松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「4・11問題(『恋崖』座談会事件)を振り返って」を読んで

 noteで、金原 甫さんが「吉本隆明の自閉症理解とその遡及」という文章を書いておられる。副題が「4・11問題(『恋崖』座談会事件)を振り返って」という。https://note.com/geldfeld28/n/n8435b7ba2af6

 芹沢俊介と恋崖同人が座談会し、そこでの芹沢の発言内容の一部に松下が激怒した事件、と言ってもよいかもしれない。松下昇については、単に忘れられているのではなく、近づくと奇妙なタブーのような変な沈黙に包まれている。ように私には感じられるが、それは私が松下シンパ的立場に居るからかもしれない。

 

(1)この文章を読み始めると、まず上野千鶴子が出てくる。

あるパンフについて、自閉症児親の会から上野が批判された問題についてだ。

〈この著の自閉症児にまつわる記述が、当事者及びその親からしたらあまりに現実から剥離していること〉が問題にされた。

 

 親の立場に立てば彼女たちの主張はとてもよく判ると言うべきかもしれない。

ただ実は、わたしはこういう抗議にはなるべく近づきたくない。ある断言が(その言葉使いが)日々何かで苦しんでいる人にとってありえないと感じられるのは、よくあることであり、その断言の不当をそれで決めるべきではないと思ってしまうのだ。

正しい思想を持たなければならない、という思想は正しさが予めあることを暗黙のうちに前提にしており、その前提は必ずしも正しくないと思う。(出版物として公にする以上、当事者たちへの配慮は必要なのかもしれない。それについて私は分からない。)

 

「自閉症」自閉症スペクトラム症 というものが、親の育て方で起る、はマチガイである、とのことである。なるほど。上野が対幻想論に非常に影響を受けている、とある。これについても検討はとばす。

 

 吉本は『対幻想』で、この問題に触れている。

α:上野の説は、ルイセンコ学説みたいなもので、環境による過剰負荷論である。

β:親の会の人は、器質性障害論

γ:「入胎児期」の問題が歴然とあるんじゃないか 三木成夫の影響

と3つの理解の仕方があるとして、γを推すようだ。それに金原氏は批判的だ。

金原氏は親の会の感覚を自明としている。彼は自閉症者と長年支援員として関わっていると書かれており、そこからの判断は当然尊重に値する。ただ吉本の言説をときほぐし批判することはここではされていない。

 

(2)

 さて、松下昇『恋崖』座談会事件(一般的に関係者間では4・11問題)に話が移る。関係者とは恋崖同人とその周辺ということだろうか?おそらく私と20年以上?の世代差のある金原氏がどのような関係性からこの問題を見ておられるのか、興味がある。

なお私は、松下昇の言行すべてに興味がある。しかし『恋崖』座談会事件については、同時代にそういう問題があったことは知っているが身近で論じあったことはない。(あえて近づかなかったのだろう。)

 

松下昇という巨大な思想家が、まったく隠れてしまっており、それを引き出すべき私がそれを果たせていないといった自己認識を、私は持っている。私が金原さんの文章を読んでいる動機は、その一端を金原氏が果たしたそのやり方を、私の立場から見極めたいということだ。

 

・「松下は(共産主義)を本気で志向した。その既存の社会的諸関係とは違うオルタナな諸関係を本気で構築しようとはしたものの、それは既存の諸関係よりも悪いものを齎しはしなかったか。」まあこれは一時期の北川からの批判の口真似でしかない。

 

「資本制の外部に生きるといっても実際には贈与経済に頼らざるを得ない。」これは何も言ってないに等しい文だろう。資本制といっても子どもや弱者、生活保護者などは贈与経済によって生きているわけである。とすればこの文章は、松下のごとき男性エリートはきちんと自分で稼ぐべきだ、という日本の通俗倫理を語っているだけだ、ということになる。

 

『恋崖』とは、自立派系の同人雑誌である(同人は、垣口朋久、岸本晴広、木村建一朗、高本茂、森口正博、森重春幸ら。創刊号は1980年5月。問題企画は第二号のためだったようだ)あまりきちんと読んだことがない。すいません。

 

 ここらの経緯を記した資料:

a 高本茂『松下昇とキェルケゴール』(2010年)がある。私も持っている。

b 村尾建吉『「松下昇と芹沢俊介」の〈誤読〉のテーマが垣間見せた思想~表現的不能性 ―なぜ「4・11問題」は一幕上演で打ち切られたのか―』

c 「BIDS」2号 最初の座談会から13年後に、同人が再度芹沢を呼んで座談会している。

d  あと、この座談会のテープ起こしした文章のコピーがある

 

 未宇さん についての一言の言及もないまま、突然、「M:ただあの時の子供の亡くなりかたっていうのは母胎に対する影響だったと…」という文章が出てくる。これは未宇さんと松下に対して失礼な態度ではないか?野原に対しきみたちは未宇さんを聖化しているという批判がおそらくでてくると思うが、この部分を読んだ時はそう思った。

幼児であれなんであれ一人の個人である。それに敬意を払わずに、古雑誌を積んだその積み方の手付きについてだけ語るのはいかがなものか。

 

(3)座談会について

 仮に頁数を付けると全体8頁、その4頁下の段から、その座談会の引用が始まる。

 

「M:ただあの時の子供の亡くなり方」という言葉が唐突にでてくる。

松下昇は、上がまやという女性、下が未宇という男性の子どもがいた。未宇さんは1975年4月に病気でなくなった。「言葉を発しないまま六歳で死んだ〈障害者〉松下未宇」 と松下昇は書いている。(http://kusabi1969.ever.jp/gainen/g09.pdf#page=54)

 松下未宇がなぜ言及されるのか、その名前を松下が特別の存在であるかのように、秘教的に、扱ったからだと言えるだろう。(私が秘教的という言葉を使うことに対し批判される方もいるだろうが)

 

「M:ただあの時の子供の亡くなり方っていうのは母胎に対する影響だったと…」と突然引用される。

この金原さんの文章前半で、自閉症については「入胎児期」の問題が歴然とあるんじゃないか、と吉本が語ったと言われている。が、「M」氏はその(誕生から6年も経ってからの)「亡くなり方」について「母胎に対する影響だったと…」と言っていて、乱暴さが過剰になっていまっている。

「K:だからそれは母胎に影響があって生まれたときから言葉を発しなかったわけです。」

まあそういう意見もあってよいかもしれないが、ある具体的な子供について「影響」を確定的に言い切ってしまうのは、問題がある。現在では許されないとされるだろう。

 

「つまり闘争に踏み込むっていうことは、母胎に影響があるっていうところまでは、おそらくわかっていただろうし」松下の思想・行動が母胎に影響がある、この影響関係は自明だとSは語る。しかしそれは疑問だ。今年話題になった斎藤兵庫県知事を告発した渡瀬氏、あるいは数年前に話題になった公文書改ざんを強要された赤木俊夫氏はいずれも自殺した。彼らに仮に妊娠している妻がいれば母胎に影響があった可能性は十分ある(すくなくともSはそう考えるはず)。それを考え、闘争に踏み込むことを控えるべきだ、とするのは、日本的敗北主義の類にしかならない。「遂に松下昇っていうのは全然無知だった」とはならないだろう。

 

 で問題は「思想の問題として松下さん、どこか空白があったんじゃないのか」というSの問いだろう。

で「学校を拒否する子供の内的メカニズムってのは、僕はやっぱりかなり悲惨だ」とSは感じたのだそうだ。小学校入学式に体調悪化で死亡した現象を、「学校を拒否する松下昇の思想」が未宇に体現されているからだ、と理解している。これは前述の母胎への影響論とはまた違った、むちゃくちゃな議論だ。松下は教育体制全体に対し強い批判的思想をもっていたが、この時未宇さんの小学校入学に否定的思想を持っていたという情報はないし、持っていなかったと考えるべきだ。(まやさんの小学校などへの通学にべつに否定的ではなかったことから考えて。)

 

「そこんところ、どうしてもずっとひっかかっているんですよ。(略)だから、松下さんをうまく読めないところなんですよね。」

未宇さん死去の1976年の以前も以後も、松下昇の思想・言動について大きな違和感をSは感じ続けていた。ただ、Sはそれを批評的文章にまとめることができず、いらだちがふくらみ、いわば八つ当たり的に、未宇の死への2つの乱暴な短評を発してしまった、ということだろうと思う。

 

 松下さんの思想が学校(ブルジョワ資本主義の制度)を拒否した。それは恣意性をとことん認めていく思想とはかなり違う。そう理解することはできる。

しかし、大学〜学校制度というものがありそれを拒否したと語ることに松下は拒否感を持つだろう。大学闘争は多くの巨大なテーマ群を提起した。それを展開するためには眼前の社会総体を占拠し、かつはみ出しいかざるをえない。例えばそのように松下は語るだろう。

https://666999.info/from1969/keyword/%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e9%97%98%e4%ba%89 自己とその恣意性の尊重に積極的意味を見出そうとする思想とは反対といってよいかもしれない。しかし、吉本や芹沢は、対幻想〜生活の原基といったもの以外の余計な思想、あるいは気の利いた啓蒙思想や社民思想を拒否することが、革命に通じるみたいな思いがあったようなので、話がややこしくなったのだろう。

 

 Mは二つのことを語っている。

☆高橋秀明が松下と一緒に未宇さんの墓に行った時、「未宇」のために書いているのだと言った。

未宇というのが秘教的語彙になっていると、Mは言いたいのだろう。

別稿には、「{未宇}の存在しない世界に存在を強いられていることが{私}たちすべての}実刑{ ”」という常識人には理解し難い「未宇」理解が松下にあったことを書いた。

 

☆「松下さんの場合だったら、出会った相手に必ず、お前俺と心中するかといった形で喰いいってきちゃう。」

 たぶん、このM、K、高本という人たちは関係とその終わりをそういうふうに感じたのだろう。松下から提起があり、それに応えることも拒否することもできないダブルバインドを仕掛けられたみたいな。しかし、村尾と松下の関係も不幸なものだったろうが、こんなふうに簡単に終わったわけではない。私と同世代の北海道の根本さんの場合も。

 

 芹沢の非公開発言が何年も後からも繰り返し想起されるのは、次のような経過をたどって文書化されたからだ

より深く対象化するため、この対談をテープ起こし、5部コピーした。外部には回覧しないと決めて。しかし、ある人物がそれを松下に渡してしまった。これが「座談会問題」の発端である。

 

 これを読んだ松下は、芹沢発言のニュアンスや根拠についての質問を芹沢氏に届けろと、その同人に言ってきた。しかし「その文書は非公開のものであり、芹沢氏のあずかり知らぬものなので、芹沢氏の元へ届けることを断った。」

 

 まあ政治家などでオフレコ発言が公開されることの是非、といったことはよく問題になる。芹沢は公人ではなく、私的な放言に過ぎなかったということなのか。そうなら、問題として何年も追求するのは、芹沢に関して過酷じゃないか、ということになる。しかし、恋崖同人は「一層対象化するため、この対談をテープ起こし、5部コピーした」わけだ。そこに、討論の素材とすべきだけの思想的価値があると判断したわけだ。であれば当事者である松下の討論参加希望を拒否するのはオカシイということになるのではないか。

「すでにそれは公的なものであり、責任を取るべきだ」というのが村尾の主張らしい。議論というものは公開的に行われるべきだ(例えば、障害者についての議論する時は必ず当事者である障害者をその議論に参加させるべきだ)というのが松下の中心的思想の一つである以上、そういった反応が起こるのは当然である。(ある人物とは私がよく知っていた山本聖氏であるようだ。)

 

「その後、このテープ起こしの原稿は松下氏によって〈自主ゼミ〉の資料となった。」

〈自主ゼミ〉は、すべてのものを資料〜討論の素材とすることによって、世界変革していくみたいな運動体だ(と書いておく)。つまり、著作権、既成文壇的秩序感覚を積極的に冒していこうとする方向性を持っていた。

 

ここで、時の楔通信4号の「評論家による処刑」(1981)が参照されている。

参考:http://kusabi1969.ever.jp/tokino2/t4.pdf#page=16

 

・同人誌「恋崖」と松下の関係。

「この同人たちは、その一人が山賊版「5月3日の会通信」を合冊製本〜回覧していることから判るように、大学闘争とくに松下の行動や表現に深い関心をもっていた。」

・「かれらなりに、大学闘争や松下を現情況の中で、ある確定した座標系におさめたいという願望をいだいた。」

 

松下は紳士的で上品な方である(収入がほとんどなかったにも関わらず)。しかし彼と深く付き合うには困難がある。彼の思想・言表は極めて独自のもので(異世界の住人のよう、と言っておいてもよい)、その磁場にとらわれその言語の口真似をするしかコミュニケーションできない、と感じられる。このように語ってしまうと、松下を完全に他者化した言い方になる。それは私の本意ではないのだが、外側から描写するならそういうことになる。M氏は「お前俺と心中するかといった形で」云々と言っていた。

そこで〈異世界〉ではないこちらの世界の思想家吉本や芹沢となんとか統合したい、という願望はほとんど必須のものになる。

 

 芹沢は前記のとおり「生んだのは思想的無知」などの発言をした。

松下は 「芹沢にみられる表現の根拠への無責任さ、安易さ、情況や存在への無知という以上のある残酷さは記憶されてよい」と記している。

 

「とかく芹沢は、自ら検察官の論告や裁判官の判決以上の水準で大学闘争の未宇的生命を〈処刑〉していることに気付かないのか?」とも言う。六歳で死んでしまったわが子への思い(言葉は悪いが)それを利用して、松下は、“{未宇}の存在しない世界に存在を強いられていることが{私}たちすべての}実刑{ ”という歌を作り上げた。(別稿参照)

この現実にかさなる彼だけの〈異世界〉を言葉の力で作り上げたのだ。その異世界転生の鍵になるのが、未宇である。

(大学闘争の未宇的生命とは、大学闘争には未来に向かって変容し生成していく力を持つといったほどの意味であろう)。未宇の死は悲劇であることは否定できない。であるのに、松下昇の表現への違和感を原動力に、悲劇が在ったからにはその原因たる罪があるはずだといった論理で、と松下の思想の罪を言いつのるのは、論理性から逸脱したインネンのたぐいである。

 

「彼のお子さん、およびその名前はあるシンボルを担い、秘教的輝きを松下のなかで帯びている」と金原は語る。わたしの〈未宇〉論はまあこのフレーズを深く展開しようとしたものだとも言える。

 

「一九七三年の冒頭にかいた〈何ものかへのあいさつ〉の直後に生まれた私の子供が、胎内にいる時の母体に強い精神的=情況的影響をうけたことを大きな理由として、出生後も発育がおくれ、一つの言葉も口にしません。」

一九七三年ではなく1970年2月2日である未宇さんの誕生は。

参照:〈何ものかへのあいさつ〉:http://666999.info/matu/data/jokyo.html#aisatu

 

 ところで、金原のこの一万字を超える文章の最後は、いささか予想外のものである。

松下と芹沢は、完全に共通したところがある、と彼は指摘する。「母が精神的な強いストレスがあることが、自閉症児を生んだことに直接影響がある」説を疑っていないことにおいて。そしてその説を迷信論議だと結論する。

 

 母胎への強いストレス原因説を援護するつもりはない。ただ、松下は、別稿に書いた、1969年2月2日〈情況への発言〉、1970年1月3日〈何ものかへのあいさつ〉この二つの文章によって彼は大学人から別の人生に踏み出した。「この実現の第一歩が、大衆的に確認されるまで、〈私〉は旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄する。」と書いて。彼は〈労働放棄しても生きられる異世界〉に踏み入ろうとする。丁度その時(2/2)に未宇さんが死ぬ。松下はサバイバーズギルトを感じ、{未宇}の存在しない世界に存在を強いられていることが{私}の}実刑{ ”という}歌を、常に感じながら生きた。そしてたまたま大学から追放されたという(たかだか政治的な追放に過ぎなかったかもしれないものを)〈異世界〉への追放と思想的に深化し、松下昇個人ではなくすべての人と共有できるビジョンに深めようとした。

 母胎への強いストレス原因説を取ったのは、上記の二つの文書と未宇の死の深いつながりを記述するのに適した説だったからに過ぎない。

 

 未宇(あるいはμ、みう)という言葉は秘教的輝きを松下のなかで帯びている、それは確かなことだ。それはまったく思想の用語ではないのに、決定的に重要だ。しかしそれがどういうことなのか、いままで私は論じることができなかった。未宇が〈異世界〉との蝶番なら、他ならぬ私がその蝶番のどの場所に存在するのかという問いに答えることができなかったからだ。金原氏の文章によって、私はすこし外側に立ち、この問題を解読しようとすることができた。金原氏に感謝したい。

 わたしが乱暴にも(あるいは異世界転生ブームにのって軽薄にも)〈異世界〉とよんだその松下の言表世界は決して無意味でも過酷なばかりでも不条理でもなく、こちらの世界に生きる人にも役立つことがある、意味があるということを、次は書きたい。

 松下未宇について、は別稿とし この後に添付する。

2024.11.26

 

 

松下未宇さんについて

あるきっかけがあったので松下未宇さんについての、松下昇の言及を調べてみた
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比較的扱いやすい文章表現については、詳細な索引付きで彼自身が整理した。その一部は「mokuji」として

https://666999.info/matu/mokuji.php

 から辿れるようになっている。

芹沢、恋崖、未宇、μ については、このページにはない。

別のページ 

http://kusabi1969.ever.jp/gainen/sakuin.pdf#page=20

によると、芹沢については、G別1・12
垣口、森重については記載がない。
松下未宇については、G3-23,G4-10,G9-14右,33,G12-21,(G別1-2) と6箇所も参照せよとされている。そこで、迂回をたどることになるが松下未宇についての6箇所を順に検討して行こう。

☆ G3-23,死を前にして、はテキスト版もある。

https://666999.info/matu/data0/gainen55.php

1976.4.10に六甲カトリック教会で行われた葬儀の様子が書かれている。
六才の末宇(未宇)と字が間違っている、私の責任。
(みう未宇の名前が間違ったまま訂正できない。)


1976.4.10に六甲カトリック教会で行われた葬儀の様子が書かれている。
「六才の未宇が、永遠に巡礼してしまうとは…。」と書き、死という言葉は使わない。

「私は果てし無い虚脱状態の中で、末宇、よくがんばったな、それにしても、タバコを吸いたい、トイレはどこかな、などと考えてもいた。」ところが彼の思念はタバコを吸いたい、といったあらぬ方向へそれていく。

「人間は、他のだれにも通じない苦痛や自失の中でさえ、それと一見して矛盾する感覚を潜りうる存在であり、その位置や意味を、たとえ人倫に反すると批評されようとも表現していくのが〈文学〉(せまい既成のジャンルを越えたものを、ひとまずこのように措定しておく。)の本質であろう。」そしてそれに哲学的考察を加える。

そして、大江健三郎の「息子が生きていく時に迷わないように、この世界のなにもかもについて、息子が理解しうる言葉で定義しておくこと構想」に言及する。
先に見た、

http://kusabi1969.ever.jp/gainen/sakuin.pdf

、のような試み(索引)は、後世のものに対して「生きていく時に迷わないように、この世界のなにもかもについて、独自の言葉で定義して」おこうとする試みだったと理解して良い。

現実が憲法の規定に反していると大江は考える。大江の全政治思想や行動様式を護憲派と見て、松下は転倒を必要とすると考える。しかし混ぜっ返すことになるが、核兵器というあってはならないものを否定する意志こそが日本国憲法の核心だと大江が読み込んでいたのだとすれば、松下と大江の距離はそれほどなかったかもしれない。

【論争】大江健三郎vsクロード・シモン というと、youtubeがでてきた。ソ連に対抗するためのフランスの核兵器の存在をシモンが肯定するのに、大江が抗議するという話のようだ。

https://www.youtube.com/watch?v=d2J0yWwZXQY

参考 https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/7617


大江にとって核兵器とは戦争しかしないところの近代文明の核心であり絶対あってはならないものだった。一方シモンはヨーロッパ人として実際に今回のウクライナのようなことは起こりうるので、それに対抗する必要はあるのだという実感を持っていた。

現実の日本政治のなかで大江は護憲を社共・リベサヨの援護とほぼ重ね合わせていたので、松下からの批判は当然だということになるが。

核兵器がその核心に存在する国際政治は、とうていありえないものであった、大江にとっては。それと同じように、自分を懲戒免職した日本社会の総体は、松下にとってとうていありえないものであった。したがって、「この世界のなにもかもについて再定義する〈辞書〉を、息子未宇に対して残す必要があると松下は考えた。未宇は死んでしまったが、〈辞書〉は概念集という形で残された、と理解してもよい。

さて、次、
☆ G4-10 夢屑 である。

http://kusabi1969.ever.jp/gainen/g04.pdf#page=12


夢屑というのは、島尾敏雄の短編集の題である。
ここでは「(19)70年3月末に、生後二ヶ月たらずの未宇が呼吸困難に陥ったので、救急車で病院に運んだことがある。医師や看護婦は、応急措置の後で、舌を少し引き抜くか切る手術をしないと今後も窒息死の危険があると私に告げたが、視力がまだ殆どないままに私を見る未宇の〈無言〉に押し出されるようにして拒否した。医師たちはでは責任はもてない、というようなことをいってから(後略)」
ということがあったと書いている。
未宇さんが70年1月全共闘運動の崩壊が始まった時期に生まれたことが分かる。でその日は丁度、赤軍の日航機ハイジャックがTVで実況中継されていた時であり、医師たちもそれに気を取られていたに違いないと松下は考えている。(今後確認するが)、芹沢は母子が緊迫した状況の圧迫を受けると障害児が生まれたりその影響がひどくなる可能性があると考えているみたいだが、それはいわば神の計らいを俗人の感覚で推し量っているだけで別に確かな推論ではない、まあ松下がそう思っていたとは言えるのではないか。日航機ハイジャックは未宇の健康の維持に(松下のストーリーによれば)プラスの影響を与えたのだし。神の計らいといった言葉は松下は使わないが。

☆ G9-14右, なぜ裁判にかかわるか

http://kusabi1969.ever.jp/gainen/g09.pdf#page=25


これは「なぜ裁判にかかわるか」というテーマなので、未宇くんがなぜ出てくるのかな。
右は、参考資料を掲載するページである。時の楔通信〈0〉号からの引用として、
「もうひとつ、深いつぶやきとして…いつも胸の底で鳴っているのは“{未宇}区に存在しないことが、{私}たち相互の}実刑{、{未宇}の存在しない世界に存在を強いられていることが{私}たちすべての}実刑{ ”という}歌{である。」という、奇妙な記号に満ちた秘教的文がある。
先に確認したように、76年4月に未宇さんはなくなった。しかしそれを、松下は異世界への巡礼と捉えた。ここまではよくある比喩である。そこからさらに「{未宇}の存在しない世界」自体が倒錯した世界でありその世界に存在を強いられていること自体が苦痛だ」とこの世界自体を松下がその特殊言語において転倒してしまう。その世界の転倒を表示するために、そこにおける存在は逆カッコ“}{ ”で表示される。これはまことに読みにくいので表現形式としては失敗だろう{未宇}{私}{あなた}は転倒の前と後の世界の蝶番の場所にいる感じだろう。転倒後の世界のモデルは合法的世界がその反転として作り上げた監獄である。
・処分や処刑によっては、本件を出現させた全ての問題は解決しない。逆に我々の試みに法〜国家は共闘していくことになる。そのような運動の深化と広がりによって、体制は実践的に破壊される。まあそういうことを言っている。文体が難解で過剰包装の気味がある。それはすべての感覚や判断は秩序化の側にすでにいつも歪められているのでそれをなんとか戻す作業がまず必要なのだ、ということだろう。それが、秩序側からは過剰包装に感じられる。

ここでは{未宇}は、世界の全ての転倒を告げるモード記号のようなものになっている。

☆ G9-33 断筆宣言を断念して断固かき続けよ!

http://kusabi1969.ever.jp/gainen/g09.pdf#page=54


ここでは、K氏も言及された?、てんかん協会から筒井康隆への糾弾についての評価が取り上げられている。
清水良典の時評は「どんな過酷な検定でも、今回のてんかん協会の抗議のように、問題の一文が所属する元の著作そのものの回収や書き直し」はさせない、とする。
松下は、「本来、差別とは健常者が糾弾の時に思い込んでいるように議論の余地のない概念などではなく、議論を開始していくための不確定な概念である。その概念で支持されている存在、とりわけ知的・精神的に障害があるとみなされている存在は、自分が差別されているという意識が殆どなく、まして言葉で表明することはない。この状態をいわば代理して健常者が他の人に糾弾の場などで使用する時の自分の中の微かな頽廃についての感受がない場合には、その主張が限りなく主張の本質と逆倒していく」ことがあるのではないか、と松下は書く。マイノリティの極限、サバルタンの表現について私たちはいくつもの逆説に出会うことができるということを、わたしたちはスピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(1988)以後知ることができた。スパヴァクは、その声を代弁できず拝聴することもできないサバルタンと、いかに倫理的な関係を取り結ぶことができるかを探求した。そういった問題に、松下は時代に先駆けてコミットしていた。「言葉を発しないまま六歳で死んだ〈障害者〉松下未宇と共に生きていた私は感受してきた」と書かれている。転倒した世界(障害者から見た世界)に松下は未宇の名とともに入っていくのであるが、ここでは秘教的異空間は設定されず、普通に差別が考察されている。

・・ 「どうして「筆を折る」ことが、そんなに気になるのか?私はそう思う人たちの価値観が流通する文筆の場を無視しているだけであり、彼らの質と量をはるかに突破する方向で〈筆〉をふるい続けていることを、知る人は知っている。」とまた、松下は書いている。(同頁)

これは私からKさんにも聞きたいことである。なぜ、松下の名が、既成文壇(あるいは同人誌かいわい)と触れ合った一点である、4・11問題(『恋崖』座談会事件)について語ろうとするのか?
私の http://666999.info/matu/mokuji.php

 はすでに15年以上前から公開しており、K氏はたぶんご存知であろう。なぜ松下のテキストをじかに取り上げずに、ある座談会を取り上げるのか、既成文壇というほどの権威ある座談会でもないのに。この辺の秩序感覚はよくわからない点である。

 

☆ G12-21 公園・オープンスペース (概念集10との関連で)

http://kusabi1969.ever.jp/gainen/g12.pdf#page=32


ここには「〈私道〉に属するが、この単行本発行後に私と一緒にこの場面を読んだ松下未宇は、その直後に6歳で急死した。それ以降、私はこの劇画の主人公以上の闘いへと踏み込んだと思っている。ただし、それは決して悲壮なものとは限らず、もっと〜なものであるが…。」
これは小池一雄の『子連れ狼 27』の河川敷の掘っ立て小屋のマンガ画面の断片が掲載されそれに対するものだ。
「私道は 遠くさり  父子は再び 冥府魔道の 士道に立った」というセリフがある。私道とは庶民の日常生活、冥府魔道の士道とは刀を振り回してばかり居る劇画の主人公のことであろう。子連れ狼は類似の劇画と違い、小さい子を連れて冥府魔道の生活を送るのだ。松下の、裁判闘争など(この劇画の主人公以上の闘い)には、常に{未宇}が随伴していたと松下は感じていた。第三者にはみえないところの{未宇}が。

 

☆ (G別1-2)  死者の数

http://kusabi1969.ever.jp/gainen/oumu.pdf#page=3


ここには、未宇の名前はない。
「2月2日という私にとって特別な日に」というフレーズがあるだけだ。
1969年2月2日、松下は「情況への発言」という文章を〈六甲空間〉(神戸大学)の掲示板に張り出した。
「〈神戸大学教養部〉の全ての構成員諸君! このストを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。
 少なくとも、この実現の第一歩が、大衆的に確認されるまで、〈私〉は旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄する。」と書いて、彼が労働放棄しても生きられる異世界に踏み入った日である。
そしてまた、下記頁によれば、松下未宇が生誕したのは、70年2月2日である。
(そして不思議なことに、89年年末になくなった菅谷規矩雄の葬儀は90年2月2日に行われた。)

http://kusabi1969.ever.jp/sugaya/s1.pdf#page=3


そして、谷川 雁は(1923年12月25日 - 1995年2月2日)とウィキペディアにそうある通り、〈六甲大地震〉の直後の2月2日に肺炎で死去した。「極めて適切な時期に(六甲大地震の)死者たちの次の世界への出立に同行してくれたと、ひそかに感謝している。」と松下は書く。
松下はすでに異世界に住んでおり、生の世界と死の世界のあいだにはときおり風が吹き抜ける、そのような感覚でもあっただろうか。
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松下昇『概念集』の一部への感想 5

66 余事記載

http://666999.info/matu/data0/gainen66.php

 

裁判所に提出した文書の中で、裁判所が考える現実の構成にとって不要である要素は、裁判所にとってどうでもよいできごとであり、審理の対象になることはない。当事者の発言の一部が審理の対象にならないのは裁判所にとって(そして同じ法的常識を共有する弁護士にとって)当然のことなのだ。

「私の提出した文書にある「~を含む仮装被告団」の表現を余事記載であるとして私に削除を要求したので拒否すると、裁判官が決定で削除したこともある。」「~を含む仮装被告団」というものが松下以外のひとり以上の特定の個人を含むものであり、その名前による文書であるなら、裁判官が勝手に削除するのは正当ではないように思われる。それとも、特定の個人(匿名であっても)が存在しないと思われたから削除されたのか、ここの文章だけではなんともいえない。

ものごとを議論する時に、権力やマスコミなどが設定した論点、キーワードに導かれた形で議論してしまうことが多い。あるいは反論するときは、護憲派的とか日共的とかのステロタイプな言説パターンをなぞるような形になってしまう。
民事裁判というのは損害賠償なりなんなり、非常に限定された獲得目標を得るためのほぼ決まった形の上で言説を交換するゲームになっている。しかし松下はそうした枠組みのなかでも、勝手に「審理や会議や発想~存在様式の変換を試みる」といった問題意識を持って主張していうことができるという方法を編み出した。当事者(提起主体)には時間や方法を選ぶある程度の自由があるのだ。獲得目標という常識的な発想にとらわれていると、そうした自由を行使せずに終わるのだが。
闘いは、存在のあり方が情況によって極限的にまで歪められた時に、悲鳴として起こされることが多い。そのような場合には、情況の歪みといったものを裁判の場になんとかして表現していこうとすることは不当ではないし、むしろやっていくべきことなのだ。

 

67 プロテスト

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「自分たちがやってきたことはプロテスト以外のなにものでもなかった。現在では、この概念は新鮮な響きを失い、かってプロテストした者たちは、要領の悪いハネ上がりとしてしか見られていないが、」
このパンフが出されたのは1991年、冷戦終結の時期だ。

かっての抵抗運動は何らかの革命を期待するものであっただろうが、そのような未来が失われるならばそれは「要領の悪いハネ上がり」と切り捨てられてしまう。
2019年-2020年香港民主化のプロテストに続き、去年2月からのミャンマーでのプロテストも終わっていくかもしれない。

「というのは、私は自分のやってきていることがプロテストであるとは一度も考えていなかったからである。むしろ、私は迫ってくる問題群を楽しく再構成する素材として歓迎してきたし、敵対するように見える関係や人々があっても、それらの関係や人々が私の扱いに堪りかねて、
もうやめてくれとプロテスト!するほどに、〈作品〉の対等の登場人物ないし作者として対処してきている。」
それに対し、松下昇は孤立しても楽しげに闘い続けることを止めなかった。それは「迫ってくる問題群を再構成する素材として作品化〜表現していく」という活動自体が闘いであったからだ。

 

188 真実と虚偽の関係  (仮装の本質について)


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「aー 被抑圧存在が抑圧してくる関係を転倒していく過程で事実と異なる発言をしても、過渡的に〈正しい〉。
bー 任意の主体が、時間・空間概念を含めて私たちの存在様式を規定してくる闇の力を対象化し転倒していく過程
で事実と異なる発言をしても過渡的に〈正しい〉。
cーーa、bいずれの場合にも、過渡性を明確に報告し検証をうける未実現の場をめざす責任があり、そのことをa、bに関わる場へ公表していく度合だけ〈正しい〉。」
これは現在国家も社会も認めていない〈正義〉を基準に行動していくという宣言である。
ただし、その〈正しさ〉を関係者すべてで検証すべき場を実現していくのだ、というその実現性の度合いだけ正しい、とされる。

例えば森友事件などの情報公開請求で、真っ黒に塗られた紙が当局からの正規の解答として返って来る時、それを「闇の力」と見るのはむしろ普通だろう。マスコミや裁判所の解答としての「正義」が正義と言えないとき、別の正義が探求されざるをえない。

松下昇『概念集』の一部への感想 4

51 話と生活

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全共闘期、神戸大学で学生と共闘しつつ独自の闘いを持続しつつあった松下昇に対しては、懲戒免職が進行しつつあった。
一方で、責任者である二人の大学評議員からこんな話もあった。

「二人は、神戸大学の同窓会、特に財界グループが私に何年でも、世界のどこへでも留学させるといっているが応じる気はないか、と尋ねたので、」何年でも留学させるとは一般的には嬉しい話である。松下は自分の闘いのスタイルを確立しそれを持続していくことに自信を持っていたので、拒否した。

当局は時に、闘争の中心人物に対してこのような形で誘いを掛け、騒動(闘争)を沈静化させようとする。例えば、韓国の小説家・民主活動家黄晳暎は1985年から本来できないはずの外遊をするが、それもこのような意図からだっただろう。

「〈話〉とか〈生活〉に関して、このようなやりとりが起こりえた場所から、はるかに遠くまできている意味や、逆に、何一つ変わっていないかも知れない意味について考えてみたいからである。」
この文章を書いた1990年には松下は国内でも完全に孤立しており、可視的影響力はほとんどなくなっていた。

その意味で、はるかに遠くまできたのだ。一方、「何一つ変わっていない」とは自らの思想と行動に自負を持ちつつ「闘争」してこれたことの基盤の一部には特権的インテリとしての自己の存在様式があったことを暗示している。

55 死を前にして

666999.info彼の長男は小学校の入学式の日に原因不明の急死をした、その葬儀。
「会場がすぐには見つけられないためもあって、微かなためらいも潜在していたのだが、ともかく葬儀は、六甲カトリック教会でおこなうことになり、桜の花びらが流れる晴れた

一九七六年四月十日に、私は会場へ行き、一番前のベンチに座っていた。ミサが進行していくけれども、まるで自分には無関係な場面のようだ。六才の末宇が、永遠に巡礼してしまうとは…。私の後姿を見ていた友人の一人は、後で私の背中が会場のだれよりも大きく、六甲山系から突出する巨岩のように見えた、と批評してくれたが(後略)」

「私は果てし無い虚脱状態の中で、末宇、よくがんばったな、それにしても、タバコを吸いたい、トイレはどこかな、などと考えてもいた。」6歳の我が子を亡くした嘆きの中に突然「トイレはどこかななどと」という思念が入ってくるのは滑稽ではある。しかし松下はその滑稽さに注目してしまう。
「人間は、他のだれにも通じない苦痛や自失の中でさえ、それと一見して矛盾する感覚を潜りうる存在であり、その位置や意味を、たとえ人倫に反すると批評されようとも表現していく」べきだというのだ。

 

65 当事者

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当事者とは、裁判における訴訟行為をなしうる資格を認定された者をさす。原告と被告と法的参加人のこと。
「裁判記録の閲覧や謄写も、当事者ならば認められる。」

ある裁判で「占拠~明渡し強制執行時に留置された物品(概念集3〈空間や留置品と共に成長する深淵〉参照)に関する事件の全当事者(原告、被告、参加人)が不出頭し、裁判が休止状態になる〈事件〉が発生した。」

真実を明らかにするという祈りにおいて、真実を明らかにするために裁判は行われる場合が多い。しかし、「国」が原告あるいは被告の場合、国の主張の否定が認められる可能性は低い。その場合、国以外のAとBが裁判の場で争うという形を取ることで真実を明らかにすることができないか。
これはそうした問題意識で始められた裁判だっただろうか。

国の主張を否定する為に、国を相手に裁判をし続けるのはかなり大変なことであり、批判的意見・意志を大衆的に広める効果もある。しかし松下はそれだけでは足りない場合もあると発想した。

「各参加者の全生活~活動における当事者性や発想の様式を疑いなおすべきではないか、という」問題意識。「自らは反体制的と思い込みつつ慢性的に生活~活動している人々の中には六九年以来の成果を台無しにしながらも何か正しい意味のあることをしているという倒錯」に浸りきっている場合もあるのではないかと。

ところで、ある批判に対して、「よく判らないとか、判るように説明せよとのべて居直る者たち」が、最近のように(ツイッターでは毎日のように)発生する異常な時代が来るとは、松下は予期していなかったはずだ。何十年も前に、批判しているのは偉い。

 

松下昇『概念集』の一部への感想 3

39 華蓋・花なきバラ

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「六月四日の北京・天安門事件の際に、私は偶然に #魯迅 の「花なきバラ」を読んでいた。一九二六年三月十八日、「民国以来最も暗黒の日」にしるされた文章は、沈痛な怒りにみちているが、私たちを驚かせるのは、「…政府は衛兵をして歩兵銃と大刀とにより、国務院の門前に、外交を援助せんと徒手で請願に出むいた青年男女を包囲して虐殺させ、その数は数百人の多きに達した。しかも政令を下して、彼らを誣(し)いて『暴徒』という!(増田 渉・訳)」という事態が中国革命後に、時間を越えて一周してくることに対してである。」


(上記魯迅の文章は、手元にあった竹内好『魯迅評論集』岩波新書ではp20にある。)
1926年の三・一八事件についてはウィキペディアに記事がある。

北京政府が日本など帝国主義諸国から圧力を拒否しないことに対し、学生たちがデモを行った。武装警察軍はそれを弾圧し、数十名(魯迅は数百名と書く)が虐殺された事件。

「かくのごとき惨虐陰険なる行為」と最大限の言葉で非難した政府を倒して共産党政権が出来て約40年、今度は天安門広場に集まった学生・青年たちを軍隊が蹴散らし、やはり数百人以上の犠牲が出た。
この1989.6.4の天安門事件は30年以上経った現在でも、中国では語ることは許されていない。虐殺された若者の父母の会を支援していた劉暁波は獄中死させられた。中国大陸で唯一天安門事件追悼集会を毎年開催していた香港市民の運動は去年息の根を止められた。
六四天安門事件が30年以上、ここまで絶対的な抑圧下に置かれ続けるとは松下は考えなかっただろう。
1926年のあるひとりの死者のために魯迅は、「劉和珍君を記念する」という文章を書いていることが、ウィキペディアからは分かる。
1989年に死んだある青年に対して、劉暁波は「十七歳へ」という詩を書いているが、日本でも知る人は少ない。(参考:http://666999.info/noharra/2018/04/23/r/)

40 メニュー

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ここでは、「六九年段階の神戸大学の自主講座のプログラムが、どのように具体化されていたか」を記した部分を引用しておきたい。

「(1)教養部正門を入って左手の大教室B109の黒板に、今後一週間の日付と午前・午後・夜の枠のみを記入しておき、任意の参加者が、自分の提起したいテーマを希望する時間帯に記入し、実行する。ジャンルの制限なし。
(2)B109教室は全学的な集会の場として使用するのに効果的な位置にあったので、集会を自主講座のテーマとして提起する者もあり、参加者の討論を経て了承された場合には、自主講座のプログラムに入れる。他の教室や学外での活動についても同様。
(3)一週間を経過した段階で、それまでの活動に関して総括討論を行い、これに参加したものは、学内者・学外者を間わず、次の一週間の自主講座運動の実行委員会のメンバーとなる。
 このような原則に基づいて、七〇年三月の入学試験を理由とする全学ロックアウトまで約一年間にわたって、殆ど連日の自主講座が展開された。」そしてそれ以後も。

 

44 批評と反批評

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「私たちは、この企画に限らず、あるテーマについて討論する場合、関係あるすべての当事者が、その場に可視的に存在していなくても、等距離かつ対等に参加しているという関係を踏まえて討論する。これは、大衆団交(概念集・2の項目参照)の現段階での

具体的実現の困難さの根拠を踏まえつつ、この視点の変換極限から全てのテーマを対象化しようとする方法にもとづいており、想定しうる他のどのような討論の場に比べても自由かつ解放的である。」

例えば、従軍慰安婦について論じる場合、それを論じる常識的な前提から出発することはあまり意味がない。

 

そうではなく、元従軍慰安婦が参加したら何を言うか(その実例はあるので参考にすることはできる)、出来事から70年以上が経過していることの意味、また無学な植民地出身の女性が相手を訴えることができるまでの落差、また慰安婦生活のなかであるいはその直後死んでしまった人の言葉は聞き得ないという問題など多くの困難を乗り越えて、当時の当事者が実際に参加しており、等距離かつ対等に発言しうるとすればとして、その想定された発言を基に議論していくというのは、聞き慣れない方法論かもしれないが意味があると考える。ネトウヨは予め「否認したい」という欲望を隠さずそれを達成するためにエビデンスを出せないだろうという論法で迫ってくるが、彼らの前提と論法の両方を一旦無化した後でないとまともな議論にはならない。

わたしたちは元従軍慰安婦の原像を求めようとする。また従軍慰安婦を抱いた側の兵士の当時の存在性も、呼び起こした上で議論する方がより誠実であろう。論じている私たち自身が「売春」概念、あるいは侵略戦争概念に何らかの意味でとらわれていることを解きほぐしていく作業になるであろう。ただし現在は、平板などっちもどっちに陥ることを最も警戒しなければならない。

従軍慰安婦は当時年少で無学で、異国で孤立していた。被害者の苦悩や沈黙に近づくためには「表現意識の最高度の達成」(文学)が必要である。同時に発語できない存在が躓いている「愚かな」困難をものりこえなければならない。

松下昇『概念集』の一部への感想 2

35 瞬間

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瞬間というのは、ロマン主義に必須である概念だという。歴史や幻想もそうでは、と思うと混乱するが、古典主義が均整と美、理性の勝利であるとすると、その逆を突いて転倒したいという欲望がロマン主義であるとすると理解しやすい。

さて、この文章について。

「他者への対的な感覚の生ずる最初の時間性の切断面(β)や共同の規範が個別の身体を審理~拘束する場合の時間性の方向(γ)」といった例を上げる。一目惚れという言葉がある、つまり普通に通り過ぎていた他人を過剰に意識し始める瞬間があるのだ。極端にいうとその時、空間の性質が少し交わすようにも思える。そのような力を持っている瞬間がある。

この項目は、「一九八六年三月二四日の法廷で松下が「裁判官席に向かって酒パックを投げつけた」とされる瞬間」=スキャンダルを題材にしている。
法廷は「事件の瞬間」を評価しようとする。瞬間に対し、その事前か事後にあったことを記述することができたとしても、瞬間自体を記述することは不可能であるはずだ。

 

37 年周視差

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ある「対象やテーマに関わり、もがいている過程がある場合、どこかに周期をもつかどうか追求してみる。その対象やテーマを媒介する自分の位置~感覚が、最も差異を示す〈最遠〉の二点を繰り返して通過するようであれば、〈周期〉がありうる」

 


地球とある恒星までの距離に比べると地球の公転軌道の直径は非常に短い。だから天文学に特別の興味を持つ人以外そんなことに興味は持たず後者については無視してしまう。しかしこの年周視差の方法がなければ恒星までの距離を測ることはできないのだ。
誰も気づかないような微細な差異を丁寧に取り出す、そしてそれをもとにきちんと計算することにより結論を出す。微細な差異に対して鈍感なわたしたちは、松下の文章は難解だとだけ言ってしまうが、その微細さを扱うことを、まず学んでいかなくてはならない。

ただの停滞や後退に見えるものにおいても、見ようとすれば、周期が存在するだろう。あるテーマと関わりもがく。出口がみえない状態が続くなら「どこかに周期をもつかどうか追求してみる」という発想もヒントをもたらすかもしれない。

 

38 生活手段 (職業)

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アンケートなどでも、住所、氏名の次に職業という項目があることがある。わたしたちの社会は大人ならなんらかの職についているのが当たり前とされる社会であるわけだ。
松下に対する起訴状では、国家公務員、著述業、無職……といくつもの勝手な規定が現れた。

すべてのジャンルや制度の根拠を積極的に疑いにさらす、しかも自分の生き方において、というのが松下の思想だった。そこからは、定職に就くという発想はでてこない。名前や年令や前歴を明らかにすると雇用されない現状を突破するためにも、数人のグループで任意の仕事を引き受けた場合の交換可能な構成員として参加するといった試みがなされた。「全ての職業についている人、とくに〈公務員〉は、この提起に応え、媒介となりうる度合でのみ辛うじて職場に存在する理由をもつ」と松下は言い放った。(しかしそれを実践していくのは非常に困難であり、野原が知る限りあまり実例はない。)私自身については、実は地方公務員という安定し楽な職場に40年以上勤務し続けた。この一節をまったく裏切った生き方をしてしまったということになる。

会社員とかのように自己の主体的能力と社会的地位をポジティブに引き受けるのが当然であるという存在認識。それに対して「被告人や前科者のように法的に強いられた状態および、病人や老人や死者のように存在的に強いられていく状態」に注目することは、歪みに満ちた「自己~世界の構造」をどように把握していくかという問いを追求するなかで、関係の中での役割や立場をも発見していくというプロセスだ、ということになる。組織というものがあるとしても、分担を全構成員の討論によって決定し、短期間で交代する仕組を確立するといった問題意識を持って模索すれば、職業概念の消滅というヴィジョンを描きうるだろう。国家の解体~消滅プランを考えることはそうした模索と同時に行うことになる。

「時代と偶然に強いられた生活様式~状態からの解放の試み自体を生活手段として生きる」とはどういうことだろうか?それは例えば、この概念集といったパンフを作成し、それと金銭と交換するといった生き方である。
松下の思想や活動への賛同や評価をする人が、カンパとしてお金を出すのではなく、「解放の試み自体を生活手段として生きる」ことへの共闘・巻き込まれがそこにあると理解したいというわけだ。

参考:10年前に書いた感想

666999.info

 

 

松下昇『概念集』の一部への感想 1

松下昇の後期主要著作『概念集』全14冊、全210項目はすべてPDF化されており、下記から読むことができます。
http://666999.info/matu/mokuji.php
(畏友、永里氏のサイトに掲載されたもの)
その一部は、私がテキスト化しています。
その一部について、私が引用し短いコメントをつけたものを公開します。

 

82 「裁判提訴への提起」

http://666999.info/matu/data0/gainen82.php

裁判闘争という言葉があるが、闘争というほどかっこいいものではない場合が多い。
職場のパワハラや不利益処分など、職場に労働組合がなければ職場で闘うのはなかなか大変だ。法的に訴えることができる場合は、弁護士に頼めば訴訟はすぐできる。ふつうは、勝てるのか?、弁護士費用以上のものが取れるかどうか?を考えて難しそうなら止めておくことになる。ただし、自分の正当性(相手の不当性)をどうしても広く世間に訴えたい、そのことに正義があると信じる場合は、勝てそうになくても提訴することがある。内藤さんの場合は誰からも勝てそうもないと言われたが、法制度の矛盾を明らかにするべき問題でもあったため、裁判で争うことになった。
典型例としては、「解雇処分を受けた場合(など)に地位確認の仮処分申請や解雇取消の請求を裁判所の民事部へ書面でおこなう」といった方法を取る。

左翼や市民運動家は自己の運動の正義を信じているしまた世間へのアピールという意味もあるので、裁判提訴したがるとも言える。
ただし全共闘ないし新左翼はなやかな時代の闘争参加者は「活動の全領域において裁判所を含む国家権力の介入や、それへの依拠を拒否する」という基本的な姿勢も、一方では持っていた。大学という機構に正義を期待できないなら、裁判所という機構にも正義を期待するのはおかしかろう。
松下昇は、大学を1970年懲戒免職になり、それ以後各種裁判闘争を長く続けた。だから「懲戒処分に対して取消請求の裁判提訴」をしたのだろうと思われているが、実際はしていない。裁判所で法の正しさによって救済してもらうといった方法を取らない、といった考え方だったからだ。

 


では何を獲得しようとしていたのか。多くの闘いは「勝ち目のない闘い」である。どうしても許せないという怒りによって起動されるのが闘いであり、それは予め勝敗を予想できるレベルで発想されていない。おそらくこうなるだろうという予想はいくつかの理由により容易に覆る。その程度のことも考えない賢しらぶりは最悪であろう。世界を平板に想定する人が増えると、この社会は生きづらくなる。別の思考方法が必要であろう。

 

33 「一票対〇票」

http://666999.info/matu/data0/gainen33.php

「一九七〇年十月に大学当局は私を懲戒免職処分したと発表しているが、人間の社会的規定は重層しており、学内に限っても、私の労働組合員や生協組合員の資格は持続しているから、それらの組合員としての活動を仮装して構内立ち入り禁止等を無化していこうとした」という「立候補」行動!

 


存在規定の二重性については、離婚後にある男性が夫としては別れを告げられているが、父親としての関係は未確定であるといったようなことがある。大学当局との関係において懲戒免職の可否をあらそっている場合、組合員資格を当局の言うがままに喪失したとすることはできない(判例がある)。生協組合員の資格といったものについて日本で真剣に考察する人はいないが、労働組合と同様に考えうるだろう。それを梃子に松下は生協の総代選挙というものに立候補した。これは松下に対する構内立ち入り禁止通告に反対するパフォーマンスだった。そしてそれだけでなく、存在規定の多重性についての考察、自分を代表するのは自分しかないという原点からみた選挙や投票の意味の追求であっただろう。

 

34 「参加」

http://666999.info/matu/data0/gainen34.php
民事訴訟法、にはこうある。
第六四条 訴訟の結果に利害関係のある第三者は、訴訟に参加できる。(本来、民事訴訟は自分でおこなうのが原則であり、だれでも利害関係を疎明すれば参加できる。)
第六五条 ③参加の申し出は、文書でなく口頭でもよく、(略)

「第七一条 訴訟の結果ないし目的自体が自分の権利を害すると主張する第三者は、当事者として訴訟に参加できる。(註 -- 第六四条~六八条が、当事者の一方への参加についてのべているのに対して、この条文は当事者の双方への異議ないし異化の作用を示唆する点が重要である。)

「私たちの経験では、法律の専門家は、殆ど前記の条文を知らないか、知っていても決して実際に応用せずに無視~抑圧する。憲法の空洞化に匹敵する、この事態に非専門家としての大衆が気付いていく契機は、情況の危機的空洞の総体を突破する作業への〈参加〉の速度と必ず対応しているはずである。

裁判所は国会、行政庁と並びわたしたちの民主主義の柱だが、後者以上に私たちから疎遠であり、また判決内容や推測される裁判官の人柄もかなり疑問を感じざるを得ない場合が多い。
しかし、判決に影響をあたえられなくとも、素人の感覚で直接裁判所に当事者として登場していくのが松下の方法だった。

「私が本来的にのべたいのは、現実の様々な場面において、意図しようとしまいと参加させられてしまっている関係的な拘束性をとらえかえし破砕していくために、法律の水準を補助線として引いてみることである。」

裁判所においては誰の発語であろうと、それは本来の意味というより裁判過程の一部である法的言語として受け取られる。それは当然ではない。
実は事件をどのような枠組みで理解しうるかは自明ではなく、法律家の思いもよらない方法で法律と現実を読むことはしばしば可能である。