「席を譲らなかった若者」に対する私見(ミクロ編)
昨日のエントリの続き。
論点は以下。
ざっと、ネット上での意見を拾い読みしたところ、このエピソードの登場人物個々に関する感想を述べている人、社会とかそういうことに関して述べている人にほぼ二分されていた。
確かにじいさんはムカつくけれども、俺の場合、この若者の反論のようなことことは今まで思いもしなかったから、不愉快な顔をして席を空けるか、聞こえないふりしているかどちらかだろう。
それはそのときになってみないとわからない。そのときの気分に左右されそうだ。
言われるまでもなく自発的に席を立った方が正しいのだろう。勿論、俺だって、妊婦さんとか気分が悪そうな人、足腰が弱ってきているような老人を見かけると席を譲る。
ただ、仕事の行き返りなどで、行楽帰りの老人に遭遇してもそうしないかもしれない。それは足腰立たなくなって今にも吐きそうな酔っ払いに、席を譲ろうと思えないことと近いのかもしれない。そしてそれは、同族嫌悪からくる嫌がらせのようなものなんだろう。少なくとも俺の場合は。
件の若者みたいな人間だらけになるのも、それはそれで怖い。
今、お前たちを食わせてやっているのは、どこの誰だ?お前が今、なんでそうやって暮らすことが出来てると思う?そういう論理を振りかざされたら、弱者は生きていけない。
そして強者だって、いつ自分が弱者になるかということを考え続けなくてはいけない。
俺を含め、この話を読んだ人が、じいさんなり若者なりに不快感を覚えるのは、この二人に傲慢さ見え隠れするからじゃないかなと思う。
ベクトルは全く逆方向であるけれども、どちらも立場の強みをわかった上で、自分の強みを押し付けようとしているからだと思う。
勿論、じいさんも若者も口にしたことは、間違っていないと思う。どちらも正しいことを言っていると思う。
きっとじいさんは、自分が座りたいんじゃなくて、ばあさん二人を座らせたかったのだろう。ただ、「老人」という弱者の立場を傘に着て、嫌味とも取れるようなことを口にした。
そこには驕りとエゴがあったと思う。「若僧が年長者の意見を聞くのは当然だ。」「彼女らに頼りになるところを見せたい。」
そういうところがなく、純粋に相手を思うのなら、「行楽帰りで申し訳ないのですが、彼女たちにちょっと無理させすぎてしまったようで、席を譲ってもらえないでしょうか?」ぐらいのことは言ってもいいと思う。
そうであれば、また状況は違ったものになったのかもしれない。*1
また、若者が、頭に来るのはよくわかるが、じいさんはともかくとして、他の二人のどちらかには席を譲ってよかったのではないかなと思う。
件の話では、女性陣の意見ははっきりしないし、不快な意見を言ったのは、じいさんだけのようだ。
弱者であるということを盾にとって他人を利用しようとするような態度を取る人間と、本当に助けを必要とする人間は全く別個のものだ
そういう考えで動いてもいいのではないだろうか。
また、その若者がじいさんに言ったことも欺瞞に満ちているように感じる。
確かに、彼の言うような「俺みたいなヤツが土曜日も働いてあんたたちの年金を作ってやってるんだって分かってる? 俺があんたみたいなジジイになったら年金なんてもらえなくて、優雅に山登りなんてやっていられないんだよ。」ということは、十分有り得る未来の話だ。正直、現時点で一番想像しやすい将来像だ。しかも、現時点で一番リアリティのある不幸の形だ。
これを、博打に勝って上がった人間に今更言うのもどうなんだ。答えられる訳がない。
上がった結果が今の自分だろうし、上がれなかったらその若者が言った将来像より酷いことになってたかもしれない。
しかも、上がった結果が下の世代に、そういう将来像を抱かせるわけだ。答えられる訳がない。
続きます
*1:これは俺が甘い考え方なのかもしれないが