萩本欽一といかりや長介


先日、松本人志とビートたけしの大物同士の対談がかつてあったことをお伝えしたが、過去にはこれに勝るとも劣らない大物対談があった。
それが、いかりや長介と萩本欽一との対談である。
しかも、時は昭和51年1月。
あの「8時だョ!全員集合」と「欽ちゃんのドンといってみよう!」が同じ土曜8時で激しい視聴率競争を繰り広げ、ライバルとして鎬を削っていた時期である。
それは、「週刊平凡」(76年1月号)に掲載されているという。あまりに興味深い内容なので、この対談の存在を紹介している「笑芸人 (Vol.1(1999冬号))」から孫引きさせていただく。

いかりやが「最近マスコミでは、よくぼくたちがライバルとかケンカしてるとかいわれるけど、ほんとは形が違うから比較にならないんだよね」とぼやけば、萩本は「ドリフターズとコント55号が一緒になにかやると、また別の新しい何かが生まれる可能性があるんじゃないかな」と共演話を持ちかけ、いかりやが九州で観たストリップ劇場のコントの面白さを語れば、「ネタをくれる人がいないから、自分で考えて自分でやる訓練が付いてるんでしょうね。そういう風に考えると、昔からコメディアンというのは実は作家なんだよね」という萩本の含蓄深い一言が出てきたり、逆に萩本が「同じ仲間同士がおたがいにぶつかり合うのはよくないから、長さんとも話し合って『夏の間はオレのとこやめるから長さん“全員集合”やってくれ。その代わり、秋から冬は“欽ドン”やるから長さん、休んでよ』ってことにしたいと考えてるんだよ、ぼくが番組やめるのは、“欽ドン”やってるテレビ局じゃなく、友達である長さんに相談してから決めようと真剣に考えているんですよ」といえば、いかりやも「もうテレビ局にふりまわされるのは、たくさんだという気がする」と現状への不満をブチ上げるのだ。さらに萩本が「たとえば、ドリフターズが番組をやってて、どうも苦戦している。そうすると『マチャアキも、55号も、ちょっと来いよ』といって、応援に行くんですよ。ぼくが“欽ドン”で苦戦しているとすると『長さん、たのむよ、たすけてよ』とお願いするわけ。そんな笑いの人たちの協力があれば、ひとつのものを作るのに、もうひとつのものが盛り上げていくという理想の形になると思うんだけどね」と過激なお笑い統一戦線を目論めば、「とにかく、日本じゅうのテレビ番組を、笑いの番組ばかりで統一したいというのが、ぼくたちの終極の夢だから、おたがいにがんばろうよ」という、さらに輪をかけたビッグな野望をいかりやはカミングアウトさせるのである。

この後間もなく、志村けんが「東村山音頭」でブレイクすると「全員集合」の視聴率が急上昇。「欽ドン」の苦戦が始まる。そして77年3月放送を休止、半年後再開し息を吹き返すが、80年、遂に萩本欽一が「同じ仲間同士がぶつかり合うのはよくない」という言葉どおり、土曜8時から撤退。そして「日本じゅうのテレビ番組を、笑いの番組ばかりで統一したい」といういかりやの壮大な野望を引き継ぐように、萩本は「欽ドン・良い子悪い子普通の子」(月9時)、「欽ちゃんのどこまでやるの?」(水9時)、「欽ちゃんの週刊欽曜日」(金7時)、「日曜9時は遊び座です」(日9時)などのレギュラー番組でテレビ界を席巻することになった。


最後に、志村と仲本工事がノミ行為で謹慎となり「全員集合」存続の危機に陥った時の萩本の言葉を紹介したい。

「こんなことで、ドリフが解散したり、番組をやめないでほしい。もし、万が一、そういうことになるのなら、最後の『8時だョ!全員集合』にはぜひ呼んでくれ。ドリフト一緒に、思いっきり舞台を作って、私もそれを最後に引退する。いつまでもライバルでがんばって欲しいんだ」

笑芸人 (Vol.1(1999冬号))
高田 文夫
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