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凱旋門賞メモ 凱旋門賞が出来るまで

凱旋門賞も近いことですし、何かお話でも。この手の話のお約束的展開としては、誰が、いつ、どのような目的で、という話になるわけだが、凱旋門賞設立に当たってその概略を書くと、フランス馬種改良奨励協会(現:フランス・ギャロ)がロンシャン競馬場で、一流の国際競争をという趣旨で構想されたものである。その経緯に関して簡単に触れていきたいかと。

フランス馬種改良奨励協会

協会そのものは、国王ルイ・フィリップ在位中の1833年11月11日に王室の支援を受けつつ、ヘンリー・シーモア卿とニコラ・ジョゼフ・リューセックという2名の人物を中心に設立された。協会は12名のメンバーで構成され、奨励協会設立のアイデアを最初に出したシーモア卿が初代会長に就任した。

あくる年の1834年3月16日、奨励協会は趣意書を公にし、設立の目的を明らかにする。その要旨は次の通りである。

フランスの馬産が衰退しつつある現状に危機感を覚え、ここに署名したものは、馬匹改良の最善の手段を模索し、この麗しの国に新たな富の源泉を創出することに貢献すべく、力を合わせることにした。

この窮状の根本的原因を見つけるのは、難しいことではない。さまざまな問題点を列挙せずとも、ひとつ、だれの目にも明らかで、真剣に考慮すべきものがある。すなわち、フランスではサラブレッド生産に対して援助が与えられてこなかったことである。こうした状態が長く続いたため、この国の馬産は停滞と不毛に陥っている。それだけに、馬産界にあたう限りの援助・支援を行うことは、目下の急務である。フランス自ら必要とする軽種馬を自給し、最終的には、毎年外国人に馬代金を支払わずとも済むようにするには、この国の馬産を発展させる以外に道はない。(この頃、毎年15,000から20,000頭もの乗用馬が輸入され、フランスからは2、3,000頭の輓馬が輸出されていた。)

したがって、署名者は、フランスの地で全力を傾注して純血種の増殖に取り組む。そして、その権限の及ぶ範囲で馬産の発展に貢献するという明確な目的をもって、いまここに、フランス馬種改良奨励協会を設立する。

競馬発祥の地であるイギリスに比べ、当時のフランスの馬産はどうやら劣っていたようである。フランスにありがちな、イギリスに対する偏見や先入観といったものが、イギリスの後を追うという行為に対する、なにがしかの抵抗があったのかもしれない。もっとも、軍用馬としての性格もあっただろうから、そのあたりの背景も抑えておきたい所だけれども、あいにくそこまでの知識はないので深く追求しないことにする。

ロンシャン競馬場

ロンシャン競馬場に関する最初の記述は、1852年、奨励協会の役員会議事録の中に見られる。

理事のひとりが、政府は近々ブローニュの森の管理を放棄し、パリ市の管轄下に置くことにしているので、役員会はセーヌ県知事と接触する機会を与えてはどうかと提案した。ブローニュの森の改造計画に競馬場の建造を含めるよう、知事に陳情するためである。シャン・ド・マルスは土質がきわめて悪いだけに、この案はうってつけだと思われた。

当時のパリは、シャン・ド・マルスでしか競馬が行われておらず、また、ここは軍の演習場も兼ねており、レースを行うと小石や土埃が舞い飛ぶというお世辞にも良好とはいえない馬場であり、その意味で競馬場というには程遠いものであったようだ。
ブローニュの森自体はもともと、国王の領地であったものの、1848年にフランス政府に返還されている。その敷地は700ヘクタールにも及び、周囲は壁で囲まれ、古くからある樹木と相まって、鬱蒼とした雰囲気を醸し出していたとも言われる。
さて当のロンシャンだが、もともとはブローニュの森に隣接していた草原であった。森を改良するにあたり、隣接するこの草原もブローニュの森に加えてしまうという案が出た。この草原に競馬場を造れば、芝地を介してブローニュの森とセーヌ川が結ばれるという景観上の都合、そして奨励協会の目的である、競馬を行うにあたり理想的な広い芝コースを造ること―という条件を満たすために、ここに競馬場を造るという計画が立案され、時の皇帝ナポレオン3世も賛成することになり、計画は実行に移されることになる。

かくして、ロンシャン競馬場は1857年4月27日の日曜日、お披露目のレースが行われることとなった。皇帝と皇后は公務のため臨席することはなかったが、ジェローム王(ナポレオン1世の末弟)はじめ、大蔵大臣や国務院議長などといった面々が列席、さらには大勢の群集が押しかけ、第1競走を予定の30分以上遅らせればならないほど盛況だったという。

凱旋門賞はいかにして生まれたか

1863年に国際競走として創設され、当時距離3000mで施行されていたパリ大賞典は3歳限定戦であり、今日のアイリッシュダービーのような地位にあった。しかし、ロンシャンには馬齢重量による大レースが存在しなかった。そこで、コンセイユ・ミュニシパル賞(現:コンセイユドパリ賞)が創設されたのであるが、減量戦であったため馬主に好評を博したものの、生産にはあまり価値を見出すことが出来ずにいた。

そうしたいきさつから、パリ大賞典に並ぶ新たな馬齢定量による一流の国際競走を秋に設けようと提案されたのが1920年1月のことであった。レースの目的は、フランス馬と外国馬の対戦によって、フランス産馬の質の高さをアピールする。その場として、2400m、賞金15万フランの国際競走であるならば、基準になりえるだろうと考えられたこの競走は、第一次世界大戦におけるフランスの勝利を記念して、エトワール凱旋門からその名を凱旋門賞と命名。もっとも、後にドイツ軍によるパリ占領がされたために、レース名が軍事的栄光にちなんでつけられたことは遠い記憶になってしまったが。

同年10月3日の日曜、第1回の凱旋門賞が施行される。国際色豊かなレースとなるはずだったが、ヨーロッパ中が大戦で疲弊、また鉄道網も復旧途上であり、国外からの挑戦は13頭中2頭。優勝馬はカラムッド(Comrade)であった。



続く…のか?