ところで,日本でも差別的表現を立法によって規制すべきだという主張がある。たしかに,現在の日本でも差別的表現が存在しており,なかにはかなり悪質な内容のものがあることも事実である(124)。そしてこれらの差別的表現が,その表現の対象とされた人びとを苦しめ,心ある者にとって憎むべきものであることは疑いない。問題は,日本においてこうした差別的表現が公権力による規制の対象とされて良いかということである。
日本で実際に問題となる差別的表現は,投書,落書きやインターネットによる掲示板への書き込みといったものが多いようである(125)。これらの内容の悪質さは別として,これらの差別的表現は,米国のヘイト・スピーチの事例とは随分と趣を異にする。米国においてヘイト・スピーチを規制できると考えられるのは,そうした言論が暴力・暴動を惹起し平穏を害する場合か,歴史的経緯からしてある象徴的言論が真の脅迫や身体的暴力に該当すると評価できる場合であった。一方,日本における投書,落書きやインターネットなどにある差別的表現は,米国の事例のように,暴力・暴動を引き起こし平穏を害すると言えるのであろうか,また歴史的経緯から言って真の脅迫や身体的暴力と評価できるのであろうか。また差別的表現による暴動の惹起は,具体的危険を生じているのであろうか。
本来であればこれらについても綿密な検証を要するが,少なくとも現時点では,日本の差別的表現がこのような性格を持つものとはにわかに肯定できないように思われる。また仮に肯定できるとしても,規制が合憲であるためには立法事実の存在が必要であるから,差別的表現が暴力・暴動の惹起を生むこと,または脅迫・暴力に当たることにかんする立法事実の存在が示されなければならない。そうでなければ,差別的表現に対する規制が正当化されるために,暴動惹起などとは全く別の立法事実の存在が必要である。差別的表現の規制に賛成する場合,これらについての説明が求められよう。
http://www.senshu-u.ac.jp/School/horitu/publication/hogakuronshu/96/96-enoki.pdf
(あくまてきぎしきぎゃくたい)とは1980年代に起こった虐待の告発ケースである。しかし現在は多くはモラル・パニックに過ぎなかったと考えられている。
アメリカ合衆国では何万人もの子供達が悪魔崇拝者らによって虐待され殺害されていると考える人が少なくなかった。現在もそのような認識を持つアメリカ人は少なくないが、FBIなどの統計上はそのような事実は認められない。FBIは結局国内で悪魔崇拝者らが幅広く虐待を行っているという事実はない[1]と結論を下している。これはアメリカの特に宗教に熱心な地域社会で広まったものであるということで、悪魔崇拝者のレッテルを貼られた者に対する文字通りの現代の魔女狩りに過ぎなかったといわれる。
1983年のマクマーティン幼稚園事件でもこの悪魔崇拝者らの儀式的な性的虐待が話題となったが、全員無罪となった。また、抑圧された記憶を回復記憶療法により思い出したとされる人たちもこのような記憶を持つ人が少なくなかったが、1990年代に虚偽記憶の問題が浮上し、こういった話がセラピストの催眠により作られた記憶であった可能性が高い事が分かると、多くの人が一般にこういったことが行われているという自説を撤回せざるを得なくなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E5%B4%87%E6%8B%9D%E8%80%85%E3%82%89%E3%81%AE%E5%84%80%E5%BC%8F%E7%9A%84%E8%99%90%E5%BE%85
アメリカの論争の際にもハーマンはこのように猛反撃をします。
「長年の間、隠蔽されていた犯罪が暴露されるときには、社会にはその事実に反発しようとする動きが現れるものである。これは独裁政治が行なわれていた国で、拷問などの事実が暴露されたときの社会の反応に観察することができる、今日においては、わが国において『記憶の回復』に対する反発に同様の反応を見ることができる」
ようするにこの人は(彼→この人に修正 失礼しました女性だそうで)、こういいたいわけです。「性的虐待を受けた人間や性被害にあった人間を愚弄するのか、そんな人でなしは、ナチスだ、ファシズムだ、この非国民!」と。ハーマンはのちに多くの事実によって失墜します。
悲劇にまつわる「当事者被害者意識」は違う問いを立てようとするものの口を封じる役目に意図して出されます。そして意図しない場合でもそういった効果を生み出してしまうのです。
「忘れないで」ということ|女子リベ 安原宏美--編集者のブログ
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10012210484.html
関連記事
・(メモ) ジュディス・ルイス・ハーマン
http://civilliberties.blog63.fc2.com/blog-entry-960.html
禁欲的な強迫性人格障害者は、日常生活でサディスティックな攻撃衝動や怒りを抑圧していますが、『相手が道徳や法律に違反している』というような大義名分があれば、その攻撃性や怒りが解放されてサディスティックな性格行動パターンを示すようになります。
中世の聖職者階級や近代の労働者階級、現代の原理主義者(道徳主義者)などに禁欲的なタイプの強迫性人格障害が見られ、『社会規範(法規範)・労働道徳・宗教教義』などを絶対的な判断基準として、そこから逸脱した人物を徹底的に糾弾して処罰することに快楽を感じます。
世界と人間を善・悪に二分して自分が禁欲的な生活をすることで『善の立場』を手に入れ、『悪の立場』にあると認定した人物を厳しく攻撃して罰則を加えるというのが禁欲的なタイプの典型的なパターンです。
その心理の本質は『抑圧した怒り・攻撃性・不満の解放=ルサンチマン(弱者の強者に対する怨恨)の充足』にあり、これだけ禁欲的な我慢をしたのだからそれなりの満足や快感が欲しいという補償の防衛機制も関係しています。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/griffin/obsessive.html
さらに、レズビアン・フェミニストは異性愛における性交を、男性の女性に対する支配を社会的に構築したものだとし、その本質をレイプと位置づけた。性交における男性と女性の位置関係は、男性が上位になるように構造化され、この構造は経済や社会といった社会的領域のすみずみまで波及しているとのべる。
(略)
このような思考は、社会を支配する構造を先験的に立てて、あらゆる現象をそこから演繹的に価値評価する思考形式なので、「形而上学的思考」と呼ぶことができる。この思考様式の元では、人がある現象をどのように意味づけているかに関わらず、そのことを価値評価することが可能になってしまうのである。フェミニズムの場合、この構造を家父長制と措呈しているといえる。そして、性別に基づくさまざまな現象や近代知の啓蒙主義的価値観を、家父長制という構造から演繹的に価値評価しているのである。
(略)
ところが、フェミニズムはラディカル・フェミニズム以降、リベラリズムを主要な論敵とみなしてきた。家父長制を再生産させるとして、リベラリズムの解体を主題としたのである。フェミニズムが近代批判を貫徹するためには、このプロセスは必然的にもたらされる帰結であったといえる。
http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2005-03.pdf
いやけっきょく、けっきょくですね、宗教っていうものが、なにかこう、ひとつの、絶対的な正義とか善とか、そういうものを定義すると、それ以外ぜんぶ悪になっちゃうという、その正義と、その正義の追求が激しければ激しいほど、悪魔も、もう、ものすごい悪魔が出てきて、じゃこれやっつけなきゃいけない、と。
だから、これが、教団においては、絶対的な正義・善が麻原で、その追求、それがものすごく正義なんだと。で、世の中は、もう、真っ黒で、もう悪魔に支配されているんだと。
これ、世の中はね、もう、このままでは滅びると。滅びる、滅びる。そのうち、滅ぶぞ、滅ぼすぞ!というね、あの、そういう形になっちゃって、自分でこう、滅ぼしてしまうというね、そういうことだったんですよね。
野田成人(元オウム真理教幹部)
http://www.ustream.tv/recorded/8415379
「ラスキの価値重点の著るしい移動が実に『文明論』〔『信仰・理性・文明』〕の全体を貫くトーンを『現代革命論』〔『現代革命の考察』〕を含めてのそれ以前の著書からかなりハッキリと異ならしめているのである。例えば『革命論』では、まだ相当強調されていたスターリン政権に対する西欧民主主義の立場からの批判は『文明論』においては背後に退き、むしろ「独裁」のアポロジーに終始している感がある。
・・・社会主義的な考え方の否認がまだまんえんしているような雰囲気の中では、ソ連の共産党は、その信仰の中心観念を到底選挙人の偶然な決定に委ねるわけには行かないのだ。西欧民主主義では批判の自由が許されているのは、批判の自由が変更の自由にまで発展しないという安心感があるためで、この安心感が一朝括ぐと、たちまちにして露骨な国家権力の発動が支配層から要請されることは幾多の実例で証明されている。ソ速の実験は究極において「人間の造りかえ」であり、それは利潤獲得原理の上に立った全世界への挑戦である
・・・ソ連の実験がいかに大きな挑戦であり、いかに大きな憤激を旧世界の人々にまき起したかは想像に余りがある。一方の憤激は他方の憤激を呼ぶ。憤激と恐怖の心理が拡がっている条件の下では、新しい原理を同意と説得による政治に基礎づけることが可能な段階にはまだ達していないのだ。「ソ連の官僚主義、政治的発言の自由への妨害、大規模のテロ、党の無誤謬性に関する醜いビザンチン主義ーーこうしたことに対ずる一切の抗議が出揃った後においても、ソ連では十月革命以後、世界のどこよりも多く自我を実現する(self-realization)チャンスをもっているという厳粛な真理は否定すべくもない」ーーこれが、一切のプラス・マイナスを計算した上でラスキがロシア革命に与えた勘定書である」
丸山眞男「現代政治の思想と行動」
(4)小活
「しかし、周知のごとく、残念ながら我々は、自分のアイデンティティの一部である企図やプランを危険にさらすような行為をすることがしばしばあり、そのような場合、パターナリズムは完全性の侵害とはならないであろう.」128
「・・・あるものにとっては些細な介入と思われることも、他の人にとっては大きな介入と思われることがあることに注意すべきである」
→「パーソナル・インテグリティ」は個別的であるということ.
7 パターナリズムに課せられる制約
(1)自由を制限することのもっとも少ない選択肢が優先されるべきである.
「パターナリズムを論ずるに際しての一番の問題は、それが自由に対する強制を含んでいるという点にある.他者への押し付けは、自由を侵害する程度が低ければ低いほど良いのであって、例えば、Aの身体を侵害から守るためにXとYという二つの方法があり、Xという方法の方がAの自由を制限する度合が少ないといった場合には、他の条件が同じである限り、選択肢Xが優先されるべきである.」129
(2)受手自身の善についての考え方と一致しているパターナリスティックな押し付けには有利な推定が存在する.
「モラリズム的ではないパターナリスティックな押し付けを受け入れることができるのは、それが被介入者のすでに有している目的や企図やライフ・プランをさらに増進させようとするものだからである.」129
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1980/8300kj.htm
Ferberのように、言論そのものが性的虐待の記録である言論とは対照的に、CPPAは犯罪を記録したものでもなく、生産の際に被害者が生じない言論を禁止する。ヴァーチャル児童ポルノは、子供の性的虐待と“本質的に関連する”ものではない、Ferberの素材だった。458 U.S.,at759. 政府はそのイメージが性的虐待の実例を導くことを主張するが see infra, at 13-16 、因果関係は、不測であり、間接的である。その被害は、その言論から必然的に起こるのではなく、その後の犯罪行為の数量で表せない可能性に依るものである。
政府は、Ferberが児童ポルノはめったに価値のある言論にならないと認めているのだから、これらの間接的な被害で十分であると言う。 See 458 U.S.,at 762(“少数のものを除いて、子供がわいせつな性行為に従事している実演や写真の複製を許可することの価値は非常にささやかである”)しかし、この論拠には2つの弱点がある。1つは、児童ポルノについてのFerberの判断は、それがどのように作られたかに基礎をおいたものであり、それが伝えていることにはおいていなかった。この件は、言論がわいせつでも性的虐待の産物でもないとき、修正第一条の保護の範囲外にはならないことが再確認された。 See id., at 764-765 (“性行為の記述や他の描写の頒布は、他の点ではわいせつでなければ、また、実演や写真や他の実演の映像複製物を含んでいなければ、修正第一条の保護が及ぶ”)
http://homepage2.nifty.com/dreirot/column/porno.html
戦前の日本では何より治安維持法が記憶されるべきでしょう。同時に、その立法にあたってたとえばつぎのような指摘があったことを、その説き手の社会的地位とあわせて思い出すことは、テロに対する「安全」を求めることが自由と、ひいては権力からの安全をも危うくするという二一世紀の難題に照らしても、大切なことではないでしょうか。
「・・私は決して共産主義でもなく、決して無政府主義者でもございませぬが、尚ほ此法案を惧れるのでございます。特権階級中の特権階級である我々が、本案ににわかに賛成いたさない意思を表明いたしまするのは、余程勇気を要する次第でございます、併し敢てここに私がそれを致しまするのは、或は此事が杞憂かも知れぬ、また杞憂であれば誠に幸と存じますが、本法実施の暁に於きまして、治安維持の目的が、却て反対の結果に陥りはしないだらうかと云ふことを、私は惧れるのでございます、・・之を立案いたしました方、立法者に於きましては成程、明瞭で以て何等の疑を挟む所はございますまいが、之を実際に用いますのは立法者ではございませぬで、又必ずしも立法者と同じ心を持って居る者ではないのでございます、実際、此法を用います者は裁判官でも至って少いのでありまして、多くは警察官でございます、必ずしも之を誤って用いることなしとせないでございます、外の法律と違ひまして、峻厳極まりないものでございまするが故に、一たび誤って用いました結果は誠に恐ろしいものでございます・・」(1925年3月19日、貴族院、徳川義親侯爵)
樋口陽一(2006)「日本国憲法」まっとうに議論するために(みすず書房)