タモリのマトメ#2(全5回くらい)

■■-っ タモリ辞典 ■■-っ


=さ=


【坂道】
日本坂道学会副会長。東京に数ある坂道に魅せられ、写真を撮りながら
「坂歩き」を続け、そのえりすぐりを『タモリのTOKYO坂道美学入門』
にまとめ出版。
タモリが提唱する、美しい坂道の条件は4点。   

(1)勾配こうばいが急である
(2)湾曲している
(3)まわりに江戸の風情がある
(4)名前にいわれがある      


【ザ・ベストテン】
TBSの歌番組。79年、サザンオールスターズと共演し
「勝手にシンドバッド」のハナモゲラ語バージョンをブルマー姿で熱唱。
80年、ツイストと共演し「SOPPO」を大凧を背負い熱唱。
81年、自身のファースト・シングル「狂い咲きフライディ・ナイト」で
「今週のスポトライト」に登場。


【サラリーマン生活】
23歳の頃、福岡に連れ戻され、以後7年間サラリーマンとして生活する。
はじめの3年は叔父に半ば強制的に入れられた朝日生命の保険外交員。
このとき同じ会社の春子さんと交際開始。
外交員を辞めると大学の先輩が経営する観光会社に入社。
同社が経営していたボーリング場の支配人をやることに。
その後、駐車場や喫茶店の責任者などを勤め、75年退社。


【サングラス】
トレードマークのひとつ。デビュー当時は普通の眼鏡をかけていたが、
ディレクターに何か特徴を、と自分の持っていたサングラスをつけさせ、それが定着する。当初はアイパッチも使っていた。
2004年「Ⅹ’map」(フジテレビ)にて久々にアイパッチ姿で出演。
これをもとにネット上で「タモリの素顔」と称したコラージュが流れる。


【3大セッション】
①福岡にツアーに来ていた山下洋輔らの部屋にタモリが飛び入りで参加した際、
ドラムスの中村誠一と宴会芸で渡り合い完敗を認めさせる。
②ジャックの豆の木における「タモリ教授vsサカタ土方(坂田明)」のフランス文学論争。
③ソークメナーズの志賀高原バス旅行で9時間にわたるバスガイドを披露。


【ジャズ喫茶】
高校時代から博多の「リバーサイド」に通い始める
。大学生になると新宿のジャズ喫茶に通う。
マジメな「DIG」より下品な「ポニー」を好んだ。
サラリーマン時代は天神の「コンボ」に。


【ジャックの豆の木】
山下洋輔、赤塚不二夫、長谷邦夫、高信太郎、筒井康隆らの溜まり場のバー。
山下洋輔により知られるところとなった「森田」という伝説の「九州の天才」を
店に呼ぼうと店のママが発案。
常連客の間で「タモリを呼ぶ会」が結成され、
タモリのための新幹線代が集められる。
75年6月、タモリ来店。四ヶ国語麻雀などの密室芸を披露。
常連客の難しいリクエスト(「中国語のターザン映画」「大河内伝次郎が
宇宙船の中で空気漏れで苦しんでいる様子を韓国語で」など)を即興で実践。
全員が感動しタモリデビューのきっかけとなる。
77年閉店。


【賞】
第12回日本放送演芸大賞(昭和58年)ゆうもあ大賞(昭和61年)
「スイングジャーナル」誌上の「日本のジャズメン人気投票」にて
82年から3年連続で第1位。
早稲田大学の生徒に早稲田出身者で尊敬する人2位(2001年、1位は森首相)。


【全日本冷やし中華愛好会(全冷中)】
山下洋輔とともに旗揚げ。


【早大モダンジャズ研究会】
同期にギターの増尾好秋、ベースの鈴木重夫。
タモリという芸名はこの頃の仲間達がつけたあだ名から。
当時、言葉を逆さまに読むジャズマン言葉が仲間内で流行っていた。
ここでタモリは一流のトランペッターを目指すも
「おまえのトランペットは泣いているんじゃなくて笑っているようだ」と
言われ挫折。結果、マネージャー兼司会に。大学除籍後も続け、
その名司会ぶりは当時「大学解放バンド合戦」の司会を務めていた
大橋巨泉にも誉められる。
年に300ステージほどをこなしかなりの収入があったらしい。


【空飛ぶモンティパイソン】
タモリ初のレギュラー番組。テレビ東京。1978年4月9日放送開始。
ほぼ毎回「TheTAMORIshow」なるコーナーで「四ヶ国語麻雀」や
インチキ外国語などを披露。


【空耳アワー】
「タモリ倶楽部」の名物コーナー。
「誰が言ったか知らないが言われてみれば確かに聞こえる空耳」を
安斎肇とともに味わう。「高橋力」など常連の存在も。


   =た=


【喩え上手】
「受精が雑」(ほんこんなど不細工な顔の人に)
「顔がゲタ」「軍人顔だよね」(ともにおすぎに)、
「ハマコーの孫みたいな顔」(ネゴシックスに)、
「シンドラーのリストみたい」(ガリガリの体を見て)など。
>>タモリのたとえ集「てれびな?」  


【TAMORI】
1977年3月20日、東芝EMIから発売されたファーストアルバム。
ラジオ放送の形を取っている。
サウンドエフェクターは赤塚不二夫(漫画家の赤塚氏とは別人)。
「中国を茶化した」としてレコ倫規定に触れ発売中止になっていたが
一部内容を改訂して発売。95年6月16日アルファからCDが再発される。
他、発売されたレコードは「TAMORI2」(78年)
「TAMORI3−戦後日本歌謡史−」(81年)「ラジカル・ヒステリー・ツアー」(81年)
「HOW ABOUT THIS」(86年)。
シングルは「狂い咲きフライディ・ナイト」(作詞作曲は桑田佳祐)
「タモリのワークソング」(ともに81年)


【タモリ倶楽部】
82年10月8日(「笑っていいとも!」放送開始のわずか4日後)放送開始の
「毎度おなじみ流浪の番組」。
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【誕生日】
1945年8月22日。名司会者みのもんた、土居まさるも同じ誕生日。あと、なべやかんも。


【適当】
座右の銘。名言「やる気のある奴はこの場から去れ!」もこの思想から生まれたと
言っていいだろう。
他、類義語に「俺は努力ということをしない」「番組を長く続けるコツは、
反省しないことだ」


【徹子の部屋】
テレビ朝日の長寿番組。77年8月11日初出演。以降年末恒例ゲストとして毎年出演。
いまではほとんど見る機会のない密室芸の見れる番組。


【鉄道】
鉄道好き。「俺たち電車乗りに言わせるとさ…」等とも言う。特に「線路」ファン。線路の形、分岐とか見てるとこんなに綺麗な物は無いと思った。


【友達の輪】
「笑っていいとも!」テレフォンショッキングにおいて、翌日のゲストを呼ぶ際のかつての決まり文句。
「友達の友達は皆友達だ、世界に広げよう友達の輪、わっ!」


【トリビアの泉】
八嶋智人、高橋克実司会の人気深夜番組。
ゴールデン進出の際、「無駄知識の探求者」としてレギュラー品評会長に。
ちなみにこれより前に「タモリ倶楽部」にて、同番組のパロディー企画
「エロビアの泉」をやっていた。