ソーシャルゲームとキャバクラの違い

ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足ここ最近、ソーシャルゲームと呼ばれる新ジャンルのゲームを提供するGREEやDeNAといった企業が、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでもって、快進撃を続けている。

ゲーム関係で言うと、私は、例えばリア充コミュニティにあっては「あいつちょっとゲームヲタっぽいよね」と微妙に囁かれる程度のいわゆる半可通なのだが、ことソーシャルゲームに関して言うと、割と早くにガラケープラットフォームから決別したこともあって、比較的縁遠い生活を送っていた。半可通ならではの「あんなのゲームとは呼べないでしょ」的な見下しもあったかもしれない。

ところが、GREEの時価総額6000億円はいまやゲーム業界では任天堂に次ぐ2番手であり、その任天堂の時価総額も大部分は単にその豊富な現預金によって裏付けられたものであるから、GREEは実は、事業の価値だけで考えるならば既に任天堂をも上回っているとさえ言える。GREEを何かに例えるなら、プロ2年目若干18歳でいきなり賞金王に輝いた石川遼のようなものだ。古参は何をやっているのだ、古参は。

いくら個人的に縁遠いとは言え、ここまでの急成長を見せつけられるとビジネスとして注目せざるを得ないというか、どんな形でもいいからあやかりたいというスケベ心が芽生えるのが人情だ。このたびは、そうした不純な動機から「ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足」という書籍を拝読してみた次第である。

なお、新しいものを学ぶときにとりあえず実際にやってみるのではなく、まず書籍から入るというのは老化現象の一形態だとは思うが、まあ実際問題老化しているので仕方がない。

ソーシャルゲームの"ゲーミフィケーション"

さて、同著によれば、ソーシャルゲームにハマる理由は、大きく分けて2つの仕掛けに集約されるということだ。

2つの仕掛けのうちひとつは可視化とフィードバックのサイクル、もうひとつがソーシャル・パワーという謎の力として整理されている。同著の基本的な構成は、これらのフレームワークをゲーミフィケーションと称して事例を交えて解説するとともに、同フレームワークはあらゆる場面で活用が可能なのだと続けることで、ソーシャルゲーム発展の大義を見出そうとするものだ。

ただ、このフレームワークの前者、即ち可視化とフィードバックは、要するにステータスやランキングを可視化すること、及び目標達成時に達成感を味わえるような演出を導入することなどによってプレイヤーのゲームに対するモチベーションを維持させる仕掛けのことを言うらしいが、それは何もソーシャルゲームに限った話ではなく、古くファミコンの時代からあまねくゲームとはそういうものである。

GREEが提供する人気ソーシャルゲーム「釣り★スタ」では、「釣り日誌」と呼ばれる画面において、プレイヤーのアバターと共に過去の釣果数や現在の称号(何段とか)、釣った魚の魚拓などが可視化され、また、段が上がったり新しい魚を釣り上げた時などには演出効果が施されることで、プレイヤーのモチベーションに働きかけるのだそうだが、これを聞いて「なるほどよく考えたな」と思う人(いないと思うが)はゲームをやったことがなさ過ぎだろう。ドラクエのレベルアップ音を携帯メールの着信音に設定する人が一時大量発生していたが、あれはドラクエのレベルアップ時の快感が人々のドラクエ体験を決定的に印象づけていることを端的に表しており、演出効果の歴史が一朝一夕でつくられたものではないことを物語っている。

ソーシャルゲームが携帯電話などのゲーム専用ではない端末で主に提供されていることからも明らかなとおり、そのグラフィックなどは既存のコンソールゲームに大きく劣ると言わざるを得ず、そうであれば可視化やフィードバックと言った演出面での仕掛けにおいてソーシャルゲームが得るものは、どちらかと言うとむしろディスアドバンテージだろう。そうした既存のゲームに劣る部分を、同著が言うソーシャル・パワーのような新しい仕掛けで補っていると考えるのが妥当なのではないか。

ではそのソーシャル・パワーとやらが一体何かと言うと、プレイヤーを他のプレイヤーと協力して目標に挑ませたり、逆に目標の達成のために他のプレイヤーと競わせたりすることによって生み出せられるエネルギーのようなものを指すらしい。

前掲の釣り★スタでは、ギフト専用アイテムのプレイヤー間でのやり取りを始め、他ユーザーとのチームでしか参加できない「大会」の存在など、プレイヤー同士を交流させる各種仕掛けが、プレイヤーのモチベーションを醸成するソーシャルパワーとして機能するのだそうだ。

なるほど、既存のコンソールゲームなどでも当然友達同士で集まってゲームの情報を交換したり、協力して知恵を出し合ったりする場面はあるものの、それは必ずしもゲーム提供側がゲームに組み込んだものではないし、何より現実に一堂に会さないといけないという意味でハードルが高かった。この点、携帯電話の通信機能をうまく活用することで、幅広く、いろんな人が、気軽に集えるようにしたというのは、ソーシャルゲームの最大の特長と言って差し支えなさそうだ。うむ。

顧客は何を求めているのか

それでは、このソーシャル★パワーの仕掛けによって、ユーザーはどのような便益を得ているのだろうか。

我々門外漢には驚きの事実だが、例えば釣り★スタの竿は、買うと大物を釣り安くなるものの、なんと何回か使うと壊れてしまうというものだそうだ。上州屋で販売したらクレームが殺到するのではないか。だから、とにかく大物を釣りやすい状態を維持するためには、継続的に課金に応じ続けないとならないらしいが、こうしたアイテムに、毎月数万円単位を支払っているプレイヤーも少ないくないと言う。そうした人々は余程大きな便益を得ているのだろう。

この問いについても、同著に答えが用意されている。それはつまり、承認欲求の充足だと言う。

承認欲求とはつまり、我々が常日頃抱く「誰かから認められたい」という感情のことだ。チームで協力し合うような設計のソーシャルゲームでは、ステータス値の高いプレイヤーはそのチーム内で頼られ、必要とされる存在になるし、逆にプレイヤー同士が競い合うゲームでも、競争の結果獲得したステータスは自己表現としての意味を持ち、他プレイヤーからの称賛を得ることができる。これらがユーザーの満足感につながっているということだ。

要するにソーシャルゲームの重課金プレイヤーは、偏にチヤホヤされたいがために、ゲームを有利に進めることができる「アイテム」にせっせとカネを払っているということに他ならないわけだ。そして、それと似たようなサービスとして私のような頭が老化したオジサンが真っ先に思いつくのが、キャバクラなのである。

キャバクラ。

皆さんご存知の通り、場所代と極端に割り増しされた飲料代とを絶え間なく払い続けることによって、その間に限りキレイに着飾った美しい女性が、お酌をしながらチヤホヤしてくれるサービスである。

人々が何かにカネを払うとき、その根底に他人からチヤホヤされたいという性根があるケースは極めて多い一方で、あまりに商品自体の価値からかけ離れ、チヤホヤに対して直接対価を払っているとしか考えらないという意味で、キャバクラにおけるドンペリ(ピンク)と釣り★スタの三倍竿は極めて特殊であり、それが故に似通っている。

そう思って少しネットを検索したところ、以下の興味深い体験談がすぐにヒットしたので嬉々として紹介したいと思う。

番組では、実際にソーシャルゲームに大金をつ ぎ込んでいるというユーザーの声が紹介される。
「あるゲームに累計300万円弱を課金していま す。常にステータスをMAXにしておかないと サイト内の上位者として君臨できないので、毎 月10万円以上は払っています。 そんな自分に少し酔っています。ただ、このゲー ムを始めてからキャバクラに行かなくなったの で、 安上がりかなと思っています」
ソーシャルゲームに300万円つぎ込んだ男「キャバクラより安上がり」 - Ameba News [アメーバニュース]

そう。実際、ソーシャルゲームとキャバクラはリプレースが可能なのだ。

ソーシャルゲームの持続可能性

ソーシャルゲームとキャバクラは、一見すると非常に似ているというか、ユーザーにとっては代替製品となり得ているわけだが、運営側からすると、実は非常に大きな違いがあるように思う。それは、原価率だ。

キャバクラの運営に際しては、店側は顧客をチヤホヤする女の子に対して多額の報酬を払う。ところが、ソーシャルゲームにおいて重課金のヘビーユーザーをチヤホヤする役目を担うライトユーザー層は、一切の報酬を受け取ることがない。これは、よくよく考えると歪な構造である。

そこでは明らかに、実質的な価値の移転が起こっている。チヤホヤされたいヘビーユーザーは、ライトユーザーがいるから自らの欲求を満たすことができている。にも関わらず、ヘビーユーザーが払うカネは全部胴元の総取りに遭い、ライトユーザーには一円も還元されない。そりゃあ胴元は儲かるはずである。GREEの営業利益率は実に50%に及ぶ。

この歪さから生じる負担は、おそらくライトユーザーのソーシャルゲーム離れというかたちで顕現することになるだろう。「結局毎月毎月バカみたいにカネを注ぎ込んでいる一部のプレイヤーにデカイ顔されるだけで何もいいことないよね」とライトユーザーたちが気づいた時点で、ソーシャルゲームのエコシステムは瓦解することになる。これは、10年ほど前に一世を風靡した格ゲー業界で起きたことの相似系だ。ヘビーユーザーの存在自体がライトユーザーにとっての参入障壁になってしまうと、結局市場は縮小してしまう。

冒頭紹介した「ソーシャルゲームは…」に面白いエピソードが載っていたので紹介したい。

ゲームを遊ぶというよりは、ゲームを通じてコミュニティに参加する、あるいはゲーム内の友人とコミュニケーションを取るということが、ゲームを遊ぶ目的になってきます。実際、釣り★スタの上級者インタビューにおいて、あるプレイヤーは、チームのモチベーションを維持するために毎月有料アイテムをチームメンバー全員(30人とのことです!)に自腹を切ってプレゼントしていたとのことでした。現実の世界でも、上司が部下に食事をおごって日ごろの仕事ぶりをねぎらうということがありますが、バーチャルなコミュニティでも同様の現象が起こるというのはたいへん興味深く思います。
P.97 4-5 ソーシャルパワー:ソーシャルアクションの活用

まるでソーシャルゲームにおけるコミュニティの結びつきの強さを誇るかのうような語り口だが、ここで語られているような出来事が象徴することはまったく逆だ。即ち、ライトユーザーは放っておくとゲームに飽きていなくなってしまうから、ヘビーユーザーは身銭を切るくらいのことをしなければ、自らの地位を維持することができないのだ。

そういう意味で、ソーシャルゲームの原価というのは、ライトユーザーに無料でゲームを提供するための開発費用と、無料と煽ってユーザーをかき集めるために乱発されるTVCM費用ということになる。繰り返すが、ライト層が永遠に流入し続けないと、課金ユーザーのインセンティブが減っていき、結果的に売上が減少することに繋がるためだ。ただ、いくら無料だからと言ってもつまらないゲームをいつまでも続けるものでもあるまいとは思うのである。

任天堂の岩田社長は、ソーシャルゲームについてユーザーとの長期的な関係が構築できないのではないかと言っていた。これはもしかすると、上述したような歪な構図を指してのことだったのかもしれない。実際今のような収益を将来にわたって維持するということは、不可能に近いのではないかと私も思う。

結局、持続可能性を重視すると、ライトユーザーに提供する価値=原価を高めていくしかないだろう。

端的に言うと、グラフィックや演出レベルの向上であり、開発費の上乗せを意味する。要するに、「こんなリッチなゲームが無料でできるなんてほんとスゴイ」をつくっていかないといけない。安かろう悪かろうではいずれ飽きられてしまう。サプライズを与える必要がある。

ただ、ソーシャルゲームはこのサイクルに嵌った時点で、基本的に既存のゲーム業界と同じ道だ。開発費が高騰し、リスクを取りきれなくなった開発会社は、大作モノの続編ばかりつくるようになる。そのことは中長期的にライトユーザーのゲーム離れを引き起こし、いずれまた新しい事業者がイノベーションを引き下げて参入してくると、ライトユーザーを根こそぎ奪いとられてしまうだろう。任天堂は、過去PS陣営に奪い取られたライトユーザー層を、DSで見事に奪還した。いま、ソーシャルゲームに流れて行ったライトユーザー層についても彼らが奪還を狙っていることは間違いなく、それが実現する日もないとは言えない。


まあ正直なところ、ソーシャルゲームとは縁遠い老化した元ゲーム好きの半可通としては、どうでもいいと言えばどうでもいいわけだけど、 いち日本国民としては、折角国内で蓄えた潤沢な利益を、海外展開による成長性アピールくらいの理由で、わけのわからない国のわけのわからない開発会社に突っ込み、結果として溶かしまくることだけはご勘弁願いたいというか、もったいないなと思うばかりなのであった。

参考

ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足
深田 浩嗣
ソフトバンククリエイティブ
売り上げランキング: 1695

上述の通り、約半分は「それソーシャル関係ないでしょ」な内容ではあるものの、事例を交えた解説は門外漢にもわかりやすい。最近の話題にことごとく乗り遅れていて、いっそのこと若い人に人気があるものは全般的によくわからないというスタンスに移行してしまおうか迷っているオッサン諸氏にはお勧め。