ウソをつく道具:その3

あまり面白くないかも知れませんが、第3回です。今回はもう少し日本人論関係の話をしたあと、どらねこのモヤモヤを書いてみようと思います。

■集団主義の日本人、その成立と錯覚
ヒトの行動は思ったよりも状況に大きく影響を受けるようだと謂うことが、アッシュの同調実験*1やミルグラムの服従実験*2そして、その追試*3などの心理学的実験により明らかにされてきました。それを考慮すると『集団主義的』、『個人主義的』人種の特徴とされるような行動も実際には単なる状況に応じた行動として説明が可能だという事がわかります。
高野陽太郎氏はそうした日本人の国民性を行動への性格の影響力を過大に評価する事により生まれた錯覚であると述べ(ているようにどらねこは理解した)ます。それは、ヨーロッパ列強と対峙するアジアの小国日本という歴史的状況により生じた行動が、前述したヒトの行動は性格や性質(国民性を含む)によって大きく影響を受けるだろうという錯覚から日本人の気質として認識され、各種バイアスにより強化され固定化されていったものに過ぎないという事です。
では、こうした行動は文化差により影響は受けないというのでしょうか?文化の違いは考慮しなくて良いのでしょうか。

■文化ステロタイプ
ステロタイプというのはカテゴリー化の一種で、ある共通属性を持つ集団などをひとくくりにし、その特性、イメージを固定化するものです。情報はなるべく正確に伝えたいけど、伝えられる情報量にも限りがあるから、簡単な言葉で相手の思考を節約できるような形で発信したい、そんな時に便利でしょう。でも、行き過ぎると正確性が怪しくなって、不当なレッテル貼りになる危険性を持っているんだよね。例えば、理系とか文系など専攻学問等や得意分野により便宜上分類される事があるけれど、その中で理系は白衣を着ているとか、理論第一の理屈やみたいなステロタイプイメージが形成されていると思います。それが行き過ぎると、科学原理主義的な物事を杓子定規でしか捉えられないというような否定的な文脈で語られるというような感じです。ニセ科学批判者の多くは理系だから何でも科学第一で考える・・・みたいな。そうでない日常場面でも理系クンみたいな感じで典型例に個人を考慮することなく当てはめるなんて事もあると思います。
このようなステロタイプの中で、異なる文化間を比較する場合に用いられる場合を文化ステロタイプといいますが、その中には4つの錯覚があると高野陽太郎氏は述べております。

■4つの錯覚
文化ステロタイプの4つの錯覚については次のように通りであるとしております。それは『決定性』、『斉一性』、『両極性』、『不変性』です。決定性は、文化は人間の行動の決定要因であるという考え方で、たとえば『日本人は目立つことが嫌いな人種である』という話に接すると、『日本人はいつでも目立たないように振る舞う』というイメージを抱いてしまう、というようなものだ。斉一性では、『日本人は誰もが目立たないように振る舞う』となり、両極性は異なる文化間を比較する場合に、白と黒のように極端な違いとして認識されてしまうようなこと。不変性はそれは固定されたモノであり、文化差は本質的にはいつまで経ってもかわらないという考え方です。これらの錯覚は現実の文化差と大きく食い違っているとします。では、どんなふうに異なるのでしょうか。本の中で高野氏はそれぞれに対し、反論を用意し説明しますが、その中でもマツモトの研究がとても興味深かったのでそのくだりを紹介したいと思います。

■デイヴィド・マツモトの研究
マツモトは日系アメリカ人の心理学者で、日本人とアメリカ人に対し、集団主義・個人主義の程度をはかるための質問紙調査*4を行った。

集団主義という錯覚p283より
そこには、たとえば、「重要な決定をするとき、あなたは友人のアドバイスに従いますか?」というような質問がのっていた。
それらの質問への回答を整理して、日本人とアメリカ人の平均値を比べると、あいてが友人や同僚の場合には、日米間には差がなかったが、あいてが家族の場合には、日本人のほうが個人的だった。(日本人論の通説とは正反対の結果である)。統計的検定にかけると、家族の場合の日米差は0.01%水準で有意だった(すなわち、「そのような差が偶然に生じることは万に一つもない」という結果だった)。
<中略>
ふつうなら、「きわめて明確な文化差が見出された」と吹聴されるような差である。

これだけなら、日米間比較研究の結果の1つを紹介したに過ぎないのですが、この研究の面白いところは、回答の分散を調べ解析を行ったところにあります。マツモトの研究ではその分散が文化か個人の由来なのかを調べたのです。つまり、文化差が回答に影響を与えるのならば、異なる文化間での回答は大きな違いが現れるはずで、日米間での回答の分散は大きくなります。また、個人差が回答に影響を与えるのなら、同じ文化内の個人間の分散が大きく現れるはずなのです。

p284より
分析の結果、日米間の文化差に由来する分散は、分散全体のうち、わずか10%弱でしかないことがわかった。一方、残る90%以上の分散は個人差に由来していたのである。「偶然に生じることは万に一つもない」ほどのはっきりした文化差が認められた家族の場合も、その例外ではなかった。
つまり、どれほど集団主義的あるいは個人主義的に行動するかは、個人によるちがいが非常に大きいのである。

ようするに、日本人だから、アメリカ人だからという根拠では集団(個人)主義的に行動するという予想は出来ないよ、という事になります。
さらにマツモトの研究では個人内の分散、つまり質問項目に由来する分散も調べられております。これは同じ人間でも状況が変わったときに集団主義・個人主義的振る舞いは変化するか?その程度を調べたモノです。その結果、性格の違いを表すと考えられる個人間の分散に比べて、個人内の分散がはるかに大きかったという結果が得られました。これは日米ともに同じ傾向が得られました。
行動に与える影響力の違いを俗な書き方をするとこんな感じで表せるでしょう。
状況のチカラ>>>>個人の性格>>>>文化
つまり・・・
状況のチカラ>>越えられないカベ>>文化
マツモトの研究を見た後では、文化が行動を決定するという主張はあまりにも乱暴であることに気がつけるのではないでしょうか。文化は行動を規定する一要因であることは間違いないけれど、その影響は限定されたモノである・・・というくらいに。

■錯覚から差別、偏見へ
欧米諸国から見た日本の印象、集団主義的というレッテル・・・実はそれほど根拠のあるモノではなく、その後の調査研究ではその仮説は支持されないというモノでした。ところが、それらの印象論は日米貿易摩擦が起こったときには、日本排除論に利用されたとされております。あいつらは個性がない、自分がない・・・などなど。このような話を聞くとどらねこは悲しく思います。日本人は集団主義的だから・・・でも、ちょっとまてよ・・・どらねこも他の人に対しても似たようなことを考えたり行動してたりしないか?
これら心理学研究などの知見が妥当なモノと考えるとなんて不毛な争いを繰り返しているのだろう、暗澹たる気持ちになる。考え方にも行動パターンにもそんなに大きな違いを見いだせない同じ人類同士で、ありもしない偏見を錯覚から作り出し、相手を罵り、憎しみあったり戦争をしたり・・・。どうやったらソレに気がつけるのだろう。いや、どらねこだって気がついていないことがいっぱいあるような気がします。ニュースを見て卑劣(に見える)犯人に憤りを感じ、重い刑を!なんて思っている自分にそんな事がいえるのだろうか?とね。自分だって同じ状況に陥れば同じような行動をするかも知れないと謂うことだ。そういえば、どらねこは絶対にバレないと分かっていれば、普段ならやれないことをやってしまうようなタイプだったんだ、と思い出すのです。
もう少し考える、○国のヒトは自分勝手だとか、日本人に対して敵意を持っているとか、そう謂う発言があって、それを聞いて悲しく思う。で、それに反発するヒトの気持ちもそれなりにわかる。分かるのだけど、じゃあ、自分が反対の立場になってその国に居たとしたらどう振る舞うのか?と、考えてみる。きっと同じように振る舞うか、言論を封殺されて発言すらできないでしょう。彼らは異質な人間ではなく、自分やその周りの人と大差のない人間なのですよね。
だから、これは許せない、こんな事謂われて頭に来る!!みたいな振る舞いを見つけたら、多くの場合はその行動の前提となる状況や何らかの構造上の問題が有るのかも知れない、そう考えるようにしたいと思うのでした。そして、それを無くしたいと考えるのなら、その状況を少しでも緩和する為の援助にはどのようなモノが必要か、個人では何ができるのかを考えるようにしたいと思うのです。

■おわりに
日本人論の錯覚に仮託したどらねこの主張を伝えたいというエントリは一応終わりにしたいと思います。心理学の知見、特に認識の偏りについては様々な分野の研究や事実認識に大いに役に立つ知識だと思います。おそらく、投資の量の割に得られるモノはとても大きいんじゃないかと思います。また、状況の影響力がとても大きいことが周知の事実になれば、いじめ問題などに対する有効な対応策も考案されやすくなるんじゃないかなぁと、期待したりして居るんです。加害者や周囲のヒトを責めたり、問題点を周知して終わりという問題じゃないのですからね。
長文失礼しました。



おまけ
※いつもの事ですが、おまけにはたいしたことが書いてありませんが、今回は特に論考以前の以前のトンデモのグダグダが書かれておりますので、過去のとらねこ日誌エントリの文脈に沿って読んでいただく事が難しいヒトには読むことをオススメいたしません。

■どらねこのグダグダその1
日本人論とか農耕民族話になると文化は不変であったり、同質であったりと説明される事が多くて、それに何となく納得しているヒトも多いみたい。その主張を受け入れている割に、同じヒトがそれとは相容れない(?)考えや主張も受け入れているようにも見えて面白いなぁと思うことなど。
それは世代論と県民性の話で、世代論は近頃のワカイモンは・・・私の若い頃はコウで「なっとらーん」、「りかいできん!」みたいなの。で、過去の文章などを読むとそれが繰り返されて居るみたいなのね。それが本当なら日本人の特徴は無茶苦茶かわっていると思うのだけど、日本人の本質という面については変わらないのかしら?と、疑問になる。で、本質って何よ?というおはなし。県民性はそれに言及した番組がそれなりに人気があるようで、さらにウチの職場では大盛り上がりなのね。番組だけ見ると多様な日本人の姿が浮かび上がってくるのよね。どらねこはこの番組の演出はイマイチ好きになれないのだけど、集団主義的日本人論の典型、画一的な日本人論とは相反するイメージを与えるものじゃないかなぁ、と思うのですよ。でも、県民性が盛り上がっているはずなのに、日本人論のステロタイプに異議という機運が盛り上がらないのは何故?

■どらねこのグダグダその2
世代論とちょっと関連して、最近の子ども達はセンセイの謂うことを聞かないとか、大人に反抗的、服装の乱れが目立つ、言葉遣いなどなど日本人論ではタテ社会とされる構造が変化してきたのでは?というような事を示す(ているように見える)現象がニュースや教育関連本などで採り上げられています。これは若い世代が個人主義的になってきたあらわれなのかなぁ・・・なんて白々しく書いてみる。勿論そんな事はないとおもうのですけど・・・
これも行動は状況に大きく影響を受けるという傾向で説明できるのでしょうね。子どもが従順に従っていた(様に見えた)のは、大人による拘束や逸脱した場合の罰則が子どもにとって恐ろしいモノであったからでしょう。暴力を伴う罰則や理不尽な拘束の害悪が一般に認識されるようになり、次第にゆるんでいった結果、子どもの行動の制限が緩くなり、指示への服従や言葉遣いに怯える必要性が除去されて現在のようになったのでしょう。
では、子ども達は昔みたいに縛られていないの?と思うのだけど、そうでもないような気がするのよね。乱れたとされる服装も、仲の良い集団では似たような傾向だったりして、乱れていると謂うよりその集団内では規範になっているように見えたり、言葉遣いなんかもその集団内の上下関係ではとっても気を遣っているようにみえるのよ。親をなだめすかして無理矢理ケータイなりのツールをせがむのも集団内でのコミュニケーションに必要だからという圧力が強力であるからなのだろうなぁ。同世代集団に従わない場合のリスクが社会規範を逸脱した場合のリスクを上回る場面が増えてきたのでしょう。

■どらねこのグダグダその3
自分にはどのような思考のクセがあるのだろう、陥りやすい穴というのはどんなモノがあるのだろう?事前にソレを知っておくことで、どれくらいの行動変容が期待できるのだろう?
ニセ科学批判批判を行う場合には、情報提示によって行動変容が難しい層にコトバを届ける為にという限定された条件に限り有効なのかも知れないと思ったり・・・そうでもないかも知れないと思ったり。その場合、敵の敵は味方メソッド的なモノになりそうだから気をつけないといけないとは思うのですよね。
あと、ニセ科学批判批判の使用がなんとなく想定される場面としては、ニセ科学批判的な文章に対応バイアスと考えられるような個人の人格・人間性等に言及する記述*5があり、それに反発し何らかの情報を発信されたような時。それは批判されても良いと思うが、その発言は所謂ニセ科学批判とは別文脈なのかも。


※写真はイメージです

*1:Ashc, S.E 1955 Opinions and social pressure, Scientific American, 193, 31-35

*2:Milgram, S. 1963 Behavioral study of obedience. Journal of abrormal and Social Psychology, 67,371-378

*3:Burger, J.M. 2009 Replicating Milgram. Would peoplw still obey today? American Psychologist,64,1-11

*4:Matsumoto, D., Kkudoh, T., &Takeuchi, S. 1996 Changing patterns of individualism and collectivism in the United States and Japan. Culture & Psychology, 2,77-107.

*5:自分が直接遣り取りし、意図的に発言をねじ曲げられたり中傷されたような場合のネガティブな応答はこの限りではないと思う