時計の存在とネットの存在が要請する社会人としての常識

「時間を守る」ということは、社会人としての常識の基本中の基本である。

しかし、Wikipediaの時計の歴史によると、ゼンマイが発明されて時計が携帯できるようになったのは、1500年頃だ。そんな時代に「時間を守れ」と言ったら、「そんなこと絶対不可能」と思っただろう。いや、まず「時計」なんてものを見たこともなくて、「時間を守れ」という倫理が何を意味しているか理解不能な人が大半だったはずだ。そして多少は意味が通じるようになっても、時計なんて高価なものを買えるのはごく一部の特殊な人であり、性格が良くて勤勉でも「時間を守らない」だけで人が失業するなんて時代が来るとはとても想像できなかっただろう。

「時間を守る」という概念が一般化したのは産業革命以降のことである。大勢の人が工場で生産活動をするようになってはじめて、そういうことが一般人に要請され、同時に、その気になれば時間を守ることができるようになったのである。

「時計」が物珍しい「発明品」であった時から今のような倫理の基盤となるまで、少なくとも300年はかかっているのだけど、ネットは30年ちょっとで、ほぼ同じ落差を駆け抜けてしまった。

しかし、ネットが社会に与えるインパクトの強さは、おおざっぱに言ったら時計と同じくらいではないかと思う。

だからネットも、「社会人としての常識の基本中の基本」として新しい条文をひとつ、社会に定着させることになるだろう。ある程度の時間がたてば、その条文は、「時間を守る」のと同じくらいあたりまえの話になり、社会人の大半がそれを守らないどころかそれを理解することさえできなかった時代を想像できなくなるだろう。

その新しい条文とは「知をシェアする」ことである。

あたりまえのように「知をシェアする」ことをしない人は、遅刻常習犯と同じくらい奇異な目で見られることになる。倫理には反動がつきものだから、「知をシェアする」ことを拒否することをカッコイイと見なす厨房は一定数いるだろう。でも、ハタチ過ぎてもそれを続けるには、それ相応の覚悟がいる。

「知をシェアする」と言われても、それが何のことかわからなくて目を白黒させる人もいるだろう。わかっていても、それはあまりにも高価なことで、金持ちのボンボンか変人でもなければ不可能なことだと思う人もいるだろう。でも、「時間を守る」ことと「知をシェアする」ことを同じくらいカジュアルに、同じくらいあたり前のこととして、当然のように実施している人もいる。

時計が300年かかったことをネットが30年ですませてしまったので、そういう混乱は起きている。でもそんな混乱は些細なことだ。

時計を与えられたら時間を守るべきで、ネットを与えられたら知をシェアするべきである。「人はなぜ時間を守るのか」とか「時間を守らない方がいい時もあるのではないか」なんてことを考える人は、ビジネスマン向きではない。同じように「人はなぜ知をシェアするのか」「シェアしない方がいいケースもあるのではないか」なんてことを考える人もビジネスマン向きではない。もちろんそういうことを考える人も一定数必要だが、誰もがそういうことを悩んでいるのは無駄。

普通の人は、ただただ何も考えずにソースを公開し、ブログを書けばよいのだ。