「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら

どうなるんだろう。
というわけで、ニーチェ「善悪の彼岸・道徳の系譜」の解説です。ニーチェは哲学や政治学をやるのなら必読だと思うのですが、いかんせん文学的な表現が多すぎて何を言っているのかよくわかないと投げ出す人もいるんじゃないですかね。というわけでニーチェの思想で一番使える「相対主義」にしぼって説明します。

通常の哲学とニーチェの哲学の違い

哲学は形而上学とも呼ばれています。メタフィジカルな学問だというのです。つまり物理的・現実的(フィジカル)なことにたいしてどのように人間が取り組むかという、現実(フィジカル)より上位(メタ)の構造・ルールについて研究するのです。たとえば、人間の肉体がどのような仕組みで動いているかというのはフィジカルな話ですが、人間はどのように生きているのか・どう生きるべきなのかというのは、メタフィジカルな話です。
さて、ニーチェがやっているのは通常のメタフィジカルな話ではありません。そのようなルールがなぜ生まれるのか・ルールを支配しているルールとは何なのか、という話なのです。いってみればメタ形而上学です。

なぜ人を殺してはいけないのか

たとえば「人を殺してはいけない」というルールについて考えます。「人殺しは絶対的な悪だ」「法律で裁かれるからやめとけ」「殺人者はキモい」「自分が殺されてもいいのか。社会にとって殺人は迷惑なんだよ」などなど、いろいろな意見があるでしょう。しかしこのレベルで善悪を議論しても絶対に決着はつきません。たしかにこれらの意見は常識的であり、市民の良識にかなう立派な主張です。しかしこう反論されたらどうでしょう。
「人殺しは絶対的な善だ。おれはそう信じている」「法律で裁かれたっておれは別にかまわない」「殺人をキモいと思うやつもいるが、おれはそうは思わない」「逆に社会の常識は殺人者にとっては迷惑だ」
こんなことを言ったら、ドン引きされるでしょうし、議論の最中においては「そういう考え方は間違っている。キチガイもほどほどにしろよ」という人格攻撃がはじまるでしょう。しかし、そういう人は殺人を肯定する論理を決して崩すことができません。ただ相手をキチガイだと罵ったり、根拠も提示せずただただ間違っていると否定するばかりです。
ここは重要なポイントです。要するにどちらも「自分がそう思っているから、自分の意見は正しいんだ」と主張しているだけなのです。つまり議論をしているのではなく、自分たちの信念こそが正しい・自分たちが信じていることこそが《真理》だと宣言しあっているだけなのです。要するにこれは自分たちの《信仰》を相手に強要しているだけなのです。

議論に見せかけた《信仰》VS《信仰》

一見議論をしているように見せかけて、実は《信仰》や願望を垂れ流しているだけ、というのはひどく滑稽です。野球にたとえるなら、試合をしていると見せかけて、実際はお互い選手宣誓しあってるだけという状況です。言葉のキャッチボールはおろか、そもそもゲームのルール自体をよくわかってません。感動的な選手宣誓をすれば、それがそのまま事実となり、自分たちの勝利につながると素朴に信じているのです。
困ったことにこの野球にはジャッジがいません。いるのは観衆だけです。これらの観衆は、より自分たちに都合のいいスピーチをしたほうを「勝者」にしようとします。選手は野球もせず、ただスピーチしているだけなのに、どうやって「勝者」を決めるというのでしょう? 
答えは簡単です。気に食わないほうを暴力でボッコボコにするのです。
殺してしまえば「死人に口無し」というわけです。狂人のレッテルを貼って社会的に抹殺するのも同じです。そうすれば、自動的にもう一方が不戦勝となります。もちろん、この乱闘騒ぎに選手自身も参加しています。「野球しろよお前ら」とツッコミをいれる人は一人もいません。歴史上初めてのツッコミは、ニーチェが行った道徳批判ですが、その声はあまりにも小さいので、今も世界各地でこの乱闘騒ぎは続いています。

《信仰》を自覚し、《真理》を相対化しよう

「人を殺してはいけない」というのも、やはり《信仰》にすぎません。その《信仰》を世の中の大多数が共有すると、《真理》だとされます。しかし、実際はその教区限定の《真理》なのです。教区の外には、異なる《信仰》をもつ人だっているのです。信者たちは、異なる信者を批判するとき口々にこういいます。「自分たちの言っていることこそが《真理》だ。だって《真理》なんだから」。そして相手を異端者だと侮蔑します。
しかし同時に異端者というレッテルを貼られた人も、相手のことを同じように異端者だと思っているのです。そして自分たちの《信仰》こそが《真理》だと疑わないのです。
もうここまでくればお分かりでしょう。ありとあらゆる《真理》の起源は、そう信じているという《信仰》です。《真理》とはその定義上、絶対確実100%永久不変的に正しいもののはずですが、実際はある教区の中でそう信じられているだけです。絶対確実100%永久不変的に正しいから、絶対確実100%永久不変的に正しいのではありません。「絶対確実100%永久不変的に正しい」と信じて疑わない信者たちがいるからこそ、その教区の中で、絶対確実100%永久不変的に正しい、ということになっているのです。

《真理》性を議論するのは、政治ゲーム

通常の哲学では《真理》を相対化できませんでした。多くの哲学者は、あるテーマを与えられるとその《真理》性を熱心に議論してきました。それがいかに正しいか・正しくないかの議論を続けることによって、その《真理》性がはっきりとわかるはずと純朴に信じていたのです。
しかし悲しいことに、どちらの主張も、それが自分たちの《信仰》から生まれていることに気づきませんでした。結局この議論は、論旨とは関係なく声の大きな意見が勝ち残るという、きわめて政治的なゲームとなりました。
学者の間でもこうですから、実際にそれが社会的な議題となったときは、完全に政治ゲームとなります。自分たちとは違う《信仰》をもつ相手を異端として排除し、自分たちの《信仰》を唯一の《真理》だと偽装するパワーゲームです。その《信仰》が正しいから《真理》となったのではありません。その《信仰》がほかの《信仰》を踏み潰す権力を持っていたからこそ、《真理》となるのです。

《真理》を捏造するルールを議論すべき

さて、《真理》性を議論するのが結局は政治的なゲームにしかならないとするなら、メタフィジカルな学問に意味はあるのでしょうか? どんなにそれらしい口ぶりで議論しても、《信仰》のなすりつけ合いにしかならないのでは無駄ではないでしょうか? そこでニーチェはこう考えます。ならば、《信仰》がいかにして一般的な《真理》へと化けたか、その過程を研究するべきだ。《真理》がいかにしてでっち上げられるか、そのルールを議論すべきだ。
《真理》がどのような層にたいして都合よくできているかを調べれば、その起源がわかります。つまり、どんな信者たちの《信仰》だったかがわかるのです。さまざまな道徳を研究し、その系譜をたどることで、どのような《信仰》が《真理》へと化けやすいかもわかるでしょう。

権力への意志

権力者が、いかに自分たちの《信仰》を《真理》へと転換させ政治ゲームに勝利してきたかを理解するのは、とても重要です。他のゲームの参加者の行動が読めれば、自分に有利なようにゲームを進めることができるからです。黒い考え方でいやなのですが、誰もが好むと好まざるに関わらず、この政治ゲームに参加しています。「なにかを正しい」と考えていたら、それがすでに政治ゲームの参加表明です。たとえば誰もが《真理》だと思っている「人を殺してはいけない」という考え方は、殺人者(軍人を含む)には当てはまりません。そんな例外を認めたくない人達は「人を殺してはいけない」をより《真理》らしく偽装するために、例外を抹殺します。同類を集めて組織を作り、社会的な権力を握って、異端者を排除しようとします。逆に異端者のほうが組織力で上回り、自分たちのほうが抹殺されたりもします。共同体内部の小競り合い、国家規模の戦争、宗派同士の対立……これらは正義のための闘いだ・《真理》のための必要悪だなどと紹介されますが、結局は政治ゲームです。
この政治ゲームはそのゲーム性を意識するだけで、ある程度うまく立ち回れるようになります。それがどんなゲームでも、ルールに無知な人間は利用されるだけですから。
ニーチェは、政治ゲームで優位に立ちたいという欲望を「権力への意志」と表現しました。この「権力への意志」を弱肉強食の非倫理的な概念だと批判する人もいますが、本来「権力への意志」はそれが善いか悪いかといった道徳的な話ではありません。むしろ「権力への意志」を持ち、政治ゲームに勝った《信仰》だけが《真理》となり、善いとされるのです。この意味で「権力への意志」は、善いか悪いかといった対立の向こう側(善悪の彼岸)にある事実と言えます。

政治ゲームの功罪

さてここからはニーチェの思想に対する私の意見です。ぶっちゃけて言うと私はニーチェ的な思想は好きでありません。「人を殺してはいけない」という道徳が単なる《信仰》だなんて、吐き気がするほど感情的な反発を覚えます。それに私には政治ゲームの勝者があまり幸福そうに見えないのです。自分がそんな黒いゲームの参加者だなんてことは夢にも思わない、頭ん中お花畑の人間のほうが幸福なのかもしれません。またいいように利用されてるだけの人、誰かの手のひらの上で踊らされているだけの人だって、案外楽しくやっているかもしれません。(カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」参照)
政治ゲームの弱者でも、自身の《信仰》の中に幸福を見出すことができます。キリスト教のように、政治ゲームの弱者のために作られた《信仰》はたくさんあります。個人の人生の中では《信仰》が政治ゲームと相克するのです。《信仰》をもとにした妄想ゲームが政治ゲームを乗り越えることだって十分ありえます。
妄想ゲーム:政治ゲーム = ニュートン力学:量子力学 と対比するとわかりやすいかもしれません。現実は全て政治ゲームです。「リンゴが木から落ちる」というニュートン力学的な現象だって全て量子力学に従います。しかしいちいちシュレディンガー方程式をときながら生きるのが超絶面倒くさいように、政治ゲームを意識して生きるのはしんどいし面倒くさいです。大衆の《信仰》にとけこんで、一緒に妄想ゲームやってるほうが楽だし、気持ちよく生きられます。あたかもニュートン力学で日常のほとんどの問題が解決してしまうように、妄想だって日常では「使える」道具なのです。むしろ妄想ゲームにこそ、ぐちゃぐちゃに絡み合った政治的対立の解があるような気もします。(山本弘「アイの物語」参照)。

妄想ゲームと政治ゲーム

政治ゲームに自覚的に生きるのも、あえて無自覚的に生きるのも、あなたの自由です。しかし、妄想ゲームか政治ゲームかという単純な二元論では現実を把握できません。政治的にうまく立ち回るためにあえて愚昧な宗教に入信するという打算、環境をとにかく守りたいという盲信がついには国家や経済を動かすという世界情勢などなど……。
妄想ゲームと政治ゲームの相克をいかに生きるか、というのは思想的に大きな問題ですし、私が小説に期待しているテーマでもあります。



参照

・とつげき東北「神話から現実へ!」 相対主義についての簡潔で説得力のある考察です。ただ私はここまで突き抜けられません。 ・[書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣): 極東ブログ 「《真理》性のように議論しても無駄なテーマは考えるな」「自己ルールの再編により個人的幸福を得るべき」というのは本論とかなり近いです。 ・池田信夫 blog : 偽のニーチェ 本当に相対主義を貫くなら、自己啓発カルトも、ニーチェの自己啓発批判も「権力への意志」からくる強者への反逆という点で大差ありません。自己啓発カルトは、たとえその起源が弱者のルサンチマンからくる奴隷道徳でも、信者の中では《真理》として偽装されきっており、それを批判するのもまた権力への嫉妬からくるルサンチマンとして見えてしまいます。とはいえ自分の立場に合わない人をカルト扱いして批判するのは、政治ゲームのプレーヤーとしてたいへん合理的であります。ニーチェ解釈について大きな異論はないです。