COBOL技術者の憂鬱

COBOLプログラマは不在にしています

pha語録

最近、「DHH」でググると、このエントリがトップに出てくるようになってしまっているので、こういう「知る人ぞ知る」偉人の言葉の集合体って、意外と需要があるのかなと思わされてしまいます。
なので、他にも私が気になっている人の言葉について、語録という形で整理してみようと思います。



という訳で、第二弾は、アルファベット3文字つながりのphaさんです。
彼の言葉は、一見、気怠さという表皮を纏っているようにみせかけて、内部に相当つきつめられた深い何かが時折見え隠れすることがあるので、いつも読んでいてドキドキさせられます。
「ニート」「労働」「他者」「世界」「自然」そして「Web」と、6つの視点から整理してみました。





○ニート

僕はゆっくりお風呂に入って、ゆっくり料理を作って、ゆっくりご飯を食べて、といった時間がものすごく大切なことだと思っている。
仕事が忙しくて、そういう生活をないがしろにするのは本末転倒だと思っていますから。
もしそういう日常の生活をあまり重視していなくて、仕事をしなければ毎日やることを思いつかない、という人だったらニートはお薦めしません。

Business Media 誠:ちきりん×phaの「そんじゃーダラダラと」(4):どういったタイプの人が、ニートに向いているのか (1/3)


街に出て飲み会とかするのが好きな人はあんまり無職に向いていない。飲み食いは結構お金がかかる。買い物が好きな人も向いてない。ギャンブルに走ってしまう人も駄目。
一方、インターネットやゲームや本が好きな人はそんなにお金がなくても幸せに暮らせる。
僕なんかひたすらWikipediaを読んでるだけで何時間も過ぎていることがよくある。Wikipedia、YouTube、ニコニコ動画、ブログ、2chまとめwikiなど、ネットにはお金をかけなくても楽しめる無料のコンテンツが既に大量に存在している。

無職の才能 - phaのニート日記


フリーランスで働いている人は、僕が平日の昼間からブラブラしているからといって、ほとんど説教したりしてきませんね。
恐らく僕のような生活をしている人に慣れているんでしょう。
考えてみればフリーランスとニートの境界線はあいまいなもので、仕事をあまりしないフリーランスとたまに仕事をするニートはほとんど区別が付かないですから。

Business Media 誠:ちきりん×phaの「そんじゃーダラダラと」(5):勝間和代さん的な生き方をどう思われますか? (1/2)


僕は社会というのは自然にバランスをとるものだと思っていて、世の中全員がバリバリ猛烈に働く人だったとしたら反動として自然に働かない人たちが生まれてくだろうし、世の中全員が怠惰なニートだったとしたらその中から退屈した奴らが出てきて仕事を始めるでしょう。
社会にはいろんな考え方があるし、1人の人間の中にも勤勉なところと怠惰なところが同居していたりするし、そういったいろんなバランスがとれた結果として社会現象は起こると思っています。
だから今の社会のこういった雰囲気の中で、ある一定の割合がニートという選択肢を選ぶことは自然だし、それを無理矢理働かせようとしてもあまり意味がないことだと思います。
社会の状況を変えずにニートにただ「働け」というプレッシャーをかけても、人間を追いつめるだけで全く解決にはならないですね。

Business Media 誠:ちきりん×phaの「そんじゃーダラダラと」(6):オルタナティブな生き方が、社会の中で大きくならない理由 (1/3)


細かいことなど言わずに、もっと気軽に「ニート」って自称すればいいんじゃないかなと思っています。
例えば「ちょっとニートやりたいから会社を辞めて3カ月くらいぶらぶらするわ」とか「ニートなんだけど欲しいものがあるからちょっと1カ月だけ働くわ」といった感じで。
気楽に「ニート」という単語を使える社会も悪くはないと思う。

Business Media 誠:ちきりん×phaの「そんじゃーダラダラと」(7):もっと気軽に出入りできたらいいのに、“働かない”という世界に (1/3)





○労働

会社に自分の時間を売ってお金を得たけれど、その得たお金でまた時間を買い戻しているだけのような気がした。
それは本末転倒というか、本当に何をやってるのか意味が分からないなーと思ったし、別にお金があんまりなくても時間さえあれば僕は充分楽しく暮らせるような気がしたので仕事を辞めたのだった。
お金のない50代よりもお金のある50代のほうがそりゃ当然いいと思うけど、ある程度安定した50代を得るために20代30代を地獄のような思いをして耐えることはできない。

世間のルールに背を向けろ - phaのニート日記


僕は月収が100万でも20万でも5万でも、大体毎月15〜20万くらいを使ってマイペースで生きていくような気がする。
それくらいの生活が性に合っているし、自分はそういう生活をしていくのが正しいと思っているし、お金とかいうよく分かんないファクターのせいでそんな自分の神聖な生活が乱されてしまうのはおかしいと考えている。
要するにお金というものがよく分かってないし好きじゃないしピンと来ていない。
だから仕事も、そもそも仕事は全然好きじゃなかったし、そしてお金のために働くという必然性も感じてなかったので、「みんながやってるしやっぱり働いた方がいいのかな」とか思って何となく数年間我慢したけど、「やっぱり働いている意味が全くわからないな」と思ったのでそれで辞めた。
一度ニートになってお金に困ったら、お金の本当の価値や働くことの本当の意味を体で理解できるようになるかもしれない、とそのとき思ったような気もする。

本気でお金がなくなってきた - phaのニート日記


働くことの意味が分からないって言ったら、周りの人に喜んでもらうとか自分が成長していくとかそういうの楽しくないですか?って聞かれたりするんだけど、周りの人に喜んでもらいたかったら仕事じゃなくて個人的に料理でも作ってあげたりマッサージでもしてあげたらいいし、自分が成長する=今までできなかったことができるようになる、だったらひたすらゲームをやりこんだり楽器を練習したりしても味わえることだし、別にわざわざ仕事という面倒くさい邪悪なものをしなくてもいいような気がするんだよなあ。
忙しいと精神が荒むし。忙しすぎると人間が死んだりするし。

働くことの意味が分からない - phaのニート日記


僕は「しんどい思いをしてがんばって何かを成し遂げる」ということをたぶん信じてないんですね。
何かをやりたいというときには「楽しくてしょうがない」という気持ちがあるからやっているだけ。
逆に言うと、楽しくなければそれをやらないし、自分の体が楽しいと感じないことはそもそもやらなくていいことなんだと思っている。

Business Media 誠:ちきりん×phaの「そんじゃーダラダラと」(8):なぜ人はガンバリ続けるのか “努力教”は人を苦しめる論理 (1/4)


僕はいつも怠惰な生活を維持することを第一に考えていて、要するに毎日ごろごろしていたいんだけど、何故そうなのかを考えてみると、どうやら僕は「本当に面白いものは怠惰さの中からしか生まれない」と考えているからみたいだ。
一般に他の人がどうかは知らないけど自分が何か面白いことをするときはいつもそうな気がする。
でもそれで合ってるのかはよくわからない。
何かのマネージメントが下手なだけなのかもしれない。

怠惰さについて - phaのニート日記


「そんな甘い話はない」「世の中をなめすぎ」というような反応をされたりすることが多いけれど、僕はわりと可能なんじゃないだろうかと思っている。
自分の持てる全能力、全てのリソースを、働かずにふらふらしていくことに費やせば、そしてインターネットという場所・ツールを最大限に活用しまくれば、なんとかなるんじゃないかって思ってる。

ニート的人生設計 - phaのニート日記


自分の稼いだお金を自分だけで使うというのはつまらないと感じます。
ゆるくもうちょっと分け与えるという部分があった方が世界は面白いと思うので、絶対自分の生きる分は自分で稼がなくちゃいけないっていう風には思えない。
適当にお金をあげたりするのはいいんじゃないでしょうか。
そこで自己責任というのもあんまり面白くないなあと思いますし、そういう風に気軽にお金をやり取りする文化が増えたらいいと思いますね。

京都大学新聞社/Kyoto University Press » エリート×起業家×ニート 新入生キャンペーン2010講演会録(2010.05.16)





○他者

全く人と会いたくないわけではないのだけど、人とずっと一緒にいると疲れてきて全然頭が働かなくなってしまう。一切の外部からのインプットを断って、ぼーっとしたり一人で頭の中でいろいろ考えを回している時間が絶対に必要。そうしないと自分がどんどん駄目になっていく。

「社交力ゲージ」みたいなものが自分の中にあるとイメージしている。人と喋ったり、喋らなくても一緒にいたりすると、このゲージがどんどん減っていく。
ゲージがゼロになると、一切外のことに興味がなくなり、一人でないことが苦痛でどうしようもなくなり、一人になりたくてしかたなくなる。部屋に一人でいたり一人で散歩したりするとゲージは回復する。

だから、僕が仕事をやめたのは、人付き合いをよくするために仕事をやめた、というのもある。仕事をしていると、どんなに早く終わる仕事でも、朝から夕方までは会社にいたり人と会ったりしてなきゃならないので、その時点でゲージを使い切ってしまう。
だから終業の時点では「一刻も早く一人にならなきゃヤバい」というパニック状態になっていて、終業後は会社の人との付き合いも、会社以外の友達との付き合いもできるだけ断ってしまうので、付き合いがすごく悪かった。別に家に帰って何をするわけでもなく一人でいるだけなんだけど、それをそのまま言うのも言いにくいので「ちょっと用事があって」とか嘘をついて帰らなきゃならないのも嫌だった。

ADHD友の会(必然性と能力) - phaのニート日記


「サイト作り」にしろ「せどり」にせよ僕が続けられたのは、
・時間を自分の自由に使える
・人と会わなくていい
という点を満たしていたからだと思う。
特に「人と会わなくていい」のは重要だ。
人と話したり挨拶したり質問したり交渉したり喧嘩したりするのが本当に嫌なのだ(たまにならいいんだけど)。
もちろん、サイト作りにせよせどりにせよ、ネットを介した向こう側にはちゃんと人間がいる。実際の人がいて、その人がサイトを見に来てくれたり本を注文してくれることで、それが収入になっている。その点では普通の商売と全く変りない。
しかし、相手の人と直接コミュニケーションすることがないため、人間をほとんど意識しないんだよね。

感覚としては、人を相手に商売をしているのではなく、山に入っていって栗でも拾ってきているような感じだった。サイトを作って広告を貼ったら毎日ちょっとずつお金が入ってくるのは、川に罠をしかけて放置して、一日一回見に行くと魚が何匹か入ってるようなのと同じ気分だった。風向きや天気からその日の収穫を予想するような気分で、アクセス解析や広告の売上レポートをチェックしたりもしていた。

実際はネットは人間の活動の集合体なんだけど、僕にとってはもうネット自体が人間から独立した一つの新しい自然として存在しているように思えた。その新しい自然の生態系はとても複雑で豊かで、いろんなもの(植物や動物や虫など)が活発に活動して絡み合っていて、その中をこまめに見て回れば何とか自分が食べる分くらいは拾ってこれるのだ。そうやって直接人とコミュニケーションしなくてもお金を手に入れることができる、というのは僕にとってとても救いだった。

インターネットの恵みで生きる(前編) - phaのニート日記


対人能力がなくても孤独にならないようにしたいんだよな。
そのためには個人のコミュニケーション能力に頼るのではなく、例えばギークハウスのようなシェアハウスを作って「人が遊びに来やすい土地に家を作る」「人が遊びに来やすいような雰囲気を作る」「リビングに人が集まりやすいような部屋の配置にする」といった構造を用意するというように、システム的な解決をしたい。
僕は特定の個人のパーソナリティや思想や熱意によって実現されているものよりも、凡庸な人間でもやる気のない人間でもその仕組みの中に入ればそこそこ面白く楽しくなれるような構造に興味がある。人は環境に規定されるという考え方が好きだ。中心人物の存在感に依存するのではなく、中心人物が急に死んでもシステムは変わらず回り続けるようなのがいい。

人が怖いからシェアハウスに住む - phaのニート日記





○世界

世間で模範的とされている生き方、例えば「ちゃんと学校に行ってちゃんと就職して真面目に働いてしっかりとした家庭を作る」みたいなのに違和感を覚えない人は別にそれでいいと思う。
人はそれぞれ幸せになれる場所が違うし、そのルートで幸せに生きられる人はそこで生きたらいい。別に皮肉とかじゃなくそれはそれで幸せで良いことだと思う。
僕が何か言いたいのは、そういう世間で模範的とされている生き方にどうしても馴染めないし適応できないけど、「それって自分が悪いのかな」とか「自分の努力が足りないのかな」とか悩んでいる人に対してだ。
そういう人には「別にどんな生き方でも何とか生きられてたらそれでいいんじゃないの、自殺したり人を殺したりしなきゃ」と言ってあげたい。

世間のルールに背を向けろ - phaのニート日記


物事がうまくいかないのは自分の努力が足りないからじゃなくて、その場所が自分に合ってないからかもしれない、っていうのを検討してみてもいいかもしれない。
(中略)
うまくいかないとか合わないと思ったら逃げるのも大事。自分の「これは嫌だ」って感覚や直感を押し殺さないようにしよう。嫌なことに関しては精神より身体のほうが敏感なことも多いので、身体感覚に気をつけるのもいいと思う。例えば体を壊すというのは体からの貴重なシグナルなので、しょっちゅう体調を崩しているときは自分の何かを見直してみるべき。

世間のルールに背を向けろ - phaのニート日記


この世界に流れる時間は各個人の感覚とは関係なく「標準時」として暴力的に統一され、その中にいる人間は「それ」に合わせて生きることを強要されている。
「何かに夢中になって没我の境地にいる10分間」と「ひたすら苦痛に耐え続けている10分間」は主観的には全く長さの異なるものだけれど、それらは社会では同じように扱われる。そのことが小さい頃からずっと納得できずにいた。
「自分の体調とか気分とか時間感覚は毎日変わるのに何で毎日決まった時間に学校に行かなきゃいけないのか理解出来ない、意味分かんない」と思っていた。

時間について - phaのニート日記


今まで海外に出たことがなくて、今の日本の社会に生きづらさを感じていたり人生に行き詰まりを感じている人は一度海外を旅してみるのをおすすめします。
パック旅行じゃなくて自分で行き先を決めてバックパッカーで旅行してみるのがいいと思う。
日本ほどシステムやルールが決まりきっていない発展途上国を旅すると、日本の中で通用してたルールや決まりなんて、人間が生きるということにおいて、それほど本質的なことじゃないなー、と思ったりする。

ちきりん著「ゆるく考えよう」を読んだ - phaのニート日記


僕は昔、内田樹さんのブログに影響を受けて半年ぐらいだけ合気道の道場に通っていたことがあるんだけど、そのときのことで思い出すことがある。
自分より力の強い人に腕をぐっと掴まれて動けなくなったときに、それを力づくで振りほどこうとしたり抵抗しようとしてもうまく行かない。
ではどうすればいいかっていうと、掴まれた腕はそのままにして自分の体をスッと相手の体の横などに移動させるのだ。
そうすると立場が逆転して、相手の攻撃はこちらに届かなくなり、相手は腕に力が入らなくてこっちは力を入れやすくて、こちらが自由に主導権を握れるようになる。
上手い人はそういう「どこに行けば自分が楽に動けるかという場所」が見えるようになるみたいで、先生がよく言っていたのは「力で対抗してはいけない。自分が楽な場所に行けばいい。自分が楽な場所は絶対あるから」ということだった。

人生においてもそんな感じで、頑張って無理矢理状況を変えようとするのってあんまり上手くなくて、自分がそれほど力を入れなくても動ける状況が来るのを探すべきだし、どうすれば楽になれるのか全く見えない状況だったら、見えるまでじっと待ってみてもいいんじゃないかと思う。
冬は時間が経てば絶対にそのうち終わるものだし、状況はどんなときも必ず変化し続けるものだし。

思い出したこと - phaのニート日記





○自然

太陽の出ている時間や、天気のいい日に散歩するというのは、ひらめきを得るためにもすごく重要なんです。
家でずっとプログラミングしたり本を読んでいると煮詰まってくるので、そういう時はまた散歩に出かける。すると、ぶらぶらしているうちに考えがまとまってくるわけです。
そして、また家に戻ってプログラムを打つという感じですね。

ASCII.jp:新しいひらめきを得るために、無職を選んだ男──「phaのニート日記」|古田雄介の“顔の見えるインターネット”


冬の亜熱帯というのは太陽をひたすら楽しむのにはちょうどいいのかもしれない、ということだ。夏の温帯や亜熱帯、もしくは一年を通しての熱帯では、日光は強いんだけど気温も高いので、ずっと日なたにいると体温が上がり過ぎて疲れてしまうけれど、今の小笠原くらいの気温だと日が翳って風が吹くと少し寒いくらいで、それくらいの気温だと強い太陽の日差しを長時間浴びていても暖かくて快適なままだ。
日当たりのいい海辺に寝転んで太陽の強い光と熱を受け続けていると、全身が真っ白な光で満たされて全てのことがどうでもよくなって、体も心も全部どろどろの不定形に溶けていきそうで危険だ。ずっとこうしてたい。

太陽 - phaのニート日記





â—‹Web

「ウェブは無料で使える」という習慣が定着しちゃっているからブログの読者からはお金を貰いにくいけれど、人類が千年以上にわたって慣れ親しんでいる「書籍」という、ある程度まとまった量のコンテンツがまとまったコンセプトで集まっているパッケージングに対してはみんなわりとお金を出してくれる。
電子書籍でもブログでもメルマガでも、ファイルの拡張子が「.epub」でも「.pdf」でも「.app」でも「.html」でも何であっても、結局は文章を納めたデジタルデータをネットワークからダウンロードして読んでいるだけということには変わりがないのだけど、そこに「書籍」というアナロジーを適用するだけでぐっと馴染みやすくなる。そういうものだ。

電子書籍とブログって何が違うの?


一人の人間がチェックできる情報の量には限界がある。RSSやトラックバックといったシステム、もしくは数万件のフィードを購読するギークたちは、情報を読む効率を上げることで一人の人間がチェックできる情報の量を増やそうという試みだった。
それに代わってソーシャルは、みんなで少しずつの情報を分担処理してその結果を共有するという考え方だ。
人間をコンピュータと考えればソーシャルネットワーク全体で行う分散コンピューティングのような処理が行われているわけだ。

フィードジャンキーはソーシャルの夢を見るか


人の間にあって人間と書くように、人間はコミュニケーションしたがる生き物で、他人無しでは生きられない社会的生物だ。それは何万年の昔から現在まで変わらない。
しかしテクノロジーの進歩によってそのコミュニケーションのあり方は常に変化しつつある。
「いいね!」ボタンの発想を突き進めていくと、そのうちWeb経由で言語を使わずに、だるさや切なさや、怖さや寂しさなどの感情なんかも0-clickで瞬間的に伝えられるようになるのかもしれない。それが実現したら、よくわからないけど、未来だなあ、と思う。

インターネットは承認欲求でできている





とまぁ、こんな感じです。
彼の言葉を目にしていて不思議な気持ちにさせられるのは、20代から30代にかけて地獄のような思いをして耐えてきた私が、「あれ、俺って実はそんなに頑張らなくてもよかったんじゃないかな?」という気にさせられてしまうことです。



私を含めた一般的な労働者は、仕事でもなんでもそうですが、とてもつまらないことに対して、とにかく「一生懸命」やろうと努力します。
仕事がうまくいくと、それは世間的な価値観に支えられている為に、周囲から「よい評価」を受けることになります。
そして「よい評価」を受けることで、同時に周囲から期待され、さらに一生懸命やらないといけない状況に陥ってしまいます。
一方で、「仕事のできない」人や、もともと「仕事をする気のない」人は、そういう人たち同士で群がって、「できる」人たちに対して、妙なルサンチマンを抱くことになってしまいます。
そういう状況に対して、phaさんは「実は違うんだよ」と、小声でボソボソとつぶやいているような印象があって、もっと彼の声が世間一般に響きわたればよいのになと、そういう思いを抱きながら、この語録をまとめてみました。