宇井純=「公害に第三者はいない」=だから何?(渋谷の女子高生)

宇井純は日本の公害問題研究家であったが、去年の11月に死去している。『公害原論』といった著書がある。日本の公害問題とは、近代期において田中正造の運動に始まり、産業化の過程の中で、必須な問題として発生し、昭和では戦後期に特に、水俣病問題をはじめとして出てきた。その間、産業による公害に反対する立場、環境運動というのが、日本でも進行したわけで、宇井純は、日本で最も公害が激しく問題化した時期に活動し、研究をまとめていたものである。

宇井純を偲ぶ会というのが、先月東大安田講堂で行われた模様であるのだが、公害原論として纏められたマニフェストとは、今から振り返るとき、時代の記録として、それをどのように受け取るべきなのかという点について、少々屈折した問題性を内在しているのではないかと思った。偲ぶ会によって、宇井純に対する認識の在り方について、幾つかの論点が出ているのを、ネットやmixiで目にした。宇井純という人物とは、実際にはヤマギシ会にも傾倒していたような事のある人で、環境問題について取り組む姿勢が、ある種極端なものと背中合わせに成立してしまったという、左翼意識そのものに潜む危うさについて、身を以って示している節もある。

●宇井純を学ぶ

「あまり時間がないので講演者の方の持ち時間は10分とさせていただきます。本当ならばお一人、一時間でも語っていただきたいのですが、それでは安田講堂に篭城することになるので――」という冗談の後すぐに講演が始まった。まあ、つまらない。なんだこの講演は…。がっかりした。自主公演の趣旨は〝若い人に宇井純を伝える〟であったはずだ。それなのに、思い出話に花を咲かせているだけというか、それぞれが宇井純を解釈して伝えるべきなのに、そういったしっかりしたものがない。そうでない人もいたのだけれども。どうも全体的に内輪で楽しむ感が強い。沖縄大学学長などは、途中から宇井純から遊離して「沖縄の現実を見てほしい。わずかな国土に過ぎない沖縄にアメリカ軍が常駐している。あの悲惨な戦争を―」などという話題が八割。宇井純はどこにいってしまったのか。いやむしろ宇井純はそういう人だったのか?自主公演からの遊離感が気持ち悪くなって、前半の部で安田講堂を後にした。

宇井純とは何者だったのか? 返って考えさせられてしまう。確かに彼はある政治的な思想と共に研究に励み、水俣病や公害に対して尽力を尽くしてきた。内にこもらない、社会派の研究者として有名なのだろうと思う。けれどその社会派の部分だけを取り出して彼の業績を評価して良いものだろうか? 彼はたんなるシンボルになってやしないだろうか? 歩いて考えるという彼の言葉から想像するに、泥をかぶりながら地道に仕事をしてきたのだと思う。彼が政治家にならず、科学の世界にいたのは、そこに彼なりの正義を実践する場があったからではないのか? ああ、もうなんだかわからない。ただこの自主公演はどうにも気持ちが悪かった。
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このブログで言われている、大学院生の意見は、偲ぶ会の空気に接した者の本音として、意味があると思う。確かに、当時の学生運動の余韻を引き摺るような感のある、かつての左翼の落人再集結的な感のある安田講堂の模様とは、一言で言えば、気持ち悪いのだろう。そしてディスカッションが為されても、現実性がない。そんな意見の応酬でお茶を濁して、回顧的に、救いのなさを結語にしながら終わるものだ。その情景は想像できる。

特にこの時代を取り巻いたある種の空気を象徴するものとは、宇井純による台詞、公害原論の中に出てくる、「公害には第三者はいない」という話である。宇井純のいう、第三者はいないとはどういう話かというと、つまり公害について、社会には加害者か被害者の、どちらかしかないないということになる。そのどちらでもある、というのがすべての人間にいえるという結論になる。つまり、社会に公害が発生してるとき、誰もそこから逃れている、関係のない人間は、一人もいない、という話である。

しかしこれは見事な排中律の論理である。加害者と被害者のどちらかの該当しかなく、多くはその両方を担っている。その中間は認めないという論理になるが、こういったものは論理というよりも、むしろ強制(強迫)である。それは時代の空気の中で、強制力として機能した。またこのような排中律形式の、それ以外には出口を奪うという形の論理構造とは、時代を覆っていた。それは上のブログで若い院生に言われた気持ち悪さであり、窒息感の正体なのだ。

問題xについて「第三者はいない」といったところで、実際には、だから何なの?という話にしかならない。問題の立て方が空虚で抽象的であるが故に、結果的には、そこでは問題そのものが無意味となる。単に「他者」に対して何一つアピールしないどころか (もちろん他者の総体的塊としての世間に対しても)、言い分自体が悪質なものか気色悪いものに見えてくる。公害については第三者はいない、といったところで その公害が一体どういうレベルのものを指すのかというのも理解できず、漠然とした公害一般のことをいうのだとしたら、ナンセンスの文である。一種の奇妙な共同幻想の世界でしか機能しない。

水俣病という対象にすれば、現実には殆どの日本人は第三者で存在している。もしそれが第三者ではないのだとしたら、 一体どういう意味で関係が成立しうるのか?それを言い始めたら、もう無限に、重箱の隅を突く馬鹿らしさで、これこれこういう事情だから、そんなあなたにも、目に見えないけど関係あるんだと、現実には戯言か妄想のようなものを他人に対して押し付けていくことにしかならない。実際、こういった無限責任論をちらつかせて、他人にも自分にも押し付けがましい迫り方をする言説とは、現実的な見地から立ったとき、必ずやその無能ぶりを明らかにする。

水俣病ならば、今では、当の地域に生きる人々と企業と、そして国家の責任処理をする一部の班以外には、具体的レベルでの責任などありようがないものだ。それ以外には、単に歴史認識として、かつて近代国家の進化の過程では、こういう事件も起こりえたのだと云う事を、認識として頭の隅に留めて置くといった話以外にはならない。

これに対して、CO2排出や地球温暖化レベルの公害ならば、まだ啓蒙的な価値、実質的に社会で共有されうる価値はある話だろう。それは普通に、広く地球で生きる人々に、現実的に共有される話だからである。一重に公害といったところで、様々に異なるレベルの公害がある。それらを一緒にして、公害には第三者はいない、という言い方で流布することは意味がないし、実際には流布などされうるはずもない話である。 こういった無限責任論型の言説というのには、わかりやすい特徴がある。

責任とは、実際には有限責任的なものである。この世界のあらゆる悲惨や、あらゆる戦争には、絶対皆が責任あるんだとどんなに言い張ったところで、無意味な情念かオナニズム的垂れ流しにしかならないし、他人もそうとしか捉えない。無限責任型を、今もカルト的に残存してしまう空間から排していき、社会における責任配分の、現実性に根差した認識を絞って提案するべきある。

公害とは、たぶんどんなに意識的に最善を尽した積もりでも、起きるときには不可避的に起きてしまうものである。おそらくそこを意識的な予期として、社会体制に組み入れることができないから、それは公害なのだ。こういった問題は、意識のパラドックスによって起きているのであり、ヘーゲルが言った「理性の狡知」によって起きている次元にあるので、左翼的な情念なり怒号なりが絶対解決はできない、構造的な死角によって起きてくる問題である。

被害者の立場から学ぶというのは、起きた事件から論理的な抽象過程を経て、全体構造から事件の発生する盲点を学ぶということだが、被害者の情念や怨念の中に拘泥するある種のおぞましい有様が、こういった論理性や全体構造を正確に割り出す思考を奪ってしまう。

経済が拡大する前に、問題が発生したとき、それを適宜に取り込みうるシステムとは、水俣事件の頃から比べて、それら公害事件の経験を組み入れて、告発のシステムとしても、自主規制のシステムとしても「監視」できる体制は以前より深化しているのだが、そのような相互チェックがうまく機能する体制とは、それが合理的に組み立てられたときにのみ、ちゃんと機能しうる。つまり情念や怨念によってアピールされた気味の悪い強制力を一回カッコに括った上で、それらが論理的な情報として通じうるときである。

無限に責任を内面化させようとするような発想、情念的な強制力の発想、こういったものは一部から派生した、悪質な、別の意味での精神衛生上の公害になる。第三者はいない型の論理を振り回すことによって、それではそういう人は何をしたことだろうか?結局何もしない。何もできないのである。決まっている。*1そこでは責任というものの性質が勘違いされているからである。

責任とは、その都度において、事後的に反省的に切り取られてくる観念であって、だからその内容も、その都度変化している。事後的な意識上の産物であって、だから事前に完全さをもって振り分け可能なものでもないし、責任とは、それが現実的に実現可能な配分として示されるときのみ、人々にとって具体的に共有可能なものであり、実践的意味を担うものである。そうでないような抽象的な責任の刷り込みや内面化は、空虚であって意味をなさない。

責任について抽象的に思考するときとは、単に理論的に明らかにする段階の話であって、抽象的な責任論を無限化し内面化させようとするような、強制力を働かせる、ある種の傾向は悪質になる。第三者はいない型の論理が出てくるとき問題なのは、この情念的な強制力の発動、集団的な取り込みである。*2

皆が社会では受動的で共犯的であるというのは、言い出せば無限に限がない話で、要するに、われ等みんな罪人というヤソ教的戯言に浸っているというのと等しい。公害を分析した社会学的批評だろうと、漱石のような文学作品だろうと、子供向けのテレビアニメの筋だろうと、そんな話は聞き飽きるほど、世の中に溢れている。こういうとき、われ等みんな罪人という認識とは主観の問題であって、拘泥の話である。

潜在的には被害者である、加害者である、人はみんな罪人である、罪を共有している、罪の責任から逃れている人はこの世に一人もいない・・・をウソブキながら、渋谷の街を今日の昼歩いている女子高生に語りかけてみればよい。それが全く通用しない、主観の独り善がりであることを、唯物論的に自覚できるであろうから。

この種の主観=想像=浸りには、実践性がない。それでは、渋谷の街を歩く女子高生を振り向かせることの出来る、倫理的認識とはありうるのか?それはやっぱりあるのだろうと思う。渋谷の女子高生を振り向かせる倫理的談義とは、所詮は、夜回り先生やヤンキー先生の守備であるともいえるのだが。しかし、宇井純的スタイルと、夜回り、ヤンキー先生を比べてみて、その偽善性なり虚構性なりを見たとき、何か宇井純及び同時的に東大から全共闘に生じたような、虚構的な自己犠牲のスタイルとスローガン(山本義隆の自己否定)が、特に優越するような実質はあったのだろうか。夜回り、ヤンキー先生とは、やはり現代的なヴァージョンでの、宇井純から山本義隆の焼き直しにすぎないような気がする。そこには金八先生のイメージが、超えることのできない虚構として立ち塞がって、続いている。

公害は、あるのかないのかと言えば、それは確実にあるだろう。インターネットだって、その一部は常に公害のような状況で進行している。公害を認識する術も、是正する術も、すべては立論の実践性にある。逆に言えば、日常的に共有される分かり易さとして提示されることのできない問題性とは、どんなにそこに深遠に、尾鰭をつけて語ったとしても、人は現実には取り合わない。また取り合う必然性もない。人は本能的な傾向として、健康に生きようとすることをこそ、単純に志向しているものだから。この他人の健康さを損ねようとする情念から怨念の構造ならば、それ自体が別種の精神公害を実は作り出すだろう。この悪循環が、一昔前には猛威を振るったのだ。安田講堂に亡霊的に染み付いている、気持ち悪い記憶の正体とは、これである。

*1:せいぜいヤマギシに入るか、類似のものである。

*2:実際にはセクトやカルトが、メンバーを取り込むときの常套的論法が、これにあたる。私たちの論理にとって、第三者はいない。何人も逃れられはしない。