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「相談することは思考の放棄だ」(立川談志)という言葉から民主主義について考えてみた。『ざまあみやがれい!メールマガジン」vol.31
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いつもブログで掲載している、アーサー・ビナードさんの文字おこしをしていたら、ちょうど立川談志さんの死が報じられた時だったので、談志さんのエピソードが語れられていました。

語っていたのは、文化放送の玉川美沙さんです。立川談志さんに「相談することは思考の放棄だ」と教わったと話していました。

このフレーズは、考えるということはどういうことか、ということの真ん中をズバッと突いていると僕は思います。

実はちょうど、東浩紀さんの「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」という本を読み始めていました。

・【おすすめ!】上杉隆・ニュースの深層「震災以後の思想」ゲスト東浩紀 11/29(動画)
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65778113.html

ゲストが東浩紀さんです。記事内で書籍も紹介しています。

この本はルソーというフランスの哲学者の言葉を今の時代の視点から読み解くという本です。この内容のある部分と談志さんの言葉が僕にはリンクしているように思えたのです。

詳しい内容は、まだ僕には説明することが難しいのでここではやめておき、ざっくりと僕の解釈を具体的に述べてみます。

例えば、僕らの今の政治の形は、政党や政治家のマニュフェストを支持して投票する形です。投票する政治家や政党の公約は、僕らの考えていること「そっくりではない場合」がけっこうあります。

だけど僕らは、まあまあ僕らの要求を満たしていそうな公約を信じて投票します。

ここで、投票という行為をする前の段階について考えてみます

社会の問題点や政治家の政策について、僕らは語り合う。ツイッターをつかって意見を積み重ねることもあれば、親兄弟・友人と話すこともある。

その時に、僕らはどれくらい他人の意見を取り入れるんだろうか。自分が考えていないところを、どれくらい他人の考えで埋めようとするんだろうか。

そして、他人の考えで埋めてしまうことをしてしまうと、個人個人の意思はぼんやりしていくのではないだろうか

そうやって、僕らは個人個人の意思がぼんやりした上に、政党や政治家のマニュフェストに妥協して投票します。ぼんやりしている上に妥協していますから、そ の結果、個人個人の意思がほとんど選挙結果に反映されないという事になってしまいます。これは民主主義としては失敗しているのではないかということです。

詳しいことは「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」を読んでみてください。
http://j.mp/sXlbcb

そういう考え方をルソーはしていて(僕が解釈したルソーの考え方ですから、ちょっと違うかしれないことを断っておきます)、なるほどと思っていました。

話はちょっとかわるのですが、先日、ちょっとデモに参加したときのことを書きました。

デモには多くの人が集まってぞろぞろ歩いています。だけどスピーカーから叫ぶメッセージは、シンプルです。脱原発デモの場合は「子どもを守れ」「命を守れ」「原発絶対反対」「即事全原発停止」というわかりやすくて強いメッセージが大音量で響き渡ります。

その声は、僕らの考えていることとどれだけ同じで、どれだけ違うんだろうか。

そして、ここが問題なのだけれど、僕らはその大音量の分かりやすいメッセージを、どれだけ許しながら、どれだけ受け入れながらデモに参加しているのだろうか。

誤解を恐れずにいうならば、デモに参加しているならば、どれだけメッセージに「ちょっとそれは違う」と思っていたとしても、許容しているということになる。

「メッセージが自分の考えとは違うけど妥協しておこう」と思っているわけです。そしてそれは自分の考えを捨て、シンプルで強いメッセージに支配されることを望んでいるのではないだろうか。

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