Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

日本に旅立った娘のはなし - 10年半のアメリカ生活を経て、自ら選んだ未来

昨年の6月、娘はアメリカの高校を卒業し、日本の大学に進学するために日本に旅立った。2013年11月にわが家はアメリカに移住したので、10年半のアメリカ生活に終止符を打ったことになる。

 

渡米当初からの葛藤:「早く日本に帰りたい」

娘は日本が大好きで、アメリカがそれ程好きではない。Grade 2(日本の小2)の頃に、英語が全く話せない状態で、アメリカの現地校に放り込まれ、必死に授業にキャッチアップすべく努力をしてきた。子どもはすぐに英語を話すことができるようになる、何ていうのは私から言わせれば都市伝説だ。多くの子どもは言語の壁、孤独、自分を出せないストレスを抱えており、娘も例にもれなかった。渡米当初から「早く日本に帰りたい」とよくこぼしており、その願いが書かれた七夕の短冊を見た時は、さすがに切なかった。親としてできうる限りの支援をしたが、正に悪戦苦闘という感じであった。

 

魔のGrade7、おとずれた限界と決断

Grade 7(日本の中2)の頃に、そのストレスと想いが大爆発する。アメリカではGrade 7は"the challenging seventh grade"と呼ばれるほど、勉強も難しくなり、友人関係も複雑になる時期だ。そして、思春期特有の難しい時期が娘にもおとずれていた。家族で会話を重ねたが、これ以上はいかんとも頑張り難いという悲痛な娘の想いに、親として上手く手を差し伸べる術を私は持たなかった。

結論として、娘のみ日本の高校に進学することを家族で決断した。アメリカに住む日本人家族で、子どもの一人がどうしても馴染めなくて、一人日本に戻るという話は、多くもないが、それ程珍しくもない。日本とアメリカはかなり異なるので、合わない人には合わないのだ。Grade 7という特有の難しさ、思春期の感情の起伏、アメリカとの相性というマイナス要素が一気に押し寄せ、娘は爆発すべくして爆発したと今となっては思う。

 

高校受験の勉強、そしてコロナがやってきた

娘の日本の高校進学を決めたので、一時帰国の際は、学校見学をしたり、予備校の夏期講習に通わせたり、準備を進めた。また、高校生で親元を離れて、寮生活を送るのだから、料理や掃除から、基礎的な金融教育まで、独り立ちができるように親としてしてあげられることは全部したつもりだ。

が、いよいよ受験という年にコロナ旋風が巻き起こる。少し心許ないところはあれど、私の子育てのゴールである「子どもが自律と自立できるようにする」ということは、大分達成できたかなぁ、というまでには娘は成長していた。なので、先の見えない状況ではあるが、娘が希望するのであれば、高校進学はサポートする気でいた。

 

「今は日本には帰らない」 コロナ禍の決断

娘にはその旨を伝えて、自分で考えて決断するように伝えていた。
ある天気の良い日に一緒に散歩をしながら、「で、どうするか、結論はでた?日本に帰国したいのなら、サポートするからね」と聞いてみたところ、「色々考えたけど、見送ろうかな」と娘。

その時、アメリカのGrade9(高校1年)になっており、高校で親しい日本人の友人もでき、中学と比べるとかなり学校の環境も改善され、娘なりのペースを確立しているようにも見えた。かくして、すったもんだの末、娘は日本への帰国を先延ばしすることになる。世界中にトラブルを巻き起こしたコロナ禍も、わが家にとっては今の家族を形作るパズルのピースの一つであったように思う。

 

高校卒業、そして本帰国へ

その後、カリフォルニアへの引っ越しに伴い、転校というイレギュラーも経験した。それでも、補習校の卒業、そして現地校の卒業と、娘は一歩ずつ着実に歩みを進めてきた。そして昨年6月、日本の大学の受験のために、ついに念願の本帰国を10年越しに果たすこととなった。
成長を重ね、大人びた雰囲気もそなえた娘は、Netflixを英語と日本語を切り替えながら楽しむほどの語学力を身につけ、「こういうことをできるようになった環境に連れてきてくれた親には感謝している」などと親を気遣うことも言うようになっていた。が、私は「あなたが、苦労をしながら自分の努力で身につけた能力なのだから、親に感謝する必要なんてないよ」と言っている。これは私の正直な思いだが、言葉の裏側にある娘の優しさと気配りに少し胸を打たれた。

 

家族3人での生活が始まって

「娘さんがいなくなって淋しいし、心配でしょう」
とたまに聞かれる。もちろん、家族4人の生活が3人(私、妻、息子)になり、静かになったところもあるが、実はあまり淋しさというのは感じていない。
自分の人生に対して主体的な決断をできるようになった娘を応援したいという気持ちと、娘が今後どのような人生を歩んでいくのかを見るのが楽しみという気持ちが、淋しさを遥かに上回っている。もちろん、助けを求められたら、いつでも助けるつもりでいるが、必要なヘルプを求めるという能力も含めて娘は「自律と自立」ができる素養を身につけているので、親としては学費と仕送りを送る以外にはできることは殆どない、と思っている。娘の子育てについては「やりきった感」が強く、晴れやかな気持ちで日本に送り出すことができた。

 

娘からの「嬉しい知らせ」

本命の大学の受験に、一人日本で取り組んでいた娘から、無事第一志望に合格したという「嬉しい知らせ」を先日受けた。親元を離れての最初の挑戦が、「一人暮らしを初めて大学受験をする」というもので、決して簡単なものではない。それでも、集中力をきらすことなく、コツコツと努力を重ね、良い結果を残すことができた。娘の一番希望する大学に進学できたということが親としては最も嬉しいが、その大学は私の母校でもあり、とても感慨深い。

これからも自分の人生に対して、主体的に決断し、人生を切り拓いって欲しい。よく頑張ったね、本当におめでとう。

校長室に呼び出された息子とゼロ・トレランス

「校長室に呼び出されちゃったよ、、、。」

今日、放送で校長室に呼び出されちゃったよ、、、。

学校から帰ってきた息子がいきなり物騒なことを言う。
「いったい何をやらかしたのか?」、いや、そもそも息子は素行が悪いタイプではない。「何があったの?」と聞くと、意外な答えが返ってきた。

  • ビデオプロダクションの先生の授業中の発言についての聞き取りだった

  • 具体的には、その先生が授業中にNワードを言ったかどうかの確認だった

  • 自分以外にも同じ授業の生徒が数名、個別に呼ばれていた模様

「えっ、授業中に教師が生徒にNワード!?そりゃまずいんじゃない」、というのが私が息子の話を聞いてぱっと思ったこと。

Nワードについては、補足は必要ないかもしれないが、いわゆる黒人に対する差別的な表現だ。ここでの詳述はあえてさけるが、知らない方はこちらのリンクをどうぞ。

 

先生に下された「一発レッドカード」

その先生は、長年ビデオプロダクションの授業を担当していた大ベテラン。だが、結局その一度の失言が致命傷となり、残念ながら先生はしばらくの謹慎期間を経て、あえなく解雇となってしまった。まさに「一発レッドカード」である。

確か一学期も終わっていない時期の出来事だ。テーマの特殊性からかその後正教の先生が配置されることはなく、だましだまし代教の先生が代わる代わる来て授業を進めたらしいが、授業の体はなしてなかったとの息子談。

また、授業時間中にガンモーション(銃を打つジェスチャー)をしたフランス語の先生が3ヶ月停職処分後に復帰はしたものの、ある日忽然と姿を消してしまった、という話も聞いた。教員の問題行動での解雇は、アメリカではどうやら珍しくない話のようだ。

 

「差別教育」への世代間格差

子供の頃からアメリカの教育を受けている娘と息子が声をそろえていうのは、アメリカの人種差別の歴史に対する授業は、現代の若者の視点からすると過剰とのこと。色々な物語を散々読まされ、いかに人種差別はいけないことなのかを、熱っぽく、徹底的に教え込まれるらしい。毎年同じような授業を同じような熱量で受けている生徒からすると、「もうわかっているからいいよ」という感じらしい。

そのくらい社会として差別に対して敏感で、教育現場でも力をいれているというのは素晴らしいこととは思う。が、息子と話していると、黒人の生徒同士では「What's up, Nigga」のような表現はよく交わされている模様。一周回って市民権をえた印象を受ける。先生も時代の変化に流され、口が滑ってしまったんだろうか。

 

アメリカの「ゼロ・トレランス」

アメリカ企業ではコンプライアンス違反で社員が一瞬で消えたように解雇されることは時として見るシーンであるが、それは学校であっても同じ模様。アメリカには「ゼロ・トレランス」という言葉があるが、まさにそれだ。差別的な発言を一度でもやったら即退場。事情も意図も情状酌量の余地は一切ない。
が、先生が解雇された後、まともな授業がされることはあまりなく、「ゼロ・トレランス」のとばっちりで、生徒は無為な時間を過ごすことになってしまった

 

私が小学生の頃の昔話

そんな、息子のエピソードを考えながら、ふと自分の子どもの頃の出来事を思い出した。私は中学受験をするために、小6の時に塾に通っていた。その際の算数の先生が熱血指導で、痛いげんこつを頭にくらうことがしばしばあった。おまけに、先生はそのげんこつに「ヘッド」という技名までご丁寧につけておられた。先生が生徒を前に呼びだして、「ヘッド!」と叫びながら頭にげんこつを浴びせる、今からは想像できない光景が日常的にあり隔世の感がある(なお、無事志望校に合格し、合格体験記に「先生の痛いげんこつも今となっては良い思い出です」と書いたが、一般に公開された合格体験記には「先生の厳しい指導も今となっては良い思い出です」と修正されており、大人の世界の理屈もあわせて学んだ)。

 

まとめ

物理的な暴力行為にまで今の時代に及んだ場合は流石に情状酌量の余地はないが、生徒同士が日常的に使うNワードを、先生が生徒に使ったら一発退場というのは、私は厳しすぎると思う。
「ゼロ・トレランス」は「差別を絶対に許さない」という社会の意思の表れではある。が、それが「断固たるリーダーシップの証」のように捉えられ、「容赦なく処罰しさえすれば良い」と形骸化してきている、というのが何度となくそういうシーンを見たり、話を聞いたりした私の実感だ。学校教育においては一番大事なのは、教育現場から差別を無くし、どの子どもにも質の高い教育を受ける環境を整えることではないのか。処罰の結果、授業がまるまる自習時間になっては本末転倒だ。

締め付けが必要以上に厳しくなったり、その反動でやたらとゆるくなったり、いったりきたりするのはアメリカ社会でよくあること。それでも、一歩づつ住みやすい社会に前進していると願いたい、息子の学校の話を聞いたり、民主党と共和党政権で揺れ動くLGBTQなどを見て、そんなことを考えた。

アメリカの2024年の標準控除が442万円だった件

3月は私にとって日米の確定申告のシーズンだ。毎年期限ぎりぎりまで引っ張るのだが、今年は意を決して、2月中に全て終わらせた。今年はアメリカの証券会社の資料の不備で$15K近い追加納税を強いられそうだったが、ChatGPTやTurboTax(アメリカの納税ツール)のヘルプを得ながら、間違いに気付き、修正をして事なきをえた。怖すぎるだろう、証券会社の書類不備。アメリカあるあるだ。

日本では103万円の壁がしばらく話題になっている。維新の会と自民党の合意で、残念ながらかなり抑えられた金額に落ち着きそうだ。たまに、ニュースでアメリカの例も紹介されているが、Turbo Taxにお任せで、標準控除額(Standard Deduction)とかあまり意識してこなかったのだが、今年の金額を調べてみた。

 

アメリカの確定申告は、独身、世帯主、夫婦合算申告の3つがあるのだが、わが家は夫婦合算申告なので、今年は$29,920、IRSの年間平均レートで日本円に換算すると442万円くらいだ。日本と比較すると驚くような金額だが、物価の水準も給与も違うので日本とは一概に比較はできない。

 

なお、過去5年の推移をまとめると下記の通り。IRSの年間平均レートで年ごとに異なる日本円の金額も参考までに掲載する。なかなか面白い表なので、いくつか考察してみたい。

為替の影響でかすぎ問題

2020年から2024年でドルベースで18%増額しているのだが、円ベースも試しに計算すると67%増額となる。年間平均レートものせているので、為替の影響がわかるが、凄まじい円安である。わが家は、娘が日本に本帰国をして仕送りをしているので、大変ありがたいし、インバウンドの旅行客が増えるのもよくわかる。「今度、日本に旅行に行くのだけど、、、」という相談が最近多いのもうなづける。

 

年間平均の増額率4.19%

過去5年の平均増加額を均してみると4.19%となる。が、個別の年の増額率を見ると21年は1.2%で23年は6.9%とかなりばらつきがある。アメリカの標準控除額はインフレ率(特にCPI:消費者物価指数)と連動する傾向がある。なので、この増額はここ数年の凄まじいインフレ率の結果とも言える。日本もインフレと最近言われているが、「お客様の笑顔ために価格の据え置きを」みたいな店が一軒もないアメリカの物価上昇率は日本の比ではない

 

実はトランプ減税の効果が高い

が、上記の表には少しからくりがある。実は2017年から2018年に標準控除は$12,700から$24,000に+89%の大幅改正があったのだ。これは前回のトランプ政権の目玉政策の一つで、レーガン政権以来の大幅税制改革と言われている。
大統領が変わるとこれだけのドラスティックな税制改革が可能というのは、103万円をいくらにするかで延々と揉めている日本とは大分異なる。まぁ、103万円の壁が話題として大きくなったのも、自民党が少数与党に転落したことによるので、日本でも今後大幅に変わる可能性は十分にある。
また、この減税は実は2025年で期限を迎えるため、2026年以降大幅に増税になる可能性は十分にある。が、少なくとも共和党政権の間は延長がされるだろう。

 

高いのか安いのか

標準控除が442万円と聞くと、「高い!」というイメージを持つ方が日本には多いと思う。が、冒頭で述べた通り、給与と物価の水準が全く異なるので、単純に比較はできない。
「低所得者層」の定義という視点で少しデータを見てみよう。その定義は色々あるが、4人世帯の貧困ラインはアメリカでは$31,200、そして貧困ラインの2倍以下を「低所得者層」とみなす傾向にあるので、$62,200以下は「低所得者層」と言うことができる。これを日本円に2024年のレートで換算すると940万円になる。日本の感覚からすると冗談みたいな数字かもしれないが、それほどアメリカの生活費は高い。
そして、私の住むカリフォルニア州は全米で最も物価も税金も高いと言われている州だ。私の住む地域はサンフランシスコ・ベイエリアのような天文学的に高い地域ではないが、米国住宅都市開発省の基準で言うと$91,100(1,380万円)が「低所得者層」のラインとなる。そう考えると442万円というのは決して高すぎる金額ではない。2026年以降に減税措置が解除されると結構しんどくなるだろう。

 

まとめ

色々話がとんだが、それだけ税金の話は奥が深い。今回のアメリカの確定申告では、システム任せにしていたら過払いしそうになり、税金の仕組みをきちんと理解するということが、自分のお金を守ることにつながると身にしみて感じた。また、標準控除の変遷を追うだけでも、アメリカの経済や政治の動きをみることができた。
日米の両方の申告をしないといけないので、確定申告の時期を「毎年くる憂鬱な時間」と捉えるのではなく、「税金という視点で社会を学ぶ期間」と捉えて、学習の期間として位置づけていこうと思う。

移民から見た、 “かつて報われた人”たちの自由な選択

以前、PIPに入れた私の部下が医師の診断書をとり、傷病休暇を取得したという話をした。結局、彼は4ヶ月半の傷病休暇後に辞表を提出した。退職届けを受けた人事の担当がにこやかな絵文字とともに

Sooooo glad he went this route, rather than returning to a situation that was not going to end well for him.
あぁ、彼がこっちの選択をしてくれて本当に良かった。戻ってきたところで結局彼にとって良い結果にはならかったからね。

と興奮を隠しきれないSlackを送ってきた。Soの「O」の多さが、人事担当の安堵を表している。忙しい年度末に人事と上司を巻き込んでしまい、痛恨の極みであった。

 

元をたどるとリストラリストにのせるべきところを下記の事情から手心を加えたため、この面倒が始まった。

通告を受けた日に失職すると医療保険が失われる。特に彼は子供が5人もいて、そのうちの一人は病気がちで通院をしている。医療費が天文学的に高いカリフォルニアで、医療保険がないのはかなりきつい。
外資の人事制度PIPでやらかした話

 

だが、自分の失敗を棚にあげてあえて言わせてもらえば、これは健康保険制度が社会のセーフティネットとして機能しておらず、健康保険を労働市場で勝ち取らないといけないアメリカ社会の問題でもある。

ご存知の通り、アメリカは日本と異なり国民皆保険制度がない。なので、約6割の人は勤め先の企業経由で民間の健康保険を購入する。即ち、大部分の健康保険は、行政からではなく、労働市場を通じて提供されるのだ。

転職をする際に年収は最も重要な要素の一つだ。が、アメリカの場合は、それと同様にどんな健康保険を転職先が提供するかも、年収と同じように重要な要素であることを私はアメリカで転職をして知ることなった。

前職では月5万円でそこそこの保険に入れたが、今の会社では同等の保険に加入するためには月15万円もかかる。差額が大きいので、今は安めの月7万円のプランを選んでいる。アメリカでは医療費のリスクは個人で引き受けなければならないのが現状だ。

 

最近、ナンシー・フレイザーという社会哲学者の『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』という本を読んだ。

 

アメリカの資本主義は、単なる経済システムという垣根を超え、社会システムとして組み込まれており、様々な問題を起こしていると、現代資本主義を批判的に論じている。

アメリカの健康保険制度はその典型的な例であろう。本来なら公共で守られるべき“健康”が、労働市場に組み込まれることで、”健康”がお金で買う対象となってしまっている。これは単なる制度の不備ではなく、資本主義が社会システムとして社会の奥底まで根ざしていることの証だ。

アメリカでは「労働市場に参加していないと、健康や老後の保障すら危うくなる」という構造がある。それでも多くの人、特に工場労働者のひとたちがトランプ政権を指示し、「小さな政府」を求め、市場原理を重視する方向に舵をきっている。今回の部下の退職を通じて、その危うさが改めて浮き彫りになった気がした。

 

「政府は手を引け」と叫ぶ声がある一方で、その結果としてセーフティネットが縮小している現実に、どれだけの人が気づいているのだろうか。特に、移民や女性の社会進出などの変化によって労働市場で不利な立場に立たされた人々こそ、その影響をもろに受けるのではないか。

アメリカ社会は、個人の“自由”を何よりも重んじる。しかし、その“自由”の名のもとに、多くのリスクは個人に委ねられる。私のような移民は、はなから大きなリスクを抱えたチャレンジャーで、アメリカの厳しい「自由」と「自己責任」の境界線を走り抜けて、今がある。既に「自己責任」の重さに押しつぶされている層が、「政府の介入を減らすべきだ」と叫んでいることに不思議さを感じてしまう(それがアメリカの保守であることはわかっているが)。

 

「かつてはもっと報われていたはずだ!」という彼らの訴えは、皮肉にも「もっと報われない」未来へと自らを導いている。だが、それが彼らの選び取った自由であり、それすらも尊重するのがこの国なのだ。

トランプ政権の“汚れ役”?ヴァンス副大統領と司法の綱引き

私が少しひいきにしているアメリカ副大統領のJDヴァンスの発言が物議を醸しているようだ。

バンス米副大統領が司法を批判し、波紋を呼んでいる。財務省が管理する個人情報に、政府の新組織「政府効率化省」がアクセスすることを差し止めた連邦地裁判事に対し「裁判官が行政の適法な権力を縛ることは許されない」とX(旧ツイッター)に投稿。三権分立の否定とも受け取れる内容に「専制だ」と反発の声が上がっている。バンス氏の司法批判に波紋 三権分立否定と反発

これは、アメリカ政治やトランプ政権のエッセンスがつまっていてなかなか面白い題材なので少し深堀りしてみたい。

 

そもそも日本語訳は適切なのか?

原文を見てみたのだが、正直「裁判官が行政の適法な権力を縛ることは許されない」の「適法な権力」という訳には少し違和感をおぼえる。私がコンテキストも加味して訳すなら下記のように訳す。

Judges aren't allowed to control the executive's legitimate power
裁判官が、行政府の正統な権限に介入することは許されない。

発言が「the executive's lawful power」なら「適法な権力」はしっくりくるが、あえて「lawful」と言わず「legitimate」という言葉を選択していることは汲むべきだ。「適法」という訳も文脈によっては間違ってはいないが、「legitimate」に含まれる「慣習に沿い、道義的にも妥当である」という意味合いも加味し、「正統な権限」というほうが適訳で誤解が少ない。

 

そもそもここでいう「正統な権限」とは?

では、ここでいう「正統な権限」とは一体何なのか?これは人によってわかれているが、私は文脈的には以下の通り捉える。

  • 政府効率化省(DOGE)と財務省(Treasury)は、共に行政府に属する

  • 行政府で重要な役割を担う人の任命権限は大統領にある

  • 行政府に行政命令をだす権限も大統領にある

  • 行政府内での役割分担や権限行使は大統領の「正統な権限」である

要するに、「行政府内の役割分担や権限行使について、司法が外からコントロールしようというのはおかしいじゃないか」と言っているわけだ。大統領が「COVID-19のワクチンを全国民摂取しなさい」と法律の裏付けなく国民に
強制するのはいけないけど、自分がトップの行政府内の差配については「正統な権限」があるんじゃないか、というのがここでのポイントだ。
ヴァンスは法律家らしく、「セイラ・ロー判決」という「大統領が行政府の大きな権限を持つ人を解任できない構造はおかしい」という過去の判決をひいてきているのも興味深い。

 

そもそもDOGEってどうなのか?

以上のことをみると、言わんとしていることもわからなくもないし、司法と行政の権力の綱引きのようにも見えなくもない。が、そもそもの政府効率化省(DOGE)の法的な位置づけが薄弱なところに問題の原点があるように私は思う。

各省庁というのは、法律によってその役割が定められ、議会によって予算も割り当てられている。その法律で定められた役割と割り当てられた予算に従い、行政を執行するのが、大統領をトップとする行政府の役割だ。

が、政府効率化省(DOGE)の役割を定める法律はないし、予算が割り当てられているわけではない。要するに、「タスクフォース」とか「諮問機関」なわけだ。その「タスクフォース」という位置づけの人たちが、「財務省(Treasury)のデータに好き放題アクセスするのは、正統で適切か?」、「国民の個人情報の保護という権利は侵害されないのか?」というところは重要な点であり、裁判官はそこを問うている。

半沢直樹シリーズの『銀翼のイカロス』で白井大臣が任命した帝国航空タスクフォースの悪役の乃原弁護士が、大臣に任命されているからと言って好き放題やる姿をイメージするとわかりやすいかもしれない(読んでない人は何のことやらと思うが)。

 

やっぱり無理筋

なお、私は、ヴァンス副大統領の『ヒルビリー・エレジー』が好きで、何度か紹介している。ラストベルトから生まれたアメリカンドリームの体現者であるヴァンスは、アメリカ社会の構造的な問題に切り込む可能性があるのではないかと、ちょっと期待している。なので、応援したい気持ちはあるのだが、やはりこれは無理筋だ。

立法府である議会の協力を得て、政府効率化省(DOGE)の役割と権限を法制化して、そこに予算をつける、これがあるべき順序だ。きちんと法的な枠組みを定めた上で、財務省(Treasury)の情報を存分に精査すれば良い。

上院も下院も共和党が過半数をとっているのだから、やればいいじゃないかと思うのだが、ここがアメリカ政治の面白いところ。多分、トランプもヴァンスも議会を通すことができるか微妙と思っているのだろう。

アメリカでは議員と大統領は全く別の選挙で選ばれており、連邦議員が大統領を支えるという発想はあまりない。党議拘束が強い日本の政党とは全く異なるのだ。トランプも前回大統領だった時に、「メキシコとの国境に壁を作る!」と言ったのだが、議会から予算が割り振られなかった、という痛い記憶があるので、慎重になっているのだろう。

大統領選挙の際に、大々的に掲げた政府効率化省(DOGE)が、共和党が過半数をとっている状況で議会を通らなかったら、出鼻をくじかれてしまう。多分、トランプ支持者の半分くらいは、大統領令が法律でないことも理解していないので、雰囲気と世論の風で押し切れるところまで押し切りたいと思っているのだろう。

 

頑張れヴァンス

以上のようなことを考えると、今回のヴァンスは汚れ役だ。当然、そういうお鉢が回ってくることを前提に職についているのだから、気の毒とも思わない。そして、こういう汚れ役を今後もヴァンス副大統領は引き受け続けることになるだろう。今回の件は残念ながら支持できないが、今後も引き続きネタを提供して欲しい。なお、アメリカ政治の構造については、下記が非常にわかりやすく、詳しいのでおすすめ。

 




わが家の「書評の日」—5年以上続けてわかった、子どもが本を読む習慣をつける方法

先日書いた『アメリカ生活11年、それでも「日本語が強い」わが家の子どもたちの話』という記事の、2週間に一度の家族の「書評の日」の部分への反響が大きかった。「子どもにもっと本を読んで欲しいな」というのは多くの親の共通の悩みだと思う。うちの事例が少しでも役に立てばと、わが家の2週間に一度家族で本を読んで書評を書くという「書評の日」について、もう少し深堀りして紹介したい。

 

まずは「目的」を共有する—子どもの納得感が大事

子どもにとって学校の課題とは関係なく2週間に一冊本を読み、書評まで書くというのはハードルが高い。その「書評の日」を定着させるには、なぜやるのかを家族で十分に話し合うことが不可欠。単に「文句言わずにやれ!」と言っても、子どもたちは納得しないし、どうせ長続きしない。

なので、開始にあたってわが家では、私から渡米して数年たち、家族全体で読書の量と質が下がっているという問題提起をしつつ、次のような目的を伝えた。

  • 読書の機会を増やしたい → アメリカ生活が長くなるにつれ、家族全体の読書量が減っているので「きっかけ」が必要

  • 読書は人生を豊かにする → 読書を楽しむことができれば、一生学び、楽しむことができる

  • 日本語力の維持 → いつか日本に戻るかもしれないので、日本語をきちんと使えることは重要

  • アウトプットの場を作る → 日本語での「書く力」はアウトプットが大事で、定期的に実施し、量をこなすことも大事

これらのことを、「子どもたちの問題」ではなく、親の読書不足を認めた上で「家族全員の問題」として、家族で一緒に取り組もうという提案とした。「やらされている」感が強すぎると長続きしない。が、「まぁ、だるいけど、やったほうが良いことはわかる」くらいに思えれば、まずはスタートラインに立てるし、長く続けるための土台にもなる。

 

親も一緒にやることが大事

「お父さんとお母さんは家事や仕事で忙しいけど、君たちは学生だからやりなさい」というのは、わが家では絶対に通用しない。「読書は人生を豊かにする」という見栄をきった以上、親も人生を豊かにすべく努力が必要だ。

また、環境は非常に大事だ。親が日常的に本を読んでおり、家に沢山の読む本がある—こうした環境が整っているかどうかは、子どもの納得感ややる気に大きく影響する。私の父は自宅に立派な書斎を構え、本に囲まれた生活を送っていた。私が読書が好きなのも、そんな背中を見ながら育ったことは大きい。別に、大きな書斎は必要ないと思うが、親が日常的に本を読んで学んでいる姿を見せることが、何よりの説得力になる。

 

「やる気」を引き出す仕組み

報酬制にするか?ペナルティ制にするか?
これについては、わが家の子どもたちで意見が分かれた。私は自分のためにする読書なのだから、報酬もペナルティもなくて良いと思っていたが、「そういうものがあったほうが続けやすい」という意見が子どもからでた。
最終的には、姉の意見が取り入れられ「やらなかったらゲーム時間が減る」というペナルティ制が導入されたが、結局、一度もペナルティが発生することはなく、今では存在すら忘れられてる

  • 「書評を書いたらご褒美がある」報酬型(ゲームの時間が増える、お小遣いをもらえる)

  • 「みんなで競う」ゲーム型(順位ごとのポイント制にして、ポイントを漫画と変えられるようにする)

など、仕組みは色々考えられるが、子どもの「これなら続けられそう」という声に耳を傾けることが大事だ。

 

書評を書く時間と場所を決める

わが家の場合は「2週間以内に本を読んで、書評を提出」と決めたところで、結局ギリギリまでやらないのは目に見えていた。そこで、下記の通り「書く時間と場所」をルーティン化することにした。

  • 書評を書くのは日曜日の午後に固定

  • スターバックスに行って、みんなで一斉に書く

  • その時は好きな飲み物を頼んでOK

おそらく近所のスタバの店員は、「あのアジア人家族、たまに来て、誰も話さずに、全員鬼の形相でパソコンをカタカタやってるけど、何者なんだ…?」と思っていることだろう。

でも、この「場所を変え、ちょっとした楽しみを加える」ことで、書評を書くことがイベント化し、自然と続けられるようになった。

 

フィードバックを丁寧にする

書いた書評を、読んでフィードバックしてあげることは、続ける上でとても重要

「とりあえず書いたから終わり」ではなく、「自分の文章がきちんと読まれ、評価されている」という感覚 を持たせることが、継続のモチベーションにつながる。

言い出しっぺなので、そのフィードバック役は私が担っているが、下記の点をいつも注意している。

  1. 必ず「良い点」から伝える
    「折角書いても、またお父さんに色々言われる」と子どもが思ったら続けることはできない。必ず良い所があるので、その部分はきちんと褒め、「自分が上手くできたこと」を伝えることは、モチベーション維持にも、「書く力」のアップにも重要。

  2. 改善点は具体的に
    「ここをこうすれば、もっと言いたかったことを上手に表現できたんじゃない」とお手本を示すことも大事。「あぁ、そういう言い方があったか!」と感じれば、すっきりするし、表現の幅も広がっていく。

  3. 指摘は1回につき1〜2点にとどめる
    ダメ出しが多いと、当然やる気は薄れていく。改善点が多すぎては返って逆効果なので、長く続けることができるよう配慮をすることが肝要だ。

楽しさも大事なので、漫画やテレビ番組のネタをとりいれることもある。例えば、わが家は「プレバト」の俳句コーナーが好きなので、書評のフィードバックをする時に

ここの着眼点はとても良いです。ただ、この部分の表現をもう少しこういう風に工夫すると、特待生も見えてきますね!

みたいなフィードバックを送ると、「ありがとうございます、夏井先生!頑張ります!!」みたいな返信があり、ちょっとした遊び心も加わる。

 

本選びは自分でする

どの本を読むかは、本人がそれぞれ決めることとしている。「読書の楽しさ」を覚えることがまずは大事なので、「自分が選んだ読みたい本を読む」というのをわが家では大原則としている。
「ちょっと背伸びした本」というゆるい目標設定をしているが、子どもの選んだ本を却下したことは一度もない。
もちろん、特定のジャンルに偏ることはあるが、それは「楽しんで読んでいる証拠」でもあるので、あえて制限はしない。あまりにも同じジャンルが長く続いた時に、「次は、こういう本を読んでみても良いかもね」と軽くすすめることもある。が、それはきっかけを与えているに過ぎず、子どもの決定を尊重している。
なお、一時期次に読む本を決めるまでに、5日ほどかかることが状態化したので、「書評の日」に次に読む本を決めるというルールを取り入れた。

 

「続けること」を第一の目標にする

今は2週間に一度の「書評の日」が完全に習慣となったが、そうなるまでに色々調整を繰り返してきた。その調整の過程では、完璧を求めすぎず、とにかく続けることに一番重きをおいた。

  • 書評のクオリティよりも、「書くこと自体」を評価する

  • たまに、本の読み込みも書評の内容のイマイチなこともあるが、「長く続ければ、そういう時もあるのは当然」とし、くどくど指摘をしない

  • 「やめないこと」を最優先にして、楽しく続けられる形を模索する

長く続ければ、子どもは間違いなく成長していく(大人はその限りではないことは私のブログがはからずも証明しているが)。本を読み、自分なりに考えをまとめることが、「義務」ではなく、「当たり前の日常」にすることが大事。そのためには、「続けること」に徹底的にこだわることだ。

 

まとめ:書評の日を続けるコツ

  • 目的を共有し、子どもが納得できる形にする

  • 親も当然一緒にやる

  • 楽しく続けられるルールを作る(報酬 or ペナルティ制)

  • 書く時間と場所を固定し、イベント化する(スタバなど)

  • フィードバックはポジティブに、指摘は最小限に

  • 何より「続けること」を最優先にする

「書評の日」を5年以上続けてみて、子どもたちの日本語力が確実に伸びたのを実感している。娘は日本に帰国し、現在受験小論文に取り組み中だが、小論文ではいつも一定以上の成績をおさめている。息子も書評ではないが先日行われた、とあるビブリオバトルの大会で優勝し、確実に成果をおさめている。
そして何より、家族全員が「本を読む楽しさ」に改めて気づくことができたのが一番の収穫だ。先日、息子が補習校の文集を書きながら、「あぁ、文章書くの、好きだわ」と言ったのを聞いて、「あの坊主が、、、」と泣きそうになった。

 

海外でお子さんの日本語力維持に悩んでいる方は多い。それぞれの過程がそれぞれのやり方で取り組んでいるだろうが、面白そうだなと思ったら、「書評の日」を試してみては。

日本で健康診断、アメリカで再検査? 在米日本人の医療との付き合い方

日本に一時帰国する際、私は必ず健康診断を受ける。もちろん、日本の保険には加入していないので全額自己負担になるが、日本の健康診断には十分その価値はある。

 

アメリカには定期健康診断という考え方はなく、保険の内容によってAnnual Physical Examがうけられるが、内容は身体測定に近い。アメリカでも「かかりつけ医(Primary Care Doctor)」を通して、日本と同程度の検査を受けることは可能であるが、天文学的な値段になることは間違いない。私は、日本では検査項目が多い10万円くらいのものを毎年受けているが、CTやMRIもしてくれ、アメリカと比べたら破格の値段だ。カリフォルニアでMRIなんて受けたらそれだけで50万円はくだらないだろう。

 

価格と品質の両面で日本の健康診断は最高だが、「要再検査」となると困ってしまう。一時帰国で健康診断を受けると、結果が出るのは、アメリカに戻った後だ。そこで「要再検査」となるとアメリカで受けないといけない。

 

私のいつも受ける健康診断にはがんの腫瘍マーカーが入っている。よくわかりもせずに沢山の項目を検査しているが、なぜかCA19-9という胆嚢がんや胆管がんを調べる数値だけ毎年高い。胆嚢が何なのかも実はよく知らないが、基準値を下回ったり、上回ったり毎年境界線をさまよっている。

 

今住んでいる所でその検査だけ受けると$200。天文学的ではないが、安くはない。一度受けたことがあるが、その際はすれすれ基準値を下回って無罪放免。だけど、まぐれと言えばまぐれで、その再検査にどれだけの意味があったのかは疑問だ。CA19-9という検査に対する医者の反応もまちまちで、

  • えっ!?CA19-9!がんの腫瘍マーカーじゃない、すぐに再検査ね!

  • へぇ、ところでなんでCA 19-9なんて受けたの?がんがあるの?

と人によって真逆の反応。今のかかりつけ医にいたっては、私の前でググって調べる始末。ググっても良いけど、患者に見えないように調べてくれよ、せめて。

 

日本人の二人に一人はがんになるというのに、がんという病気についてあまりに不勉強なので、この度、『世界中の医学研究を徹底的に比較してわかった最高のがん治療』という本を読んでみた。

 

本書は3人のがんの専門家が、基礎知識から、本当にするべき治療や検査を紹介するというもの。世にはびこる、がんについての勘違いやミスリーディングな情報に対して、専門家の視点から適切に指南するということを目的にしたもの。主要なメッセージは、「がんは、手術・放射線治療・抗がん剤治療という保険適用の標準治療が最高の治療であり、先進医療が優れているわけではない」という点。先進医療に対応した高い保険を売りつける保険会社や「とんでも医療」をまことしやかに法外な値段で売りつける民間医療がはびこる昨今の情勢に警鐘を鳴らしている。

 

がんの本は山のようにあり、本書だってそのうちの一つに過ぎず、単純に鵜呑みにはできない。が、本書が他書と一線を画するのは、あふれかえる情報の読み解き方を専門的な視点で解説をしている点だ。特に『第5章 「トンデモ医療」はどうやって見分けるのか』では、トンデモ医療を見分ける6つのポイントが求められており、情報の成否を判断する視点が提供されている。この章だけでも本書を読む価値は十分にある。本章の冒頭では

教育レベルや収入が高い人ほど、怪しいがん治療法にだまされやすい

という指摘が、実際の研究データと共に紹介されている。専門家、研究者らしく、常にその主張を裏付けるデータと研究が提示されているので、信頼度は高い。

 

なお、私が困っているCA 19-9については下記の記述が紹介されている。

CEAやCA-19-9などの腫瘍マーカーは、私たち医師が臨床現場で一般的ながんの診断の補助(すでにがんと診断されている方に対するがんの進行度の評価など)に使っている腫瘍マーカーであり、検診目的(がんかあるかどうかの評価)で使用することは推奨されません。がん検診に使うには感度が低く、がんを見逃してしまうことが多いからです。

確かに腫瘍マーカーは偽陰性と偽陽性があるというのは見たことがある。上記の引用は以前のかかりつけ医が「へぇ、ところでなんでCA 19-9なんて受けたの?がんがあるの?」ということとも整合し、納得感が高い。本書では、検査によってがの死亡率が減少している証拠のある、信頼度の高い検査方法が紹介されており、これも重要な情報だ。ここだけとっても、1,650円という本書の値段はお釣りがくる。

 

アメリカは医療制度が日本とは大きく異なる。2つの国の制度の違いは学ばざるをえないが、それ故に医療制度に対し、考える機会は増える。また、アメリカは自己負担の比率が高いので、「その検査や治療は本当に必要なものなのか?」ということを日本以上に考える機会がある。
医療は、もちろん良い医者にかかることは大事だが、それと同様に受信者側にそれなりのリテラシーが求められる。自分の身体のことなので、最後は自分で決断をくださなければならないことは、日本でもアメリカでも同じことだ。在米日本人として、日米の良い所をそれぞれ活かし、医療と賢く付き合っていきたい。

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