なぜいまどきの大学生はバカなのか
【追記注意】こんな釣りタイトルつけちゃったけど、これは「いまどきの大学生はバカだ!」って主張するエントリじゃないからね!【追記注意】
久しぶりに更新します。
スレの内容:1は企業の採用担当。面接で大学生がドヤ顔でテンプレ解答繰り出してきて辟易。テンプレじゃない質問をすると、しどろもどろになるか、あるいは全然噛み合わないテンプレ解答を述べる。その場で自分の頭で考えたことを述べる、ということができない。5、6年前から酷くなり始め、ここ2、3年でさらに悪化したと感じている。
で、スレタイの「大学生ってなんであんなにバカなの?」である。この採用担当者の葛藤はすごく良くわかる(入試の面接で同じようなことを感じない大学教員はいないと思う)。だけどこのスレタイ、今時の若者論の例に漏れず、修辞疑問である。形式は「なんで?」となっているが、真の意味での疑問文ではない。つまり、本当に「若者がバカなのはどうしてか」を問うているのではない。表現したいのは若者disであり、結果としてスレには反感が溢れることになっている。
人に何かを教えたり、評価したりする立場になるとよく陥るのがこの、「なんで〇〇ができないの?」という修辞疑問である。「◯◯ができない」ことが確かに問題であるのならば、その原因を明らかにして対策を練らなければいけないはずだ。しかし、往々にしてこのレトリックは単なる愚痴かdisに終わってしまう。というわけで自戒もこめて考えてみたい:「どうしていまどきの大学生は、面接の場で自分の頭で考えたことを表現することができないのか?」
最も大きな原因の一つは、「自信の無さ」あるいは「怯え」ではないかと思う。自分の経験から考えると、就職面接で思ったことを言えるためには、「仮にこれを言ったことで落とされるのであれば、それは仕方がない」と思える、ということがとても大事だ。自分の考えが(大きく)間違ってはいないという自信。だから、これを言ったことで落とすような会社であれば別にそれで構わない、という余裕。そのような自信、あるいは気持ちの余裕がないと、「これを言って落とされたらどうしよう」「これを上手く言えなくてバカだと思われたらどうしよう」という不安に付きまとわれることになる。そんな不安を抱えながら、自分の考えを初対面の面接官に朗々と述べられる学生なんているはずがない。結果として、「落とされたらどうしよう」という不安を減らすために、予め用意してきたテンプレ解答に頼ることになる。
ではなぜ、大学生はそんなに怯えているのか。外的な要因と内的な要因が考えられる。外的な要因としては:
1. 生まれた時から不景気で、周りに「やりたいようにやって社会的に成功した」モデルがいない
2. 子供の頃から「ゆとり」と揶揄され続けている
3. 就職氷河期。新卒採用を逃したら人生終わり、と脅されている
4. 可視化された同調圧力
などが思いつく。1〜3は自明と思われるので、4について。ここ最近のテレビ番組で僕がとにかく気になるのが「ワイプ」の乱用である。画面端の矢口真里が、「ここは笑うところですよ」「ここは泣くところですよ」「これはスベってますよ」とシグナルしてくる、あれが非常に邪魔臭い。「あなたはどう感じるべきか」を規定しようとするような、すごく不気味な同調圧力を感じる。そもそも同調圧力には定評のある日本社会である。その上テレビという娯楽においてすら、「この人と同じように感じなさい」というメッセージにどっぷり浸けられてきた世代。彼らが、自分がどう感じたのか、どう考えるのかを述べるのが怖いのは無理もない事に思える。
つまり今の日本の社会というのは、一貫して「いまどきの大学生」が自分の思うところを自信を持って述べることを阻害している、と言える。それでいて彼らは「なんでバカなの?」ってバカにされるんだから、まあひどい話だ。これは非常に深刻な環境的ハンディキャップであり、上の世代が「俺達がお前らの年の時はできたぞ」と言うのはアンフェアすぎる。「俺達ができた」のは、俺達がいまどきの大学生がしていなかった特別な努力をしてきたからではない。環境がそれをすることを許していただけに過ぎない。
それで、内的な要因。これは結局、「上記1〜4のような環境的ハンディキャップを跳ね返すだけの成功体験の欠如」ということになるだろう。自分の思う通りにやってみたら上手く行った、自分の思うことを真摯に述べてみたら相手が納得してくれた、そういった体験を少しずつ、何年もかけて積み重ねていってようやく、「自分の思ったことには言ってみる/やってみるだけの価値がある」と思えるようになるのではないだろうか。ここで要求される成功体験の質と量は、過去の日本の若者が必要としたそれよりもずっと大きなものになっているはずだ。つまり、子供を昔と同じように育てるだけでは全然足りなくなっているのだと思う。
じゃあ、どうするの?やっぱり、学校が頑張るしかないだろう。特に、学生が自分で自分のやりたい事を選べる大学の責任は大きい。大学の選択、学部学科の選択、専攻の選択、授業の選択、指導教員の選択、さらには授業中に手を上げるかどうか、授業後に質問しにいくかどうか、それぞれの場面で、「これを選んで良かった」と思わせられるようにしなければいけない。選んだこと、特に難しい方の選択肢を選んだことが、最終的に学生に成功体験として残るようにしていかなければいけないんだと思う。簡単なことではない。難しい方の選択肢に伴うリスクを、大学側が受け持ってやらなければいけない。学生が難しい選択肢を選んで失敗したとき、その失敗をカバーしてやらなければいけないのだ。これはとんでもない手間がかかる。なるべく行動しない、多数派に合わせて流れていく学生のほうがずっと楽なのである。しかし、それでもやらなければいけないことだと思う。
最近アル・パチーノがやたらかっこよくて、『セント・オブ・ウーマン』を見た。退学にするぞと脅されながら、クラスメイトに不利な証言をすることを拒んだ高校生チャーリーについて、パチーノ扮するスレイド中佐は、全校生徒を集めた裁判の場でこんなことを言う:
「私の人生にはいくつもの岐路があった。私はいつでも、どちらが正しい道なのか分かっていた。でもその正しい道は選ばなかった。なぜか?「正しい道」はあまりに困難な道だったからだ。ここにいるチャーリーも人生の岐路に立った。そして、彼は正しい道を選んだ。彼にこの旅を続けさせてやれ。彼の未来を守れ。」
困難な道を選ぼうとする若者の未来を守ろうとする時、我々もまた困難な選択を迫られる。今若者が怯えているのは、我々がその困難な選択において、楽な方を選び続けてきたからではないだろうか。