元になった、「頭がいい」という評価は、客観的なようでいて、凄く発言者の主観的な評価であるところが問題なのだろうな。
車を考える。
「いいくるま」というのは、実は極めて主観的である。
- スポーツカーが、速く走れるからいいくるま
- ワゴンが、荷物を積めるからいいくるま
- SUVが、悪路を走れるからいいくるま
- コンパクトカーが、沢山売れるからいいくるま
- 高級セダンが、利益率高いからいいくるま
みたいに。もちろん、
- 販売は振るわなかったが、新しいセグメントを切り開いたのでいいくるま
というのもあるかもしれないし、
- 試作車が、販売はされなかったけどその技術がフィードバックされた、いいくるま
というのもあるかもしれない。
要点は、スポーツカー好きが、速いくるまをいいくるま、と呼ぶ分にはともかく、そうでないくるまをわるいくるま、と呼ぶと、呼ばれたくるまの支持者がムカつくことにあるのだろう。
ちょっと追記。「形質」と「評価」の違い。
あるモノには、モノに属する「形質」と、その「評価」がある。
クルマの重量とか、排気量、荷台の広さや最低地上高は、観測者によらず一定の「形質」とみていいだろう。
いいくるま、というのは「評価」で、評価者の価値基準によって変わってくる。
「やさしい言葉で説明してくれない人間を私は評価しない」という「評価」の問題が、「彼は頭が悪い」という「形質」問題に置き換わってしまうのが問題だろう。