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2015年4月11日土曜日

科学と差別について(2) あるいは「低線量被ばく」の問題について

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 (「科学と差別」に関する議論の続きとして…)


 「差別」やヘイトスピーチは、近代的な民主国家において事実上、言論の自由に制限を加えることができる、数少ない根拠のひとつになる。
 そのため、何が差別にあたるのかは極めて慎重に見極める必要がある。


1)
IMG_1444  「言論の自由」、つまり自由に自分の思想を表現すること、また他者の思想を批判すること、は民主制度の根幹であり、人権のなかでも極めて重要なものである。
 その一方で、たとえばプライバシーの侵害をしないように、という規制も受ける。
 ある言説が差別である、また差別的言説の強力な形態としての(ヘイトクライムを誘発する、という意味での)ヘイトスピーチであるというような場合は、たとえばメディアが自主的に規制を行ったり、場合によっては法的な規制を行う、ということが考えられる。
 人権を制限するのは他者の人権のみ、という近代民主国家の理念に忠実であれば、プライバシーや誹謗中傷、という問題で(最終的には裁判所の判断に委ねることになるだろうが)言論が制限されるのはわかりやすい。
 しかし、「差別」というのは、個々人の権利とのコンフリクトというよりは、個人の言論が、より集合的なグループ(一般的には社会的に「マイノリティ」のグループ)の成員に対する集合的な権利侵害になる、というケースを名指すことになる。
 したがって、プライバシーの侵害といった問題よりも問題は複雑であり、慎重に考える必要がある。

2013年12月1日日曜日

法務省平成25年度啓発活動重点目標とやらが酷い件

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  法務省平成25年度啓発活動重点目標
 …まぁ、政府による「人権」概念の誤用が酷いのはいつものことなのですが、一応批判しとく。

 まず、被災者を含めてすべての人の人権が守られるべきなのは当然だが、その「人権」がまがい物ではまったく意味がなくなる。まがい物の「人権」に苦しむ人々を包括的に救う力はないであろう。
 法務省の「考えよう 相手の気持ち 育てよう 思いやりの心」というキャッチフレーズは、控えめに言っても「人権を守る」とはなんの関係もなく、具体の局面では同調圧力として機能することで、人権を守ることとは対極の機能を果たすであろう(そして、様々な問題で旧態依然たる権威主義、秘密主義を残す法務省がしたいのはそういうことだ、ということなのだろう)。
 

2013年6月3日月曜日

「次のボパールは原子力エネルギー省の過失になるだろう」とインドのグリーンピースは述べた

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 日本のグリーンピースが「じつは原子炉メーカーが嫌がるインドへの原発輸出」というブログ記事を公表しています。
 その中で
 実は、インドには原発事故の際、原子炉メーカーにも責任を問える法律が存在する。これは、インドで1984年に起きた史上最悪の産業事故であるボパール化学工場有毒ガス漏出事故の経験から、「汚染者負担の原則」を原子力にも取り入れたものだ。
 (中略)
 ようするに、原子炉メーカーは、事故の責任を問われない国に原発を輸出するのはおいしいビジネスだと考えるが、リスクを問われる可能性がある国では及び腰になるのだ。彼ら自身も、原発は安全だと思っていない証拠だ。
と、説明されている。
 これは勿論事実ではあるが、一方でそういった法律をめぐる攻防は激しく行われており、インドのグリーンピースもその中で重要な役割を担っている。
 この件について、インドのグリーンピースが "Next Bhopal would be DAE’s fault"(次のボパールは原子力エネルギー省の過失になるだろう)という記事を発表しており、興味深いので訳出してみた。

 次のボパールは原子力エネルギー省の過失になるだろう

 原子力エネルギー省は、原子力責任法の規則を議会の常任委員会の勧告に従って改正すべきである、と活動家は要求している。

 プレスリリース 2012年12月3日
 ニューデリー/ムンバイ/チェンナイ  2012年12月3日
 ボパールの悲劇から28年目の記念日に発効された意見書の中で、グリーンピースは原子力エネルギー省がボパールの災禍のさいの誤った対処をふたたび繰り返すことになる過ちを犯している、と警告している。この環境監視団体は、原子力エネルギー省が、原子力責任法の規則を従位立法に関する常任委員会の勧告に従って改正することを要求している。

 グリーンピース原子力エネルギー担当のカルナ・ライナによれば「ボパール・ガス事故に責任のある企業はその責任を逃れることに成功している。何故なら、彼らに責任を課す強力な法律が欠けていたからです。原子力責任法のサプライヤー責任条項を薄めることは、ボパールを繰り返すことに帰結するでしょう」と述べた。原子力エネルギー省によって起草され、政府によって公告されたルールは、原子力責任法のサプライヤー責任条項を薄めてしまうと批判された。

 従位立法に関する常任委員会によって前回の下院に提出された報告書は「委任立法によるルールは、法の実質的な規定と整合的であるべきであり、法の下で想定されていない限定や過剰を含むものであってはならない」と述べている。この報告書は、原子力エネルギー省を、その法の規制をまとめるに際しての「やる気の無さ」を厳しく批判している。元インド法律長官であるソリ・ソラブジーもそれに先立ち彼の見解を述べており、これらのルールが「法の権限を越えている」と述べている。

 「卓越したな法律の専門家や議会委員会の見解にも係わらず、原子力エネルギー省やその他の原子力エスタブリッシュメントはルールの見直しに消極的です。議会民主主義においては、行政は議会の常任委員会が示した懸念を握りつぶすしてはならないのです」とライナ氏は述べている。

 去年8月、マンモーハン・シン博士(訳者注:インド首相)はサプライヤー責任を放棄する権限を各国に与えている国際条約を、国内法が上書きできるのか、という重大な問題を提起した。インド法律長官G.E.ヴァハナヴァティ氏はシン博士の疑問に答えなかったが、最高裁は国内法に合致しない一切の国際条約は無効であるという見解を示している。

 グリーンピースは原子力エネルギー省が下院の従位立法に関する常任委員会が示した勧告を実施し、ルールを修正することを要求する。

   従位立法ないし委任立法とは、「立法府から委任された立法権を行使すること」(Wikipedia) であり、外国企業に配慮したインド政府が、原子力責任法を骨抜きにすることを試み(もちろん背後にはこれら外国企業のロビイングなどもあるのだろう)、それに対して立法府の委員会が「立法の趣旨に反する委任立法を行うことは正統性を欠く」と警告を発しているわけである。
 少なくともある一面では、日本より三権分立がよく機能していると言えそうである。
 もちろん、こういった形で三権分立が機能するためには、メディアや(グリーンピースのような)市民社会組織等、政治機構外の圧力が欠かせない。
 そういう意味では、インドはしばしば「NGO大国」と称されるように、これらの組織が(少なくとも第三世界としては)よく機能している。

  「国内法に合致しない一切の国際条約は無効である」に関しては、日本の常識としては国際条約は国内法に優先する(憲法に次ぐ優先順位を与えられる)ということであると思うので、このあたりがインドではどうなのか、ということであるが…。
 ただ、一つには、国際条約というのは1980年代ごろまでは、世界人権宣言に代表される「普遍的価値」を規定したもの、その規定を体現するためのコンセンサス、あるいは戦争当事者国間の平和協定といったものが主流であったのに対して、近年は自由貿易協定のような形のものが急速に増えてきている。
 その場合は、以前のタイプより「経済的利害の調整」や「経済行為の透明性等の確保」といった、よりある種の「私益」のための国際条約という側面が強くなってくるわけで、国際条約と言えば公益性が高かった時代と同様の議論でいいのか、という見直しは必要な時期なのかもしれない。

 なお、ここで言及されている「ボパール」はマディヤ・プラデシュ州の都市ボパールで、1984年に米ユニオン・カーバイドのインド子会社の殺虫剤工場から猛毒のイソシアン酸メチル・ガスが流出した事故のことである。
 この事故では(犠牲者の多くが比較的貧しい地区の住人であったこともあり)統計的に不明な点も多いが、少なめに見積もっても三千人が命を落としたとされ、史上最大の産業事故であると考えられている。
 この事故の責任追及は、インド国内の政権交代などにも翻弄されるが、当時の最高責任者であったウォーレン・アンダーソンの引き渡しをアメリカに拒否されるなど、インド側からは大きく不満の残るものとなった。
 ボパールの件でインド側の怒りをかき立てた原因の一つに、ボパールの工場では、ユニオン・カーバイド社が米国内に持っていた同じ種類の工場に比べて、明らかに低い安全管理基準で運営されていたことである(しかも、ユ社の社内に設置された操業安全管理チームはこのことを指摘し、改善する勧告を事故の二年前に出していたことも判明している)。
 こういったことはもちろん現在でも十分に起こりうるし、そういうことが起こるのではないかとインド側が先進国企業に対して不信感を持つのは、極めて当然のことであろう。

2012年12月20日木曜日

被ばくのリスクについての覚え書き

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 Twitterでの議論から多少時間がたってしまいましたが、総選挙も終わり(あと、個人的には飯舘村の選挙なども終わり、というところも重要なのですが)、いったん自分の考えを述べてもいいころあいかとも思いますので、まとめておきます。


(1)
 まず第一に、リスクの受容には「意味」がある、ということです。リスクは必ず利益(benefit)と対で考えられる、ということでもあります。例えば、あるサラリーマンは「仕事のためにLCCにのるリスクは受け入れがたいが、趣味のダイビングに行くためならLCCも我慢する」というかもしれませんし、逆にその人を雇用している社長は「仕事なんてコスト削減してなんぼなんだから出張はLCCで行くべきだが、自分が楽しむための旅行はリッチに…」と考えるかもしれません。労使の間でコンフリクトが発生するでしょうが、どちらを正しいとも言い難いわけです。
 同様に、自然物が上昇させるリスクと、誰かが(おそらく自分の利益や欲求のために)上昇させるリスクでは受容する側の意味が違うわけです。例えば、山登りのリスクを受容する人も、家の前の道路が山登りと同じようなレベルのリスクであることは批判するでしょう。また「この登山道では落石で怪我をするリスクが一定あると見込まれるので、自分が一個石を蹴落とすぐらいなんてことないだろう」と考える人は居ませんし、実際「自然に、あるいはなんらかの不可抗力によって落ちてきた落石での怪我や死」と「誰かがわざとおとした石での怪我や死」は、被害者にとってまったく違う意味を持つでしょう。
 一般的には、コントロールできないリスクはより高い脅威として認識される、などの指摘があります。例えば、タバコや自動車は「使わない」という選択肢がある(厳密には副流煙や、歩行者として巻き込まれるわけですが…)という感覚が、大気中の有害物質というような「否応なくすわされるもの」に比べると、同じくらいかより高いリスクでも許容度を上げるわけです。
 なので、リスクというのは単純に数値で比べるべき問題ではなく、リスクに晒される個々人の心理的・文化的・社会的・経済的諸要素によってその評価は(二桁三桁は)かわってくるものだ、という認識が必要かと思います。

 なので、今回の場合のように社会的な影響が広範囲な場合については、安易に「このリスクはこうだ」という結論に飛びつかずに、なるべく多くの人が参加していろんな要素を加味して考えるのが良い、ということです。

 さて、こうした議論が行われることになった場合、いくつか留意すべき論点があります。ひとつは、行為遂行的発話=パフォーマティブな発話、という問題です。これはオースティンという哲学者の言葉ですが、言明は言語内的な意味だけでなく社会的な意味を持ちうる、ということです。例えばABの間で「このステーキ、味が薄いね」「テーブルの上に塩があるね」「ちょっと塩まで手が届かないね」という会話が行われたとすれば、文字通りにはそれぞれの言明は事実の記述をしているに過ぎませんが、実際は「なんか味付けないかな?」「塩を自分で取りなさい」「いや、とってよ」という会話がなされている、と解釈するのが普通であろうと思われます。一方、同じ「テーブルの上に塩があるね」が、部屋の大掃除中に行われた場合は、我々は「その塩を片付けて欲しい」というメッセージである、と文脈に応じて発話の行為遂行的な意味内容を解釈しなおすわけです。
 同様に、あるリスクの定量的な判断も、それがどのような場所で、どのような人間関係の中で表明されるかによって、まったく違ったメッセージになる可能性というのを考えなければ行けません。

 こうしたことを考える、ひとつの参考になるのが「権威勾配(Authority Gradients)」という言葉です。元々は飛行機業界で使われた言葉とのことで、飛行機の操縦室内部での機長と副操縦士の関係をモデル化したものです。両者の関係があまりに権威主義的だと、副操縦士から適切な情報や提案が機長に伝達される妨げになりますし、一方であまりにフラットだと、それは「決定できない組織」になるわけで、いずれにしても大事故につながるわけです。なので、両者の関係は適切な勾配を保ち、かつそれが両方にとって合意された関係でなければなりません。そのためにも、誰が、どのような役割を持って、どういうふうに発言できるか、という「システム」を決めるための議論は、発言に先行して重要なわけです。

(2)
 と、いうことを前提においた上で、年間20mSvや1mSvという被ばく量について考えて見たいと思います(このあたりは来月出るSTS本の神里さんの章でもうちょっと詳しく説明されると思いますので、そちらも是非ご参照いただければと思います。書誌データなどの詳細が出たらご案内できるかと思います)。もちろん、ここで私が提示する例は、あくまで考える上の参考になるかもしれない議論であって、それでなんらかの回答が出せるというものではありません。
 まず、これらの被ばく量を恐れるのが非常識か、ということを考えます。参考になりそうなのは、平成8年10月の中央環境審議会による「今後の有害大気汚染物質対策のあり方について(第2次答申)」(PDF)です。ここでは(おそらく日本で初めて)放射線被ばくと同様に発がん性の閾値が設定できない(ないか、極めて小さい)物質に関してどのように許容摂取量を決定するべきか、という判断が示されています。
 答申が前提にしているのは「閾値のない物質に係る環境基準の設定等に当たってのリスクレベルについては、別添1の健康リスク総合専門委員会報告のとおり、現段階においては生涯リスクレベル10^(-5)(10万分の1)を当面の目標に、有害大気汚染物質対策に着手していくことが適当である」ということです。また、具体的にはベンゼンについてユニットリスク(環境中に1μg/m^3含まれているときの一生涯の発癌リスク上昇ぶん)を3×10^(-6)から7×10^(-6)と推定しており、ベンゼンの環境基準を「当面」3μg/m^3とすることを求めています。この計算は、結局みこまれるユニットリスクの最低値である3×10^(-6)を取ったと言うことですから、果たして妥当かという疑義はあるような気がしますが、いずれにしても生涯リスクの増加が10^(-5)という桁で管理されるべきだ、という前提は明確です。

 添付資料(PDF)で議論の経緯が分かりますが、これは、他国でのリスク管理が10^(-5)ないし10^(-6)で行われている(オランダでは緊急的には10^(-4)という桁が許されているようですが)ということを参考にしたもののようです。

 また、他の年間リスクとして交通事故が8.5×10^(-5)、水難、火災が8.4×10^(-6)、自然災害、銃器発砲などが10^(-7)の桁のリスクであると説明されています。


 さて、これと引き比べると、ICRPの前提にしたがって(直線閾値無し仮説を採用した場合)年間20mSvの被曝で約0.1%(1×10^(-3))、1mSvで0.005%(5×10^(-5))で、生涯リスクは基本的にこれを寿命ぶん掛け合わせたものだとすればだいたい一桁ないし二桁あがるので、「緊急時でも1×10^(-4)」、という他の化学物質等の規制値と照らし合わせると、ずいぶんと緩い基準である、という議論は当然あり得るかと思います。
 ただ、もし他の化学物質と同等に10^(-5)の桁でリスクを管理しようとしたら、許される追加被ばく量が生涯で2mSv未満ということになってしまうわけで(厳密に1×10^(-5)を達成しようとしたら実に0.3mSvの追加被曝)、これは確かに現実的とは言い難いという意見はあると思います。

 なぜ放射線が他の物質に比べて、高い値になっているかについては、様々な理由があるかと思いますが、基本的には(1)他の危険度の高い物質と違い自然界に比較的高い値で存在しており、またばらつきも大きいこと。(2)一方で、その結果として比較的被ばく量の大きい地域でも、顕著な健康被害が見られないこと。この二つが大きな理由となるでしょう。放射線に関しては、他の物質と同等に、リスクレベルの目標値を決めて許容量を決める、という手法が難しい、ということでもあります。
 一方で、(1)に関しては、すでに述べたように自然界に存在するリスクのと人為的に付け加えられるリスクに同等の評価は出来ない、という議論があり得ます。また、(2)に関してはまさに科学的には未解明の側面があり、議論にどう組み込むか悩むところです。ケララなどの高線量地帯で数mSv程度の追加被ばくでは顕著なガンの増大はない、という結論がある一方で、どうもチェルノブイリの影響に関するトンデル報告やウラン鉱山、医療被曝等で健康影響を示唆する研究もあるようだからです。このあたりは今回は深く踏み込みませんが、少なくとも直線閾値無し仮説そのものは妥当と見なし、ICRPを基準にすることは必要でしょう。
 リスクの推計はいずれにしても概算であり、比較は「桁があっていれば」ぐらいのものだということは押さえるべきでしょうが、いずれにしても、通常の場合でも「放射線のリスク」に関しては他のリスクに比べてかなり緩く設定されているという側面はあり、「基本は避難」というエリアをもう少し拡大するという政策を打ち出す政党があっても、それが著しく不合理であると言うことは言えないように思われます。一方で、現実の福島においては、現在の避難範囲を維持する限りにおいて、一般の人が今後年間20mSvにせまる被ばくを覚悟しないと行けないという状況ではありませんし、避難の必要性は大きくないという考え方もあるかと思います。

 さて、いずれにしてもICRPの勧告では、図にあるように、現存被ばく状況では 1mSv/yから20mSv/yの間で「参考レベル」を決めて被ばく量を低減していき、公衆の被ばく量が最終的に 1mSv/yになるように、計画的に下げていかなければ行けないわけです(図は放射線審議会基本部会(第41回)配付資料より)。


 ということは、まず(計画を立てるわけですから当然)現存被ばく状況の範囲を政府が指定し、そこで「どの程度の期間で、どのように被ばく線量を下げていくか」ということを議論すべきですし、その議論にはなるべく「ステークホルダー(利害関係者)」の意見が多く盛り込まれるような仕組みを作るべきだ、ということになるでしょう。そういった場合「原則XX」といった予断を行政側が持たないのであればそのほうが好ましいと思いますが、他の化学物質と比較すれば、極めて憂慮すべき状態であるということは確認すべきであろうと思われます。いずれにしても様々な立場があることを組み込んだ場の設定を行うべきで、落としどころがまずあって、説得、という枠組みではうまくいかないでしょう。
 現在までの所、現存被ばく状況の範囲について、政府が何らか指定もしていない、という状況が大きな問題でしょう。とりあえず、今できることとしては、現存被ばく状況にある地域を法的に明確にし、その地域に住む人々の『権利』を再確認し(移住のための十全な保障の権利も含めて)、またその被ばく量低減計画等を住民参加で立案することを急ぐべきでしょう。
 ただ、付言すれば、ICRPの勧告に先行して、なにを汚染と見なすかといえば年間1mSv以上の被ばくの可能性があれば「汚染」でないとはいえないでしょうし、その場合、汚染の責任者(それが政府なのか東電なのかは議論があるでしょうが)に十全な保障の責任があると言うことは、確認する必要があるように思われます。





 いずれにしても、考えるべきことも、それぞれの結論の幅も多様になるべき事案ですから、とりあえず結論に飛びつく前に、自分と異なる様々な意見に寛容になってみる、という態度が必要なように思います。…とはいっても、こういうシビアな状況で寛容というのも難しい、ということもあるかとは思いますが…。