「オオヤケ」的階層化のYahooと「Public」でフラットなGoogle

成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN― - 『家族の痕跡』読書会チャット報告が面白い。

たくさんの興味深い論点があるが、一番興味を引かれたのが、主として井出草平さんが提起されている「『オオヤケ』と『Public』」という観点。

日本人はもともと社会と直接接続する回路を持っていない。自分はまず「家」の一員であり、家を代表する家長が会社という「オオヤケ」に接続している。でもその家長も会社の中では、単なる「ワタクシ」の一員としてふるまう。会社が公的な存在であるのは、社長が会社を代表して、例えば業界という「オオヤケ」に接続しているからだ。

この図を見た方がわかりやすいかもしれない。

http://www.edreform.info/html/ariga.jpg

日本人にとって社会参加とは、この階層構造のどこかにポジションを得るということである。


一方「Public」とは、全ての成員が同一の立場で直接接続するものである。西欧近代の社会はこの意味での「Public」なものを中心にできている。それを輸入した日本は建前上、制度上はこういう「Public」を前提にしているが、実態は「オオヤケ」の連鎖で社会ができあがっている。阿部謹也氏の「世間論」にも通じる話だと思う。

それで、引きこもりは「オオヤケ」を経由せず「Public」に接続して社会に参加しようとしているので、うまくいかないという話だ。

英語のpublicは「公」に、privateは「私」と翻訳されます。しかし、英語と日本語で含意されている意味が違っています。publicは基本的に一つなんですね。publicがあって、そこに向かっている個人というイメージです。

でも日本の「オオヤケ」は一つじゃなくてたくさんある。家族という最小集団があるとすると、その家長が「オオヤケ」になり、家長以外の成員が「ワタクシ」になります。ところが、その家長が所属する上位の集団では、家長が「ワタクシ」になり、さらに別の「オオヤケ」が生まれる。「公人」ですね。有賀の考える「公と私」は入れ子構造のようになっているんですよ。西欧のような一つのpublicではなく間に家族やら中間集団やらが入り込んだ階層状の「公と私」が日本の社会構造だと捉えられます。

さっき、「オオヤケとワタクシ」は死に絶えていない、という話があったけど、「ひきこもり」とか「ニート」を論じ始めた途端、最もグロテスクに論者の「公私」観が露呈されるんだと思う。みんな胸を張って「現代的価値観」とか言ってても、実はそんなに変わっていない。斎藤さんが言うのは、そういう硬直したステレオタイプから自由でいるために、親密圏が必要である、と。 ▼ひきこもりというのは、セクシャルな要素も含めて、「公私のマネジメント」に失敗しているわけですね。親密な関係を作ることができなくて、そのぶん、過剰に公的なものに絡め取られている。

ひきこもり当事者の社会の認識は、極めて日本的ではないために、日本社会で生きるのは困難ではないかということです。個人と1つのpublicという認識では、上山さんが今回のチャットで言われている「中間集団」の社会であったり、有賀的なオオヤケとワタクシの入れ子構造の社会はとても生きづらい。

中間集団で生きてる人間にとって、publicが無かったりというのもありますよね。社会参加、社会参加って言われますけど、多くの人がしてるのは、「会社参加」であって、社会参加ではない。「会社」=「社会」と思っている人が少なからずいる。忠臣蔵とか企業戦士とかがその理念型(要素的純型)ですね。

ひきこもっている人は、「オオヤケ」に関わらないことで、異様に純化された「public」を維持することになる(非現実的なまでに)。 妙な話だけど、「家族」という私的な領域が、「public」を保護する形になっている。

それで、ひょっとしたら、この観点が「際立つYahoo!検索のシェアという日本独特の現象」を説明するかもしれないと私は思った。Yahoo!のUIの方が、平均的日本人の社会観に親和性があるのことが、日本の特異な状況の一因なのではないだろうか。

これは、両者のトップページを比べてみれば一目瞭然だ。Googleを通して世界を見ると世界は直接接続できるサイト群から成り立っているフラットな世界に見える。Googleはサービスを多様化しても、検索結果という自社の主力コンテンツがフラットであることを強調するような、そっけないトップページを変えようとはしない。逆に、Yahooのそれは、階層化された各種サービスへ段階的に誘導しようとしている。Yahooを通して見ると、世界は階層化されたサブシステムによって重層的に成り立っているように見える。

つまり、階層的「オオヤケ」を投影しやすいYahoo的世界の方が、日本人にはしっくり来る。そして、「Public」的なフラットなものへの無意識的な拒絶が、Googleから平均的日本人ユーザを遠ざけているのかもしれない。