化することは、対象の選別能力を高めるものと考えがちだが、そうとも言い切れないことが示されている。むしろ素人は言葉にせず、ただ味わった方がいい(笑)。
でも、おそらくこれは好悪や選好の判断と味の実質的な判断が異なることを示しているようにも思える。それこそ、ワインのソムリエはワインに対する「自分の好みの判断」を宙吊りにすることで、その質を弁別することに長けているのだろう。では、どちらが美的判断とみなすべきだろうか。これはなかなか面白い問題だ。

このように認知脳科学が与える知見は、分析美学の基礎的な問題に取り組むには非常に有用なものだ。だから、私自身は神経美学に対しては応援したい気持ちがある。ただし、それは芸術といった高次な人間の行動に対してよりも、快楽や美、調和など低次な美的性質に対する追求においてこそ威力を発揮すると思える。あと、やっぱ音楽だよ音楽。確かに認知脳科学は視覚の研究が多いが、音楽は絵画に比べ、より人間の感情や認知の生得的な部分に訴えるように思えるので。

さやわか『僕たちのゲーム史』書評会&To The Moon座談会

年の瀬で大掃除も満足にできず、1年振り返るのもめんどくさい死に舞です。来年も不安定収入のため、どうなるかわかりませんが、新年のイベントのお知らせです。
こちらで(http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20121114/p1)感想も書きましましたが、さやわかさんの本を松永くん(@zmzizm http://9bit.99ing.net/)の勉強会で書評会を開きます。

僕たちのゲーム史 (星海社新書)
さやわか
4061385240

まあきっかけはこの本がすごく良く出来ていたので、アカデミックな勉強会やっている人たちとも議論したいと考えたからです。さやわかさんにも来ていただけるので当日は面白い話が聞けそうです。基本的には勉強会のメンバーでやりますが、有志の方は参加していただいてもかまいませんので、私のTwitterやメール(aka.shinimaiじーめる)にでも言ってください。

さやわか『僕たちのゲーム史』書評会
場所:都内某所(連絡してくれた方に教えます。)
日時:1/5(土)13:00〜

当日、Ustreamでの音声配信を予定していますが、機材の関係でそれほどクオリティの高いものにはならないと思います。なので、あまり期待せず、ぜひとも聞きたい人は連絡して直接くるのオススメ。

また同日の夕方(18:00くらい)から特別企画として、海外のインディーゲームTo The Moonについて(ネタバレ)座談会をやります。To The MoonはRPGツクールで作られた海外のアドベンチャー(?)ゲーム。国内版はPlayismからリリース(http://www.playism.jp/games/tothemoon/)され、そのキャンペーンもあって日本でもブロガーさんたちのレビューが行われました(詳細:http://playism.blogspot.jp/2012/11/to-moon.html)。自分もプレイしてレビュー書こうと思いましたが、なんというか無駄に考察を重ねるばかりでなかなかレビューかけなかったのでいっそ座談会でもしようかと思いました。あと、このゲームはただ一人でやるより、人と話あったりするネタにすごく良い。プレイした後、レビューを読むのもすごく楽しかったです。この楽しみを続けるためにも座談会するのはありかなと思いまして、さやわかさんの書評会の後に開こうと思います。

To The Moon座談会(ネタバレしまくり)
場所:都内某所(連絡してくれた方に教えます。)
日時:1/5(土)18:00〜

こちらもUstreamする予定ですが、参加したい人、To The Moonについて話したい人など歓迎などで連絡いただけるとうれしいです。

===追記===
こちらのURLで放送予定です。
http://www.ustream.tv/channel/shinimai

読んだというか、買ったというか、行ったというか

早くはてなダイアリーから足を洗い、どこかで個人ブログの砦を築きたい死に舞です。
とりあえず、優先順位的に本についてはここで書いておこうと思う。本当は見た映画、聞いた音楽(まあちょっとこれは多すぎて無理かも、でも過去のはてなダイアリーを見たら図書館で借りた音源についてはメモしてましたね)、やったゲーム(仕事の都合上、これもすべては無理だけど、押していきたいゲームは紹介したい。というかゲームをブログで書くことにすごくためらいあったのは、そもそも私はバンドの宣伝としてブログを始めただけなのだ。)についても報告していきたいと思っている。
ツイッターでなんか書くよりもやっぱブログもいいもんだなとか思っているから。あー余計な能書きが長くなった。
WIRED VOL.6 GQ JAPAN.2012年12月号増刊
B009KCIY20

これ『WIRED』誌なんですが、このイベントに行ってきたのでそこで買いました。

「いま"ゲーム"はどんなメディアを必要とするか?」 WIREDとGameBusiness.jpの編集長が対談

いつのまにやらゲームライターしている俺はなんだってのはあるけど、そもそも『WIRED』がこういう特集やるってことがまず私にとっては新鮮なこと。いや必然だろうと思うんだよね。ここ数年で間違いなく一番クリエイティブな業界がゲームであるわけだから。
内容は、水口哲也氏の業界予測、MinecraftのNotchのインタビュー、エピックゲームズのUnreal4、アングリーバードのRovio社、韓国のプロゲーマーたち、そしてフランスの超おしゃれゲーム雑誌『AMUSEMENT』の話とそれなりに盛りだくさん!?いやまあ、正直ゴリゴリのゲーム好きからしたら、こんなで特集したことにはならないよって言いたい気持ちがわかるが、少なくともこういう一般紙でゲームの特集がやられること自体を評価してもいいと思う。それにNotchのインタビューとか日本語ではあんまり読めるものないもんね。
特集の中でも一番おもしろいのは、編集長の若林恵氏が取材したゲーム雑誌『AMUSEMENT』の話。この雑誌数年前に創刊されたそうなんですが、「ゲーマーのための『Vanity Fair』」、「ナード・カルチャーと『VOGUE』の融合」とか言われているらしい。イベント当日、若林さんは実物を持ってきてくれてたけど、はっきりいって表紙だけからはゲーム雑誌ってわからないレベル。
創刊したアブデル・ブナンはゲームがもっとカルチャーとして扱われ、開かれたものにするために作ったらしいが、ちょうど『WIRED』におけるテクノロジーとの関係にほぼ同じ感じですね。私も以前からゲームは決していわゆるゲーマーの人のためだけではない魅力を持っていて、一般紙、総合誌として可能性があるだろうとか思っていた。実際に4gamerのグラフィックの記事なんか、ゲームやらない美大生とかにぜひとも読んでほしい内容が詰まっているから、潜在的には日本でもこういうことは可能だと思うのだけども。

さやわか『僕たちのゲーム史』

いろいろと立て込んでいて、読んだ本についてだけでもブログを更新するのがだんだん厳しくなってきた。来年からもうちょっとブログについて見直すことにするが、とりあえず今は低空飛行の状態で後追いでもほそぼそなんとか更新。
これ読了したのだいぶ前ですが。

僕たちのゲーム史 (星海社新書)
さやわか
4061385240

さやわかさんがゲームの本を書いているという話は聞いていた。新聞なんかでもゲームのレビュー書いていて「すげー(原稿料いくらなんだろう羨ましい…」などと思っていたりもした。
ちなみに僕はさやわかさんと直接お会いしたことがあり、多少ゲームの話もしたりした。その時はちょっとしか話してなかったのですが、さやわかさんがPlatineDispositifのヒトガタハッパを絶賛していたのを覚えいている。逆に僕はHellsinker.を布教していた(笑)。我ながら微笑ましい光景だ。
だからさやわかさんのゲームの本は期待していたのだ。でも、実のところそこまで期待してもいなかった。というのも「ゲーム史」などというものをマジで書こうとすればどんだけ大変になるのかということを理解していたからだ。多分、このかなりよく出来た本でも「これについての記述がおかしい」、「これについて触れてないのはどうなのか」というツッコミは入りまくりだろう。
ただこれ自体はある程度しかたない。サブカルチャーの中でも軽視されがちなゲームについては体系だった歴史記述なんてそこまで期待できない。でも、この本はかなりいい線を言っている。本当にかなりいい線だ。
その理由は一つは、冒頭で述べられる「ボタンを押すと反応するもの」というあまりにも素朴な定義(ちなみに冒頭はウェブで試し読みできる。http://ji-sedai.jp/works/book/publication/game/01/01.html)。もちろん、これはゲームの定義の決定版でもなんでもないのだが、少なくとも本書の歴史記述を非常に分かりやすいものとしている。ともすれば、めんどうな定義の議論だけでお話が終わってしまうような哲学畑の人間としてはこのプラグラマティックな判断は見習いたいところ。哲学の話をしたい場合は別として、普通は定義とは何かの役に立てるべきものであり、それ自体はそんなに重要ではないのだ。
第二の理由は、反対に本書の「あとがき」で述べられている部分だ。

 ゲームはまだ歴史が浅く、しかもデジタルでデータが残されているものが多いです。また昔を知る人たちも多いです。だから僕たちは、わりと容易に過去のゲームを手に入れてプレイできますし、現在の視点から様々に語ることもできます。しかし、今の僕たちが語れる内容は、そのゲームが初めてプレイされた当時のものとは、絶対に異なるはずなのです。
 だったら、当時の人たちが書いた文献にあたって、彼らがその時に考えていたことを確認していく本を作ればいいんじゃないだろうか。それは意味のあることだと思いました。

事実、本書はビデオゲームそれ自体以上に、ゲーム雑誌やクリエイターの書籍、企画書などがたくさん登場する。つまりこれはビデオゲーム雑誌とビデオゲームに関する書籍や文献から見た歴史本なのだ。あえてアカデミックな立場からこの方法論を説明すれば、メディアの言説分析ともいえなくない(アカデミックな仕事とジャーナリスティックな仕事のどちらが価値があるなんてことは言わないが、本書はアカデミックな立場からも十分に評価できる本だと、個人的には思う)。
この後者のアプローチには、音楽雑誌の分析で卒論を書いた立場からは非常に共感を持てる。本書の帯には「スーパーマリオはアクションゲームではなかった!」と幾分センセーショナルに書かれているが、何のことはない、これはただ宮本茂がスーパーマリオブラザーズの企画書でそう書いてはいないというだけのことだ。しかしながら、当時の企画書やゲーム雑誌の言説を丁寧に分析するさやわかの議論は非常に納得がいくものであり、現在ではジャンプアクションの古典的名作(海外で言えば2Dプラットフォーマー)のスーパーマリオは、当時はアドベンチャーゲームであり、ロールプレイングゲームであったのだ。

細かな部分でツッコミを入れたり、それは違うんじゃないかなという部分は幾多とある。だが、それを指摘するのは今後に置いといて(書き出すときりがない...)、とりあえずこの本は現状、日本語で読めるビデオゲーム史としては最初に手に取るべき本であることは間違いない。あと単純にさやわかさんの文章は非常に読みやすい。プロのライターとして尊敬できるところである。

最後にこれは多少愚痴になる部分だが、最近ポピュラーカルチャーの本を読んでいるとアカデミシャンの著作に落胆することが多く、在野のライターさんやジャーナリストさんの本には感銘を受けることが多い。どちらにもそれぞれ良い部分があるはずなのであるが、現状はやはりポピュラー文化のアカデミックな研究の難しさを痛感している。自戒の意味もこめて、「ポピュラー文化の研究とは、すでに存在していた既存の文化の研究である」ということを再確認したい。