行為の事後成立説、再訪:松原隆一郎 評 - 佐藤俊樹 著『意味とシステム』

まぁその..... むにゃむにゃ....
基本的な論点をうまくまとめておられるのではないでしょうか。

「先入観を削ぎ落とし「社会」論じ」ようとするなら、ポモ〜「現代思想」的先入見も いっしょに削ぎ落としたほうがよいんじゃないの?、とかとは思うわけですが。


それはさておき。

 論点は、こんなことだ。既存の「社会システム論」では、社会を部分に分割し、「原子」に相当する「行為」の意味は当事者個人の心理とされている。個人の行為の総和として社会をとらえられる、というわけだ。なるほど研究者が社会を外から眺め全体を見通せるなら、各人の行為に相対的な意義を付与できる。
 ところが研究者も社会の一員にすぎず、社会には外部の世界や内部の集団といった階層がある。外から「全体」を眺められないとき、どうなるか。そう自問したのがルーマンで、
彼は行為の意味は特定されるが「他でもありうる」システムなのだ、と自答した。ところが著者は、社会を「お喋り」にたとえて批判する。「今日の話は全体として〜だった」と強引に要約して打ち切る人でもいない限り、システムにはまとめ上げられない、と。
 確かにそんな仕切り屋は滅多にいない。社会が不特定の人が出入りする場面に近いなら、なおさらだ。お喋りは直前の発言で文脈が与えられ、しかし後に喋る人は文脈を自由に解釈し直して先行発言の意味を変えてしまえる。行為は、単独でではなく、他の行為との関係でのみ事後的に意味が確定される。 今週の本棚:松原隆一郎・評 『意味とシステム』=佐藤俊樹・著

しかし こんなもん、いわゆる「行為の再記述*とアコーディオン効果」という論点でしか**ないですよね。
本当にありがとうございました。

文中「今日の話は全体として〜だった」と強引に要約(して打ち切る) というのは、「反省」に相当する操作。
で、書評のこの箇所は、「システムの存立」という論点を──なぜだか──「反省」という操作に直接連結させて論じてしまう という 佐藤さんの議論のキモ(かつ 独自性(!))をうまく拾ってきていると思います。




* ルーマン語でもって呼びかえれば、「セカンド・オーダーの記述」。

ちなみに、すべてのセカンド・オーダーの記述が「反省」であるわけではありません。こちらの記事も参照のこと:


** 「行為の再記述とアコーディオン効果」なんてハナシはつまらん、といういみじゃないよ。たんに、それを「社会秩序たちの存立」に 直接に対応付けて 論じることが間違っている、というだけのこと。

これ、ソシオロゴス論文でも すでに指摘したことだけどさ....。
まぁでも、ルーマンを、ポモそして/あるいは「現代思想」的にアプロプリエイトしようとする「世代」方々が生き残っているいらっしゃる間は何度でも繰り返し指摘させていただく所存でございますが、

この議論て、

  • 再記述によって行為の「意味」が変わってしまうことがある。

とか、

  • およそどんな行為も、再記述の可能性に開かれている。

とかといったことから、──なぜだか──

  • すべての行為の存立条件は 再記述──事後的な意味確定──である。

という主張を導いちゃってるよね。


そして、そこから、
  • そうである以上、社会的システムなるものは(観察者の構成物としてしか)存立しえない。

なる「帰結」を導いちゃってるわけですなぁ。


だけど、こんな立論が可能なのは、

  • 行為だけではなく・再記述のほうだって、特定のレリヴァンス──「行為の地平」あるいは「社会的システムの構造」──のもとで行われるのだ

ということを無視したうえで、

  • 行為のレリヴァンスを「時間的順序関係***」という観点だけから捉えようとしている

ときだけじゃない?

まさにこうしたことを無視したときにこそ、私たちは「アコーディオン効果」について留保なしに云々することができるようにもなるわけだけど。


*** しかもこの「時間的」って、「物理的」な──あるいは、外的観察者にとっての──時間順序関係のことでしょうし****。
だから、こんなこと──「行為の事後成立説」──が主張されちゃってるときには もうすでに、「意味は──したがって、行為の理解可能性も──社会学の基礎概念である」というルーマンの基本テーゼは、すっかりどっかに ふっとんじゃって・置き忘れ去られちゃってるわけですよ。

タイトルは『意味とシステム』なのになぁ....。


**** ルーマンが──フッサールを踏まえて──、「意味の〈事象的|時間的|社会的〉次元」とかと表現するときの、その「時間的」ではなくて。

時間地平のあり方は「事前/事後」だけじゃないわけだけど、そのことを度外視した場合ですら/少なくとも こうは問えるよね:
  • なんで「事後」だけとりあげて論じるの? 「事前」はどこにいっちゃったの?
そしてまた、
  • 「事象的」とか「社会的」とかはどこにいっちゃったの?
とも。

市野川「人間科学におけるフロイトの意義」

イッチー既公刊論文を俺が(ほぼ)公表順に読むスレ。ちっとも進まねぇ!

  • はじめに
  • 「変質」疑念の系譜
  • 「変質」概念と進化論
  • 「性的倒錯」と「変質」
  • フロイト
  • 結語

■メモ

  • 今日の日本語においても「変質(者)」という言葉が「気質・性格に以上のあること(者)」(『広辞苑』第四版)という意味を持ち続けている由来もモレルに求められる。[p.220]

へー!


フロイトがなかなか出てこねぇ!


他に昨年の日射報告要旨二本

  • 寺田征也「ミードにおける思考と自己」
  • 小宮友根「パフォーマティヴィティ概念の社会学的意義」


■参照文献
[あとで読む] かも。

G.H.ミードの社会理論―再帰的な市民実践に向けて

G.H.ミードの社会理論―再帰的な市民実践に向けて

心の科学は可能か (認知科学選書)

心の科学は可能か (認知科学選書)

 J.ヴィガレロは、主としてフランスにおける強姦罪の歴史をたどりながら、旧体制下での「女性の所有者に対する犯罪」としてのレイプ という概念が、市民革命を経て近代法が成立しても いかに変わらなかったかを記述している(Vigarello 1998=1999)。レイプの「悪さ」は、被害者の女性が誰のものか(結婚しているか否か)、あるいはどのような女性であるか(性経験の多寡)といったことと密接に結びついていたのである。だから、1970年代に米国の各法域で強姦法が改正され、被害者の非同意によってではなく加害者の暴力によってレイプを定義しようという試みが始まったとき、それはレイプという言葉の意味を変える試みであったと言うことができる。すなわち、その言葉がどのように用いられるべきかについての変更を、フェミニズムの議論は迫ったのである。それは、被害者が結婚しているかどうかや、被害者の性経験と結びついて理解される概念であってはならない。むしろそれは「個人」という概念と結びつくべきであり、過去の性経験が詮索されることで「被害者が裁判にかけられる」のではなく、被害者女性の一個人としての権利が侵害されたことこそが裁かれなければならない、というように。
 同様に、婚姻免責が問題とされ、夫婦間にもレイプがあるといわれるときにも、レイプという言葉の意味が争われている と言うことができる。[...] (上掲 小宮配布資料 p.9)
強姦の歴史

強姦の歴史

「レイプの「悪さ」は、被害者の女性が誰のものか(結婚しているか否か)、あるいはどのような女性であるか(性経験の多寡)といったことと密接に結びついていた」ってのは、いまでもあんまり変わってなかったりするよね。

そこで 行為の(記述と)再記述 ですよ。