学校マクドナルド化批判

このところ、教育基本法の改定に賛成する人々の意見をあっちこっち見にいっていたのだが、賛成の理由はどうやら”日教組粉砕”らしい。小学生のころにみかけた”ニッキョーソオ、フンサーイ”と、軍歌をバックに怒号するウヨクの黒いトラックの思い出からはや20年以上たつわけであるが、いまだに”ニッキョーソオ、フンサーイ”なわけで、ついにはそれが政治日程に載っている、ということなのである。いやはや時代はかわったものだ。などと目を細めるほど歳をとっているわけではないので、彼らの考え方に関する私のささやかな分析をかきとめておく。簡単なことだ。彼らの頭の中では、目下の教育は以下のような仕組みなのである。

日教組(及びその黒幕である共産党) −> 教師 −>生徒。

これを教育基本法の改定により次のように変える。

日本政府 −> 教師 −>生徒 

実にわかりやすい。正しいかどうかはともかく、明快である。要するに教育の大元をすげかえる、ということなのである。全世界どこでもトイレの洗剤のコマーシャルは似ている。バイキンくんたちがへらへら笑いながらはびこっている便器に青い洗剤をかける。とたんにバイキンくんたちは困った顔になり、どろどろと溶けてトイレはまっさら、新品のよう。このイメージとよくにている。日教組はいわばバイキンくんであり、洗剤は教育基本法の改定。改定ののちにはまっさらで正しい学校教育がちんまりとおしましになるわけだ。んなことあるわけがないのだが。
先日リンクした高橋哲哉さんのスピーチにもあるように、現行の教育基本法のエッセンスは「自律した人間の形成」を目的とすることにある。自分ひとりで考え、その考えに従って次の一歩をすすめる人間。自律した人間とはなにか。新田次郎の山岳小説に加藤文太郎という登山家をモデルにした「孤高の人」がある。加藤文太郎はもっぱら単独行、すなわち登山の際にパーティーを組まず、すべての荷物をひとりで背負って登山を行う形態で、さまざまな驚異的な記録を打ち立てた登山家だ。小説のなかにでてくる加藤文太郎の登山はまさに自律した人間のメタファーである。地吹雪でホワイトアウトした3000メートルの稜線で、磁石と地図上の距離、歩測(何歩あるいたか)のみで危険な雪庇や断崖をさけながらひとりであるく加藤文太郎。「自律した人間」を想起するたびにまっさきに私はその彼のことを考える。一方で加藤文太郎の社会生活は破綻とはいわないものの、奇人として知られていた。日常においても単独行の哲学を貫徹しようとするものだから、まあ、変人である。人のいうことを聞きはするが、全てを自分で一度咀嚼し、じぶんなりの判断をくだす。彼が技師であったからまだ救われたのだが、通常の勤め人になっていたら、即クビである。でも、実は現行の教育基本法は彼のような人間で日本が満たされることを目的としている、と私は思う。自分でまず考えること。その判断を信じること。
またわたしは、自律した人間がいかなる人間であるかよくしっている。自分勝手な人間である。なぜ「知っている」などというかというと、まわりにいるフランス人の同僚がほぼ自分勝手な人間ばかりだからである。フランス人のそうした行動様式に比べると、ドイツ人の同僚たちの行動様式はるかにスマートだ。協調性があって、分業が確立しており、チームの中で自分の領分はここからここまでときっちりボーダーラインをきめ、連携をする。そこからはみ出る人間はめったにいないが、そうした人間にそれなりの能力があればいわば「リーダー」としてあつかわれ、システムの効率的な運用をデザインするのだ。簡単にいえば、ローカルな命令系統が実にしっかりしているので、すみからすみまで自分で考える必要がないのである。そして最小単位であるチームはそれよりも大きな階層よりも家族のような固い結束があり、チームで全体に平気で抵抗するのである。何十世紀もまえにババリア人とよばれていたころ小さなゲリラグループで神出鬼没、ローマ人と戦っていたドイツ人の末裔をそこに垣間見るような気さえする。
かくして、フランス人のなかにドイツ人がひとり入ると、「なんて非効率的なんだ」とドイツ人は思い、逆にドイツ人のなかにフランス人がひとりだけ紛れ込むと「なんて無責任なんだ(なぜならば分業があまりに確立しているから)」と途方にくれる。簡単すぎる文化考察だが、かくもフランス人は自分勝手なのだ。でも私はかれらが結構好きである。ひとりひとり、全部自分でやろうとする態度は、なかなかの見上げた根性、と思う。ひとりでやろうとがめつくから失敗することも多い。でもそれにそうして苦労しているから、どこか人間的なそれぞれの味がでるのである。さぞかしフランス社会って大変なんだろうな、と私はつくづく思う。なにしろ、おおかたの人間が自分勝手なのだから。でもそうしためんどうくささが、たぶん民主主義なのだろう。
今の日本の官僚がデザインしたいと考えているのは、たぶんフランスみたいな自分勝手だらけの社会ではないし、ドイツみたいなローカルな連携がものすごくしっかりした分散システムでもない。より完全な中央集権なのである。なぜこんなことになったのか、と私は考えたりする。それなりの理由があるのだろうな、と思う。ずいぶん多くの人がそれを求めているような気もするからだ。
いちばん最初に、教育基本法の改定に賛成している人々の頭のなかの解説をしたのだが、この図式はいわば一本やりのシステムだ。上意下達。たとえば加藤文太郎的なあり方が蔓延しているフランスのシステムを知らなければ、あるいはドイツ的な分散ネットワーク型システムでもうまくいく、ないしは、システムはアップグレード可能ないしウィンドウズとマックがあってどちらでも楽しく生きることは可能である(一部の人はこの例えに怒るかもしれないが)、などなど、といったさまざまなシステムの可能性に対する想像力は、賛成している人々の中で閉ざされているのかもしれない。すなわち、一本やり上意下達システムしかしらなければ、それを「システム」として相対化することができず、頭をすげかえることにしか考えがいたらない、と解釈することができる。以下、たとえ話。
きわめて良心的で保守的な人間がひとりいたとする。日々門前を掃き清め、隣人とは挨拶をかわし、礼儀も正しい。かくなる人間(良識の人、と名づけよう)がとある日の夕方近隣のコンビニの前を通りすがる。するとそこには、ズボンをずり下げた男子高校生数人と、短い丈のスカートの女子高生数人がしゃがみこんで奇矯な声を上げながらなにがおかしいのかへらへら笑いながら小突きあったり、ケータイを操作していたりする。良識の人は「ケータイを持ったサル」などと新書のタイトルを思い出しながら、まったく持って今の教育はどうなっているのだ、と思う。高校生ならばはやく家に帰って少しは勉強をしろ、などと頭の中で説教をし、近隣の風紀が乱れている、と感じおおいに不快な気分になる。しかし、良識の人は高校生たちに近づき「高校生の分際でなんだ、さっさと家に帰って勉強でもしろ」と口に出すことはない。最近の高校生は人を刺したりするらしいしな、とちらっと思ったのかもしれないし、私の責任ではない、あのまま怠惰に成長して悲惨な人生でもおくるがよい、と思うことで自分を納得させるのかもしれない。そこにいる人間に向かって、一人の人間としてなにかを説得しようとするにはリスクがある、という判断なのだ。あるいは単に面倒で時間の無駄であるということかもしれない。それだけではない。見知らぬ人間に話しかけることは今の日本ではきわめて異常なのであり、話しかけない、のが正常である。見知らぬのに「あなたがそうやっているのは私にとってこうした理由で不快である」と指摘するのは、さしでがましいことであり、はばかるべきこと、となる。良識の人にとっては特にそうだ。それは「介入」であって、よほどのことがない限り自分が我慢するのである。こうしたガマンが繰り返されれば「今の教育はなにか間違っている」という気分が醸成されることになる。”近所のガンコおやじ”になれぬ鬱積はかくして、日本の教育問題に格上げされるわけだ。
こうして、日本政府は隣人の「介入」不発を代行することになる。模式的に説明しよう。円周上に人がならんでいる。そのうちのある一人が、となりのふたりに迷惑な行為をしたとする。となりにいるのだから「迷惑です」とひとこといえばいいのだが、それがどうもできない。背景にはもちろん日本全国の郊外化、など特定の要因をさまざまにあげつらうことができるだろう。それはともかくも、そこで迷惑だと思っている人は、中心にある日本政府に代表される公官庁にその代行を願うわけだ。迷惑、の意志は半径の直線をまずつたって、官庁にたどりつく。そこから、跳ね返ってすこしずれた半径上の線をたどり、迷惑な人に「近隣に迷惑をかけないように」となるわけだ。かくして円周上の人々は互いにコミュニケートするのではなく、中心を経由してやりとりをすることになる。円周はしたがって、実線ではなく点線だ。私はこうしたコミュニケーションのありかたは自律した人間同士のコミュニケーションのありかたというよりも、ひどく他律的、すなわち中心点に依拠したコミュニケーションだとおもう。
しかしながら、こうした点線円周モデルが自然になってしまった社会では、一本やり上意下達システムがあたりまえのことなのである。教育もまたかくあるべし、というよりもそうでしかありえない、と錯覚される。だから、日教組か、日本政府か、というとても貧しい選択肢しか見えなくなってしまうのだ。いいかえれば、他律的なシステムの選択に汲々としている、ということになる。教育勅語にかわるようなお題目を欲しがっているのもまさにそれが理由なのである。「自律した人間を形成する」ことを大目標に掲げた現行の教育基本法の実効性を問うとするならば、まさにここにあるのだ*1。

*1:この項のタイトルを書いた時点ではもうすこし別の内容なはずだったのだが・・・ま、いいか。なお、この文章はid:kmiura:20061109#p1及びid:kmiura:20061109#p4の続きのつもりです。

対立する愛国心

二つの対立する”愛国心”に関する議論を眺めてみる。

教育基本法改定賛成派。

反対派の人々の反対理由は、「愛国心」一点に集中している。
つまり、「愛国心」 → 「戦前戦中の忠誠心教育」 → 「戦争をする国」との連想だ。
そもそも、「愛国心」と言う言葉自体が忌み嫌われる「悪」のイメージがある。人を”愛”する、自然を”愛”すると同様に「国を愛する」と堂々といえない国家こそ、異常ではないだろうか。

反対の理由に、「愛国心は強制するものでなく自然と備わるものだ」ともおっしゃる、その通りだと思う。

しかし、その方々(教職の立場の人が多い)は、「愛国心」を持つことを否定しているし、時として「悪」と教えている、育てる立場の人々が「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことに消極的(否定的)である限り改善を促すのは国家を憂う立場としては放置しておけないと思うのも当然ではないだろうか。
また、象徴天皇の現代でも、「国や天皇のために死ぬことが愛国心」と思い込んでいる人が子供を教育していることに”寒気”がする。自らの国を愛せず、誇りも持てぬ子供に、郷土愛や、隣人愛、親子の絆、友人への思いやりを語れるはずもない。
「戦争をする国」ではなく、
1-2-5) 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
のできる人を育てるのも大人の務めではないだろうか。
反対集会に集まった「在日コリアン」はじめ中韓等の人は「祖国愛(愛国心)」からの参加ではないのですか?そう思えば、確かに「間違った愛国教育は危険だ。」
「愛国心=戦争する国」と思っている人にとっては反対することが「愛国心(国を愛する心)」なのだろう。
そこまで考えが至らない私は修行が足りないのかも。

教育基本法改正に反対する人は、現行法が最良と思っているのでしょうね?

教育基本法改定反対派。

改正案の「愛国心」教育は、決して危険な国家主義にはならない、と政府与党は言っています。「わが国と郷土を愛する態度を養う」という時の「国」という言葉は「統治機構」を意味しない、「伝統と文化を育んできた」「郷土」を含む「国」、誰もが自然に愛を感じる祖国としての「国」なんだ、というわけです。「国」という言葉が「統治機構」つまり国家権力、分かりやすく言えば政府、という意味ではないから、この「愛国心」教育は危険ではない、という議論がまことしやかに語られています。
 でも皆さん、これは勘違いもはなはだしい、ひっくり返った議論です。憲法や法律に出てくる「国」という言葉はむしろ「統治機構」というきっちり限定された意味でないといけないんです。この法案だって、他のところは皆、「国と地方公共団体は」云々、ちゃんと政府という意味で使っています。しかし、愛国心のところで「政府」という意味にしてしまったら、だれも「政府」を愛する人なんていませんよ。よほどの権力好きの人でもない限り。国民の心や感情を国家に向けて動員するためには、愛国心の「国」は「統治機構」を意味したのではまずいのです。
高橋哲哉さん 11月12日付講演より

前項で書いた”一本やり上意下発システム”の無謬性が上の賛成派の意見には見うけられる。国家による動員、という発想が貧困なのだ。なぜならば、すでに動員されているから、とでもいおうか。動員のその内実が赤紙であるとはかぎらないのであるが、動員という状態そのものに対して1930年代から40年代の軍国主義しか想起することができないのである。高橋さんはこの点を説明しようとしているのだと思う。でも、国家(ここでいうと統治機構、になるが)による動員とはなにか、ということを反対派はより明確にしないと、賛成派と議論にならないのではないか。まあ、たとえばタウンミーティングのやらせ、なんて動員そのものですな。某国の”よろこび組”とどこがちがうというのか。