もういいかげん、確率論の新しい時代に入ろう

イカレ仲間である友人、物理学者の田崎晴明さんがぼくの始めたばかりのこのブログ
をご自身のHP( これ) で紹介してくださったので、
なんかあっという間にアクセス数が100倍くらいになった。
今回は、その田崎推奨記念ということで。


田崎さんとは、ネット内のとある場所で、いろいろな議論をさせて
いただいていて、話題は多岐にわたるけど、大好きなアイドル談義は
今回はおいといて、彼との数々の議論の中から確率論の話題を取り上げようと思う。
これは、お互いに忙しくて現状ペンディングになっているものだ。


それは、「もうそろそろいいかげん、確率論の新しい時代に入ろうよ」
とぼくが提案したことから始まった議論である。


現在の確率論の定番は、コルモゴロフの公理化したもので、
次のような公理から成るものだ。
(1) 空事象には数値0を割り当て、全事象には数値1を割り当て、
一般の事象には0以上1以下の数値を割り当てる。
(2) どの二つも同時には起きないような任意の(可算)無限個の事象たちに関して、
それらを合併した事象の確率は、それぞれの確率を足したものになる。


ここで、とりわけ(2)が特徴的で、要は、「確率は足せる」ということを
述べている。これを確率の「加法性」というのだ。


でも、ぼくはこれを、単なる確率創世記の考え方であって、
不確実性について認識の深まった現在も、これを踏襲し続けることは
ないんじゃないかな、と感じている次第だ。
ぼくが専門としているベイジアン的な確率論においても、
物理学における量子力学的確率論においても、この「加法性」は
崩れているからだ。


実際、コルモゴロフが示したかったのは、「大数の法則」(いっぱい試行すれば、
実現比率が期待値と等しくなる、という法則)と、「中心極限定理」(どんな
不確実現象もたくさん集めると正規分布になる、という法則)であって、
そのために提唱したのがこの公理であり、それに付け加わる「独立試行」の
定義を見れば、これがいかに人工臭のするもので、とってつけたもので
あるか、予定調和的であるか、わかると思う。


というわけで、まず、確率が「心理的確率」(主観確率)と「物的確率」(客観確率)に分かれる
ということを簡単にまとめることにしよう。


物的確率というのは、主に物理現象に現れるものであって、なんらかの多数回の試行の
末に表出するものである。
それに対して、心理的確率というのは、人が不確実現象についてなんらかの推論をする
ときに現れる、ある種の論理的推論を表すものである。


21世紀の数理理論における現在、よく考えると、この二つは全く(というのは言い過ぎにしても
かなりな意味で)異なる概念のように思えるのだ。


まず、心理的確率(=主観確率)だ。
これは、人間の推論を表すものであり、おおざっぱにキモだけいうと次のような
ものだと思えばいい。


今、ここに、ツボが1個あったとせよ。そして、自分の知識として、このツボは
2種類のどちらかであることは知っているとしよう。
Aのツボは、100個の青い球が詰まっていて、Bのツボは100個の赤い球が詰まっている。
このとき、自分の目の前のツボから1個球を取り出してみたら赤い球であった。
このとき、あなたは目の前のツボをどちらのツボだと見なすだろうか。
これはいうまでもないことで、Bのツボと見なすに決まっている。
これは確率的推論というより論理的推論である。
「赤ならBのツボ」という命題と「赤である」という命題から、
「ツボはBである」という風に論理的に推論しているからである。
では、次はどうだろうか。
Aのツボは、99個の青い球と1個の赤い球が詰まっていて、
Bのツボは99個の赤い球と1個の青い球が詰まっている。
このとき、自分の目の前のツボから1個球を取り出してみたら赤い球であった。
目の前のツボはAのツボだろうか、Bのツボだろうか。


このケースに対して、多くの人は「たぶんBのツボだろう」という推論を
することだろう。かといって、「絶対Aのツボではない」という確信も
ないだろう。とすれば、このツボがAかBか、というのは確率的推論に
なる。しかし、この推論に関して、Aがどのくらいの可能性でBがどのくらいの
可能性か、というのは個人個人で異なることであろう。もちろん何らかの
確率公式(たとえばベイズ公式)などで推論してもかまわないが、その推論が
絶対なものではない。なぜなら、そのツボがAかBかはもう決まっているからだ。
実験すればいいじゃないか、というのも、その点で誤っている。
なぜなら、現在目の前にあるツボは、すでにどちらかに決定されており、
これから決まるものではない。これはいってみるなら、「歴史的事象」であり、
実験をしたなら、それはまったく違う様相になってしまうのだ。
ここで行われる推論は、あくまで「論理的推論」であり、物的な反復現象に対する推論とは
異なるのだ。


このことをもっとよく理解するためには、「裁判の確率」を持ち出すのがいいだろう。
裁判において、被告人が有罪かどうかは、いくつかの証拠から論理的に推論される。
そして、「被告人は、これこれの確率で、有罪だろう」などと考えて、判決を下すだろう。
これは、物的な不確実現象に対する推論とは根本的に異なるものだ。
物的な推論の立場でいうなら、「この被告人が、全く同一の状況に出会ったとしたら、
そのうちいったい何回ぐらい犯行をしたか」というような意味になってしまい、
これはほとんどの人には全くナンセンスな議論だと思えるだろう。


さて、次は、物的確率(=客観確率) についてである。
物的確率というのは、大胆にいえば、物理現象にあてはめられる確率といって
いいと思う。
とすれば、物質的な不確実性の決定打は、量子力学のようにぼくには思える。
田崎さんには批判されたけど、物的な不確実性はすべて量子力学的不確実性に
起因するようにぼくには思える。


というわけで、心理的確率にしても、物的確率にしても、どちらももう、
コルモゴロフ的な公理系では掌握しきれなくなっているように思えるのだ。
その証拠に、ベイジアン的確率理論においても、量子力学においても、
その「加法性」は否定されているからだ。
ベイジアン的確率理論は、さっきいったように、「論理的な推論」であり、
そこに加法性がある必要はなく、また、量子力学における確率は
複素振幅のノルム(説明ご容赦)で表記されるものであり、そこにも
加法性が存在しないからである。


つまり、
心理的確率にはそれ用の新しい公理系、物的確率には、
それ用の新しい公理系があるべきじゃないか、
そしてそれは全くもって別個のものであっていいのではないか。
そういうことだ。


ああ、むっちゃ疲れた。
もう今日はやめ。
これで田崎さんのご厚意に多少は報いたと思うし。
続きはいずれ〜。